朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第7回

「乱暴」ってあの「乱暴」のこと? Ⅰ

2024.08.06更新

 僕が筑波大学(大学院)に留学していたころ(いまからちょうど24年前のことですが)、新学期が始まると、キャンパス内ではいつもおもしろい光景を見かけるようになりました。それは「自転車渋滞」という光景です。筑波大学は学内があんまりにも広すぎて、たとえば学生たちが学生寮から歩いて授業に行ったり、図書館に行ったり、食堂に行ったりするのが大変なので、みんな自転車で移動しています。ですから学内は学期中はいつも「自転車渋滞」で大変混雑していました(いまも事情はあんまりかわらないと思います)。
 ある日、同じ研究室の後輩のT君が研究棟の前に止めてあった、何台もの自転車を見つめながらこう言いました。「みんな乱暴な止め方してるな。迷惑だから、もうちゃんと止め切ってほしいんだけどな・・・」と。
 彼の日本語の「乱暴」という言葉の使い方を耳にしたとき、僕は「おお、日本語ではそういう使い方もあるのか・・・」と新鮮な感じがして、思わず嘆息してしまいました。後で、辞書で調べてわかったことですが、この文脈での「乱暴」という「言葉」は「(注意が足りず)丁寧でないこと」の意味ですね。
 同じ漢字文化圏だから韓国語にも「乱暴」という言葉はもちろんありますが、日本語のような使い方はまずしません。韓国語では、「乱暴」はたとえば「乱暴な行動」、「乱暴な人」という使い方があるくらいでしょうかね。
 なので、韓国語話者である僕にとって「乱暴な止め方」や「字を乱暴に書く」や「 『非常識主義者を排除せよ』というような乱暴なことを僕は言いません 」という言い方はいまだに新鮮で、かつよそよそしいです。
 韓国人の言語感覚だと、こういう光景を目の当たりにすると、「みんな意のままに自転車を止めてるね。なんとかならないのか」(直訳になると思いますが)という表現を使うはずだと思います。ところが、僕が知っている限りでは、日本語ではこういう言い回しは使わないでしょうね。
 いきなりですが、ここで一つ唐突な問いかけをしたいと思います(実は「唐突」という言葉自体も、ニュアンス的に韓国語と日本語のあいだの差があると思いますが、それはさておき)。上の自転車の止め方について、「韓国語」と「日本語」どちらの表現がその出来事をもっと「正確に」あらわしているのでしょうか。あるいはこう問いかけてもいいと思います。両言語のうち、どちらの方が「世界」を描くにあたって「真実含有率」が高いのでしょうか。
 あるいは、最近のうだるような異常な暑さをあらわす日韓の言葉を直接比較してみるのもいいかもしれません。日本語だと、 「各地で35℃を超える猛暑日となりました」というあらわし方があるように、真夏の暑さのことを「猛暑」と言いますが、韓国語では猛暑のことを「暴炎(ポギョム)」と言います。「猛暑」と「暴炎」どちらの方が「暑さ」をもっと正確にあらわしているのでしょうか。
 ところが、こういう問い方は「言葉とは何か」という問題について、われわれが無意識的に(普通に)縛られている、ある種の予断を含んでいると僕は思います。それは「言葉」というのは、世界を「正確に」描きあげる道具であるという予断です。言い方を変えれば、「言葉」は「真実」あるいは「事実」を正確にあらわす道具であるという予断です。
 せっかくなのでここで「言葉」を操って一つの出来事をなるべく「正確に」 描破する「思考実験」をやってみましょう。
「筑波大学の心理学系棟(懐かしいな!!)の近くで、自転車に乗っている30代の男性(当時僕のことです)がいます」。この彼の状態をできるだけ「正確に」言葉で(もちろん日本語で)だれかに伝えようとします。さて、どのような「正確な」言葉で記述することができるでしょうか。とにかく最大限「正確に」やってみましょう。
「建物がいっぱい並んでいるところで、自転車の速度の二乗に逆比例する角度で東南から北西の方向へハンドルを切りながらかろうじてバランスを保つことをしている、ヒト種の黒い髪の毛の生後399ヶ月のオス」
「正確」な記述を期待していたみなさんは満足できたでしょうか。「いや、満足できない」、そうおっしゃる方の顔がみえる。では、もっと「正確に記述してみましょう」。
「立派な建物がきわまりなくひろがっているあるところで、鉄とプラスチックでつくられた高さ1mの乗物には、 午前9時17分、誕生後33年3か月8日経っている、性別男、身長1m75cmぐらい、 外国人に見える体重68kgぐらいの人間がその乗り物を自分の二つの足で一所懸命操作している」。え。。。。この描写でももの足りない?!?
 では、もっともっと「正確な記述に挑戦してみましょう。」「どうみても我々と同じく地球人に見える、手が二つ、足が二つ、顔が一つ、体の大部分は繊維質の外皮に包まれている・・・」。
 いや、やめときましょう。 その気になれば、これ以上いくらでも「正確に」記述できることは間違いありません。これ以上記述を続けると、みなさんは途方もなく破天荒な物語的可能性を「思いつける」僕の想像力の「節度のなさ」に遭遇するだけでしょうね。
 筆者は、一生かかって『筑波大学のキャンパス内で自転車に乗っている30代の男性について』という本を書き上げるでしょう、 しかし、 その本は果たして完成するのでしょうか・・・。
 世界一「正確な」 世界地図を作ろうとして、世界をもう一つ作ってしまったという男の話があります。この男と「自転車〜」の本を作ろうとした筆者と共通しているのは、「正確さ」という概念に囚われてしまった点ですよね。ともに、ある意味で「正しさ」に向かおうとして結果的に「誤って」しまったわけです。
「世界地図」のほうは、膨大な資材と年月を用意したうえで、新たな技術が開発されれば、 何とか完成品(のようなもの)はできるでしょう。しかし一方、「自転車~」の本は、どのような材料をつぎこんでも、そしてどのような新たな技術が開発されても、未完の大作のままに違いありません。
 それは、 本の材料が 「言葉」であることに由来します。
 世界地図の問題は、実物のコピーをどうやって忠実に作るかですが、「自転車~」についての本の問題は、実物をどのように「言葉」につくりかえていくか、という問題であり、両者の抱える問題は根本的なところで異なっています。
 しかし、両者が果たしてどのような結果になるかは別として、「正確さ」という方向が深まっていくにしたがって、 「正確さ」だけではなく、それとは異なる「意味」を伴っていくことには注意しなくてはなりません。その「意味」とは「無意味」のことです。
「無意味」と書いておいてすぐに前言撤回するのも気が引けるのですが、「無意味」という言い回しはちょっと言いすぎなので、なかったことにしてください。というのも、私たちは、ある高名な物理学者によって、自分が自転車に乗るとき、いつもハンドルの曲率と左右の傾きの角度が、物理法則に則ったかたちで、きわめて正確に対応していることを数値的に示される場面に遭遇する可能性だってあり得ますからね(そういわれると、みんなきっと驚くに違いないとは思いますが)。
 同じロジックで、自転車のことを全く知らない「火星人に自転車に乗る楽しさを説明する」という設定を考えるときは、「どうみても我々と同じく地球人に見える、手が二つ、足が二つ、顔が一つ、体の大部分は繊維質の外皮に包まれている・・・」という記述の仕方も意味をなすでしょうね。もちろんこの記述が、通常の日常生活を営んでいる我々にとってほとんど意味をなしていないことは間違いないでしょうね。
 なお、その高名な物理学者も自分がスーパー行くために自転車に乗るときは、やはり、その物理学的な原理に従って中心の傾きにハンドルの曲率を対応させることをしているわけではないと思います。もしそんなことをしていたら、おそらく次にどうするかを考えているあいだに転んでしまうに違いありません。
 我々が「言葉」について考える時、忘れがちなのは、およそ言葉は「文脈依存的」だということです。つまり、 言葉は文脈に応じて用いられ、文脈に応じて適当な意味が充当されるということです。たとえば、一見文脈から独立であるような表現、「午後3時」といった言い方ですら、文脈依存的です。僕が日本を旅するとき、たまに利用している、「高崎行きの北陸新幹線」の発車時刻なら「午後3時」は1分くらいの幅をもつかもしれないけど、 ロケットの打ち上げ時刻なら、1秒の幅ももちえない。あるいは僕が毎日コーヒーを飲む時間だったら10分以上の幅をもつ、という具合です。
 しかしながら、「文脈依存的」であるからといって、一切の言葉、あるいは表現が「曖昧」だということにはなりません。なによりも、わたしたちは、自分たちの用いる言葉が「曖昧」だと感じることは、事実としてあまり(ところか、ほとんど)ありませんから。
 ここで一つ思いついたことですが、既成の「言語学」や「心理学」そして「社会学」といった科学以前の、日常生活において、人びとの用いる表現は、 その意味がしばしば曖昧で、 とてもそのまま科学的営為のなかで用いることはできない。意味が曖昧だということは、言い換えれば、 その表現が用いられる文脈に応じて、その意味がコロコロ変わってしまうということですね。それに対し、 科学の言語は、あらゆる文脈を通じて不変の意味をもっていなくてはならない。さもなければ、 科学は普遍性を主張することができないと考えられてきました。ですから既成の学知の歴史は「曖昧な表現」を「厳密で客観的な表現」に置き換えてきた歴史でもありました。
 しかし、「科学」という名でふさわしいことをしようとするならば、普段我々が日常生活で使っている「言葉」を我々自身が「曖昧」だと感じていない、そのこと自体を「科学」する必要があるのではないでしょうか。
 真に科学的な知性は、「些事のエリア」における出来事についても、つまり「一見曖昧に見える言葉遣い」のようなこまごました現象についても、それがある種の包括的な理説によって説明可能であると考えるに違いないと思います。
 誤解してほしくないのですが、それは「すべては科学で説明できる」と公言するいわゆる「科学主義者」の単純さとはまったく別のものです。そのような単純な「科学主義者」は「科学では説明できないこと」を簡単に「妄想」や「錯覚」にカテゴライズしたり、「曖昧な表現を客観的で厳密は表現に」置き換えたりして、ためらわず視野から排除してしまいます。
 でも、真に科学的知性は、そうではない。それは「あらゆる現象を勘定にいれる」ことのできるしなやかさと度量の深さを必ずともなっていると思います。それは彼らが科学的理説の「極限」近くで仕事をしているからでしょうね。「極限」近くの境域は、定説化した科学的理説がしばしばうまく適用できない場面です。
 そのような「酸素の薄い」エリアで仕事をしている人はむしろしばしば「日常的言葉」のように「非科学的と思えるもの」に惹きつけられる傾向があります。それが科学的理説の豊饒化(つまり「極限」をすこしだけ先に広げる可能性)にとって生産的な刺激であることを知っているからでしょうね。
 さて、ここまでの議論を通して「言葉」について一つ言えることは、「言葉」は単に世界に起きていることを写しとるためだけに用いられるわけではない、ということです。言葉を用いることは、とりもなおさず、「なにかをすること」にほかなりません。
 これについては、社会学者のサックス(Sacks, H.) が、こんなふうにいっています。
 わたしたちは、しばしば報告をする。「今日・・・があった」、「今日・・・がなかった」「いまちょうど・・・していたところだ」、というふうに。このような報告の内容はたいてい真実ですが、その報告がまさにその時なされたのは、それが単に真実であるから、とは考えにくい。というのも、真なる報告は無限にありうるからです。とりわけ、「今日なかった」ことについて、それは明らかですね(「今度野崎さんは韓国に来なかった」、「今日雨が降らなかった」「今日の昼、僕は具合が悪くてサムゲタンを食べなかった」など。これらはみんな真実です)。
 わたしたちが真なる報告をするのは、それが真であるからではなく、それによってなにかをするためです。
 たとえば、「文房具いれのなかにセロテープがなかった」と言うことは、子どもを(それを使用後もとに戻しておかなかったことについて)非難することでもあります。言葉を用いることは、世界を写しとることだけでなく、むしろ、世界内の出来事(つまり活動・行為)をつくり出すことでもあります。
 言葉の使用はこのように行為、もしくは活動とともにある。言い換えれば、言葉は、実践的な目的のために用いられるわけです。だから、この目的に適っているかぎり、文脈依存的な表現も、けっして曖昧なものではありません。あるいは、実践的な目的に照らしてみたとき、冒頭で実感してもらったように不必要に詳細な言い方のほうが「曖昧」であったりします。たとえば、道路が渋滞していることを人に知らせようとするとき、「車がたくさん連なっている」と言うほうが、ある区間の車の台数を言うより、「はっきり」しているように思う(実際僕など、何キロの区間に何台あれば渋滞になるのかわからないから、具体的な数字を例示することすらできません)。同様に、僕が毎日コーヒーを飲む時間について、「午後2時56分3秒から3時4分47秒のあいだ」などと言うなら、かえって何が言いたいのか「曖昧」になりかねないです。
 ウィトゲンシュタインは「科学的言語あるいは理想的言語」と「日常的言語」を「滑りやすい氷」と「ざらざらした大地」にたとえて説明しています。具体的な現実には「粘り気」があるのに、理想化された言葉の理論は「滑りやすい氷」みたいで、摩擦が足りない。綺麗なんだけど、動きが取れないということですね。それで氷を離れて「ざらざらした大地」へ、というのが彼の後半の「言語哲学」の立場です。
 僕はヴィトゲンシュタインの言葉の中でも「ざらざらした大地」という言い回しが好きです。そして、「ざらざらした大地に生きている言葉」という観点から見れば、日本語の「みんな乱暴な止め方してるな。迷惑だから、もうちゃんと止め切ってほしいんだけどな・・・」と韓国語の「みんな意のままに自転車を止めてるね。なんとかならないのか」は「正確さ」や「真実含有率」のレヴェルで見るべきではなく、その言葉を使うことによって話者はなにをしようとしているのか、というレヴェルで見るべきでしょう。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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