僕の老い方研究僕の老い方研究

第8回

ここでしていいの?

2023.12.08更新

 「ここでしていいの?」

 「そこでしていいよ」

 「ここでしていいの?」

 「そこでしていいよ」

 「ここでしていいの?」

 「ここでしていいよ」

 母とトイレにいくと、このやり取りを繰り返す。

 「ここでしていいの?」とは「ここでおしっこをしてよいか?」という母の問いで、僕は「そこでしていいよ」と答える。

 なぜかしら、この簡単なやり取りが成立しない。母が「ここ」と聞いているのに、僕が「そこ」と言うので、分からないのかもしれない。

 「ここでしていいよ」と言い換えてみたが、母はおしっこをしない。したくてたまらないのに、「あ~」と声を震わせ我慢する。母から言葉が剥がれている感じがした。

 おそらく「ここ」という言葉を自ら使いながらも「ここ」が「どこ」か、分かっていないのだ。僕はそのことが分かっていなかった。 

 なので、あの問答を繰り返すうちに、イライラが募り、「ここでしていいち、言いよろうが!」とキツイ言葉を放ってしまうのだった。それだけに収まらず、母を追い詰めるような暴力的な言葉を浴びせてしまった。

 「こんな簡単なことも分からんのなら、精神病院に入るね?」と僕。

 「イヤ」と母。

 「じゃあ、俺が精神病院に入る」と僕。

 「イヤ」と母。

 「じゃあ、一緒に入ろうか」と僕。

 間髪入れず母はこう言った。

 「あんただけ入れ。見舞に行ってやる」と。

 ウイットに富んでいるだけでなく、エスプリの効いた返しに少し面食らった。

「ここでしていいの?」「そこでしていいよ」

 こんなに簡単なやり取りのできない人が、あのような高次元の会話ができるものだろうか。待てよ、もしかして、実感と言葉が一致することのほうが、むしろ高次元と言えるのかもしれない。精神科入院の会話は実感の伴わない形式的なものであって、ひとつの雛型のようなものではないか。昔から皮肉を込めながらも嫌味のない一言が母の持ち味だった。

 それはともかく、何故に僕はあのような怒りに支配されてしまったのだろうか。怒りの矛先は本当に母だったのだろうか。そこには別の何かがあるように感じた。

「ここでしていいの?」「ここでしていいよ」 

 こんなにも簡単なやり取りなのに上手くいかない。そのことに怒ったのは僕ではなく、言葉だったのではないか。言葉は通じることに意味を持つ。それが叶わなかったことに、言葉が腹を立てたのだ。

 僕自身が怒りに支配されたように感じたのは、自意識と言葉が一体化していたからだ。つまり、僕は言葉を自分のものとして所有していたのである。よって、言葉が通用しなかった時、僕の自意識が傷ついたのだ。

 

 僕と母の間には常に暴力が存在しているのであって、自意識が言葉を所有することで一体化し、僕の心に暴力を招いてしまった。さらに目的の達成のために言葉を手段化すればするほど、暴力は加速していく。なぜなら、手段化された言葉は、目的の達成と自意識をさらに一体化させるからだ。

 僕が奇しくも介護の仕事を続けられた理由に、もうひとつの言葉の存在に触れたことがあると思う。考えてもみれば、僕は言葉を目的達成の手段にすることに疑いがなかった。むしろ、磨きを掛けなければと考えていた。

 言葉があるからこそ、他者と協力することができ、ひとりでは不可能なことでも、成し遂げることができる。実はその素晴らしさに寄り添うように暴力が存在していたのである。

 なんと、手段化された言葉(言葉を所有した自意識)に潜む暴力を無効にするのが、ぼけのあるお年寄りだった。

 口をもごもご動かし続けるミヨさんに「その中に何が入っているのですか?」とリンゴのスライスが入っていることを知っていながら尋ねてみた。ミヨさんは「希望」と答えた。それも、どや顔で。それを聞いた僕たち職員は「よかった、絶望が入っていなくて」と喜んだ。

 クニオさんから「私の娘の父はどこにいるのでようか?」と尋ねられたとき、「えっ~と」と考えたまま僕は一瞬フリーズした。娘の父はあなたではないか。

 「こうのいのねのそのにきが痛い」と言うイマさんの痛いところは最後まで分からずじまいで、未だもって謎である。

 家に帰りたくてしょうがないミチさん。あれこれと理由をつけて、帰宅時間を先延ばししている僕に「その噓、本当?」と聞く。ミチさんはすでに嘘であると見抜いているが、そのことを自覚していない。

 「お風呂にはいりましょう!」と声を掛けると「入りますん」と応えるノブコさん。「入ります」が寸前のころで「せん」となった感じだった。もしや入浴したくないのでは? と察しはついたが、本当の気持ちは分からなかった。

 

 いまいちよく分からないけれど、曇りのない言葉。意味は通じなくても実感のこもった言葉。ぼけが言葉を所有させず、図らずも言葉を手段にできない世界から学ぶことがあるように思う。 

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に 『ぼけと利他』 (伊藤亜紗との共著、ミシマ社)『ぼけてもいいよ』『看取りケアの作法』『おばあちゃんが、ぼけた。』『シンクロと自由』など多数。

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