朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第30回

「○○感」という魔法の粉

2026.01.12更新

プロログ――迷子になった夜に

 その夜、私は完全に迷子になっていました。場所ではありません。言葉の海で、です。

 前に日本での出張があり、出版社に勤めている友人たちとの飲み会で、ある編集者が突然こう言ったのです。「今日のお店、すごく『おしゃれ感』があるよね!」 私の頭の中で、韓国語の辞書がパラパラとめくられました。「おしゃれ」はわかります。でも「感」って何でしょう? 感情の感? 感覚の感? それとも全く別の何か?

「うん、そうですね」と曖昧に相槌を打ちながら、私の心は小さなパニック状態でした。まるで誰かが私の言語地図に、見たこともない島を書き加えたような気分でした。その島の名前は「感」。形も大きさも、そこに何があるのかも、まったくわからない神秘の島でした。

 それから数日後、テレビで政治家が「スピード感をもって対処いたします」と言うのを聞きました。また「感」です。コマーシャルでは「高級感のあるデザイン」、友人のSNSには「手作り感がいいね!」。まるで街の空気中に「感」という目に見えない粉が舞っているかのように、あらゆる場所でこの言葉に遭遇します。私は日本語学習者として、そして街場の心理学者として、この不思議な「感」の正体を探る冒険に乗り出すことにしました。

1.街場で「○○感」の標本を収集してみましょう。

「感」の海を泳ぎ回るうちに、私の心に一つの違和感が芽生え始めました。それは小さな棘のように、最初はかすかでしたが、日を追うごとに鮮明になっていきます。

標本その1:「スピード感」という名の蜃気楼

 政治家やビジネスの現場で、まるで合言葉のように使われるのが「スピード感をもって対処します」という表現です。これもまた、実に巧みな言葉の魔術です。

 考えてみてください。本当に速い人は、「私は今から速く走るという感覚を大切にしながら走ります」などとは言いません。ただ黙って走り出すだけです。しかし、「スピード感」は違います。それは、最新のランニングウェアに身を包み、いかにも走り出しそうなポーズでスタートラインに立っている状態に似ています。その姿は確かに「速そう」に見えます。疾走している「感じ」がします。しかし、足は一歩も前に出ていないかもしれません。

 これは、本物の短距離走者と、スポーツウェアのファッションモデルの違いと言えるでしょう。モデルは走る「雰囲気」をまとっていますが、ゴールテープを切ることはありません。「スピード感をもって対処します」という言葉が響き渡っている間にも、肝心の問題はスタートラインの脇でコーヒーでも飲みながら一服している、なんてことが往々にしてあるのです。

標本その2:「やらされ感」という透明な鎧

 日本のテレビドラマを観ていると、職場などで耳にする「どうも『やらされ感』が強くて...」という呟き。これは、現代日本人のための「透明な鎧」とでも呼ぶべき、非常に便利な表現だと思います。

 正直に「この仕事、やりたくありません」と言えば角が立ちます。しかし、「やらされ感」という鎧を身につけると、「仕事はちゃんとやります。でも、私の心はここにありませんよ」という、絶妙な免責事項を表明できるのです。

 これは、魂の抜けたフランス料理のフルコースに似ています。メニューに書かれた料理はすべてテーブルに並びます。見た目も完璧です。しかし、どこか味気ない。シェフの情熱という一番大切なスパイスが欠けているのです。「やらされ感」をまとった仕事もまた、成果物としては形になっているかもしれませんが、そこには創造的な輝きや、もう一歩踏み込む粘りが欠けていることが多い。本人は「やらされているのだから仕方ない」と自分を守り、聞いている側も「まあ、気持ちはわかるよ」と強くは責められない。実に防御力の高い、しかし少し寂しい鎧です。

標本その3:「シズル感」という美味しい香り

 広告やグルメレポートで大活躍する「シズル感」です。ステーキが鉄板の上でジュージューと音を立てる、あの食欲をそそる「感じ」のことですね。

 これは、いわば「料理のグラビア写真」です。最高の照明と角度で撮影された料理は、実物以上に美味しそうに見えます。立ち上る湯気、肉汁の輝き、ソースの照り。そのすべてが「これは絶対に美味しいはずだ!」という物語を私たちの脳に直接語りかけてきます。

 もちろん、本当に美味しいからこそ「シズル感」が生まれる場合も多いでしょう。しかし、時には香りや音だけが主役になってしまうこともあります。それはまるで、中身は空っぽかもしれないけれど、最高に美しくラッピングされたプレゼントの箱のようなものです。私たちはその魅力的な包装紙に惹かれて、つい手を伸ばしてしまう。「シズル感」は、事実そのものよりも、私たちの五感に訴えかける「雰囲気」の方が力を持つことがある、ということを教えてくれる興味深い標本なのです。

 このように見ていくと、「〇〇感」という言葉は、現実との間に一枚、薄いフィルターやクッションを置く役割を果たしているようです。そして、そのフィルターは時として、私たちの目をごまかし、本質を見えにくくさせてしまうのかもしれません。魔法の粉が舞う世界を歩くには、時々目をこらして、その向こう側にある「事実」の輪郭をしっかりと見つめる必要があるようですね。

2.見えないファッション「エクリチュル」の世界

 言葉には不思議な力があります。私たちが言葉を操っているつもりでも、いつの間にか言葉に操られている。まるで服を着るように言葉を纏うのですが、その「言葉の衣装」が私たちの肌に染み込み、やがて第二の皮膚となってしまう。

 フランスの思想家ロラン・バルトが語った「エクリチュール」という概念があります。これは単なる「書き言葉」ではありません。ある社会の特定のグループが共有する、思考の型や世界観まで含んだ言語のスタイルのことです。私たちは知らず知らずのうちに、様々なエクリチュールを着替えて生きています。

 友人へのメール、上司への報告書、恋人への手紙。それぞれに異なる「言葉の制服」を着ています。最初は意識的に演じていたはずの「営業マンらしい話し方」が、いつしか自分の自然な話し方になってしまう。政治家が国民に向けて語る時の、あの独特な口調と表情も、最初は演技だったかもしれません。でも何年もその「政治家エクリチュール」を着続けているうちに、もうそれを脱ぐことができなくなってしまう。言葉は私たちの身体にまで刻印を押すのです。

 そして今、日本の社会を覆っているのは「○○感エクリチュール」とでも呼ぶべき、新しいスタイルです。この言葉の制服は、とても着心地がよく、誰にでも似合います。断定を避ける「曖昧さ」、責任を分散させる「非人称性」、事実よりも雰囲気を大切にする「情緒性」。まるでユニクロの万能Tシャツのように、機能的で、トレンドで、お手頃価格です。

でも問題は、みんなが同じTシャツを着てしまうことです。電車の中を見回すと、みんな同じ服を着ている。誰が誰だかわからない。個性が消えてしまう。そして何より怖いのは、私たちがそのTシャツを脱げなくなってしまうことです。

3.街場に溢れる「○○感」標本箱、そして韓国との言語的共鳴

「○○感」の世界は、まるで博物館の標本箱のように多様で興味深いものです。私はこの数年間、街の隅々で「感」を採集し続けてきました。

 恋愛の世界には「彼氏感」「彼女感」という面白い標本があります。SNSでアイドルの写真に「この写真、彼氏感すごい!」とコメントが付くのを見たとき、私は日本語の創造力に感嘆しました。これは韓国のファン文化でよく使われる「남친짤(ナムチンッチャル)」「여친짤(ヨチンッチャル)」という表現とほぼ同じ概念です。「남친(恋人)」+「짤(画像の俗語)」で、「恋人が撮ったような親密な写真」を意味します。

 商業の世界では「手作り感」「シズル感」が大活躍しています。これらも韓国語の「수제느낌(手作りの感じ)」「맛있어 보이는 느낌(美味しそうな感じ)」と通じるものがあります。マーケティングにおいて感情に訴えかけるこの戦略は、東アジア文化圏に共通する現象なのかもしれません。

 他にも「ちょうどいい感」は韓国語の「적당한 느낌」、「一体感」は「일체감」として、ほぼ同じ意味で使われています。このような言語現象の類似性を見ていると、私たちが共有している文化的な感性の土壌の深さを感じずにはいられません。

 街を歩けば、まるで桜の花びらのように「○○感」が宙に舞っています。そしてそれは海を渡って、隣国でも似たような花を咲かせているのです。私たちはその花吹雪の中を、知らず知らずのうちに歩いているのです。

4.言葉の森の古き泉――「わびさび」から「いき」への遠い道のり

 ただし、「○○感」のすべてが薄っぺらいわけではありません。その中には、この「感」という言葉でなければ捉えられない、繊細で奥深い美学が宿るものもあります。言葉の森をさらに深く分け入ったとき、私は古くから湧き出る泉のような、豊潤な言葉の世界に出会いました。

 その代表格が、ファッション界でよく使われる「抜け感」です。これは完璧に決めすぎず、どこかに意図的な「隙」や「崩し」を作ることで生まれる洗練された雰囲気のことです。フォーマルなスーツにカジュアルなスニーカーを合わせる。シャツのボタンを一つ余分に開けて、襟を少し後ろに引いて着る。そんな絶妙なバランスが醸し出す、緊張感と余裕が同居した美しさです。

 そして、もう一つ私の印象に残っている「抜け感」という言い回しの事例があります。たとえば生田斗真氏がテレビ朝日のドラマ『書けないッ!?〜脚本家 吉丸圭佑の筋書きのない生活〜』の作風を語ったときの使い方はこういう感じです。

「いい感じの抜け感があって...」

 おそらく作品全体の雰囲気が、ガチガチに作り込んだものではなく、自然でユーモアがあり、肩の力が抜けているという意味でしょうね。つまり、ここでの「抜け感」は、俳優としての表情や演技の自然さ、ドラマ自体のゆるやかで親しみやすい雰囲気を褒めるときに用いられていると思います。

 この感覚に触れたとき、私の頭に浮かんだのは、日本の伝統的な美意識である「わびさび」でした。「わびさび」とは、静けさや質素さの中に美を見出す心、そして何より、不完全なものや時間の経過によって変化したものの趣を愛でる感覚です。ピカピカの新品ではなく、少し欠けた茶碗や、苔むした庭石にこそ、深い物語と美しさを見出す心性。

 考えてみれば、現代のファッションで重宝される「古着感」や「ヴィンテージ感」、インテリアにおける「アンティーク感」も、この「わびさび」の精神の末裔と言えるかもしれません。誰かの時間と物語が刻まれた傷や色褪せにこそ価値を見出す。その、数値化できない複雑な価値を表現するために、「感」という言葉は実にしっくりくるのです。それは単なる「古いもの」ではなく、豊かな歴史を感じさせる「古着『感』」なのですから。

 また、ある日本の友人は、「『抜け感』の神髄を理解するには、『いき』を知らなければならない」と、まるで秘密を打ち明けるように教えてくれました。

 ここで正直に告白しなければなりません。日本語学習者として、そして文化を研究する者として、様々な文献を読みましたが、私にはまだこの「いき」という言葉の本当の意味が、肌感覚としてはわかりません。哲学者の九鬼周造がこれを「媚態」「意気地」「諦め」の三つの要素から分析したことは知っています。それはまるで素晴らしい料理のレシピを読んでいるようです。材料と手順はわかっても、実際にその味を体験したことのない私には、その絶妙な風味は想像するしかないのです。

 この「いき」という感覚を本当に理解するには、おそらくこの国でさらに多くの時間を生き、人々と交わり、言葉の裏にある空気を吸わなければならないのでしょう。それは、街場の心理学者としての私の、長く、しかし心躍る宿題なのだと思います。

 しかし、完全に理解できなくても、これらの言葉――「わびさび」や「いき」――が、完璧さや合理性だけではない、もっと曖昧で、豊かで、そして人間的な価値を大切にしてきた日本の文化の深層を指し示していることは、ひしひしと伝わってきます。「○○感」という言葉の森の奥深くには、そうした古からの泉が今もなお湧いているのかもしれません。こうした言葉のありように触れると、日本語という言葉が、どれほど深く広大な知恵のアーカイブであるかを思い知らされます。そして同時に、悟るのです。言葉によって何かを新しく生み出すという創造の営みは、やはり自らの母語という大地にしっかりと根を張ってこそ、初めて可能になるのだと。

 内田樹先生はかつて母語のアーカイブの巨大さについてつぎのように述べています。

 われわれが使っている日本語のアーカイブのうちには、これまで日本列島に住み、言語を語ってきたすべての人々の記憶と経験が蓄積されていて、「淵」のようなものをかたちづくっている。この「淵」からしか、新しい言語的な創造を汲み出すことはできない。江藤はこの母語のアーカイブのことを「沈黙の言語」と呼びます。かつて同じ言語を語ったすべての死者たちから遺贈された言語経験の総体、その「淵」に立つことによって初めて文学的な創造ができるのだ、と。

――内田樹『日本の覚醒のために』晶文社、219頁

 ビジネスで使われる「温度感」「規模感」にも、同様の深みがあります。「彼はこの問題の温度感がわかっていない」という時、それは単に知識不足を指すのではありません。問題の切迫性や当事者の感情といった、数値化できない微妙なニュアンスを肌で感じ取れていない、という意味が込められています。まるで熟練の料理人が火加減を調整するような、経験と直感に基づいた繊細な感覚の話なのです。

 このように、「○○感」という言葉は、責任を回避するための便利なスカーフになることもあれば、言葉では説明し尽くせない文化の深淵を垣間見せてくれる、不思議な窓になることもあるのです。

5.言葉と魂の緊張係を取りすために

 結局のところ、悪いのは「○○感」という言葉そのものではないのでしょう。問題は、私たち使い手の姿勢にあります。

 私たちはなぜ言葉を発するのでしょうか。それは自分の唯一無二性を証明するためではないでしょうか。「私以外の誰も言ったことがなく、私がいなければ永遠に語られることのない言葉」を探し当てること。その言葉の発見者、創造者であることによって、自分という存在の特別さを確認すること。言葉と私たちの間には、本来そのような緊張関係があるはずだと私は考えます。

 でも「○○感エクリチュール」は、その緊張感を和らげ、私たちを心地よい共感の温湯に誘います。誰もが同じ「ちょうどいい感」のTシャツを着て、同じ「一体感」に安住してしまう。そこでは言いよどみや前言撤回といった、個性が宿るはずの不完全さは排除され、滑らかで角の取れた言葉だけが流通します。

 フランス語に "se dire" という動詞があります。「自分自身に語る」という意味です。私たちは自分の口から出た言葉を、少し遅れて自分の耳で聞きます。その「語る自分」と「聞く自分」の間にある微細な時差とずれ。それでもなお「これは紛れもなく〈私〉の言葉だ」と確信する瞬間。そこにこそ、自己同一性という奇跡が宿るのかもしれません。

 私たちはもっと、自分の内側から響いてくる言葉の「体感」に耳を澄ませてもいいのではないでしょうか。その言葉が外の世界に与える政治的効果よりも、自分の魂に響かせる未知の振動を優先してみる。自分の身体が、魂が、本当に気持ちよいと感じる言葉を探し当てる。たとえそれが少し不器用で、言いよどみを含んだ言葉であったとしても。

 時には「○○感」という便利で美しいスカーフを外して、自分の首の線や肩の形と真剣に向き合ってみる。少し寒いかもしれません。でも自分の体温を感じることができるでしょう。自分だけの言葉の体温を。

エピログ――旅はまだ始まったばかり

 かつて友人から不意に投げかけられた「今日のお店、すごく『おしゃれ感』があるよね!」という言葉。それは当初、私にとって解読不能な暗号のようなものでした。昆虫採集の標本箱にうまく収められない、見たこともない不思議な蝶に出会ってしまった時のような、小さな当惑を覚えたのです。

 しかし、あの時の小さな当惑をきっかけに、私はいつしか、自称「〇〇感ハンター」となっていました。街の会話に耳を澄ませ、書物の森をさまよい、様々な「〇〇感」たちを捕獲しては、その生態を観察する日々。そうして自分だけのささやかな標本箱が埋まるころ、不思議なことが起こりました。あの暗号が、まるで身体の奥深くにすっと染み込むように、その輪郭を現し始めたのです。

 今なら、あの言葉の持つ絶妙なニュアンスが、肌感覚でわかる気がします。

「このお店、おしゃれですね!」が、被写体を正面から捉え、その美しさを断言する鮮明なポートレート写真だとすれば、「すごく『おしゃれ感』があるよね!」は、その被写体が「おしゃれであろう」と努めている微笑ましい努力の跡や、その場の空気全体が醸し出す「おしゃれな雰囲気」という名の香りを、ふわりと写し取ったスナップ写真なのかもしれません。それは事実の断定ではなく、共感のささやき。

 かつて私の頭を悩ませたあの不思議な蝶は、今では私の心の中をひらひらと、実に心地よさそうに飛んでいます。

 街場の心理学者として、そして一人の日本語学習者として、私の「○○感」探求の旅はまだ始まったばかりです。この不思議な言葉は、これからも時代を映す万華鏡のように、さまざまな表情を見せてくれることでしょう。

 あの迷子になった夜から数年が経ち、今では私も「感」の使い手の一人になっています。でも時々、あの時の困惑を思い出します。言葉の地図にない島を発見した時の、あの小さな冒険心を。その感覚を忘れずにいたいと思います。

 言葉は生き物です。私たちと一緒に呼吸し、成長し、時には私たちを裏切り、時には思いがけない美しさを見せてくれる。「○○感」という現代日本の言語現象を通して、私たちは言葉と人間の関係そのものについて、多くのことを学べるのかもしれません。

 私もまた、「○○感」という既製品の服に安住するのではなく、時には窮屈でも、自分の身体の線に沿って仕立てられた、世界に一着だけの言葉を探す旅を続けていきたいと思います。その旅の途中で出会う風景や人々のことを、また皆さんにお話しできる日を楽しみにしています。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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