僕の老い方研究僕の老い方研究

第10回

お札は貼ってあるだけでいい

2024.02.13更新

 チホコさんは独りで暮らしている。パズルが好き。猫が好き。お話しが好き。傾聴ボランティアをしているというが、僕はチホコさんの話を聞くのが好きだ。ちょっと高くて大きな声は聞く者の心をにぎやかにする。

 公民館で行われた人権学習で、老いとぼけの世界について話したことがある。チホコさんは最前列に座っていた。質疑応答の時間になると、真っ先に手を上げて心情を吐露した。

「わたし、独りでくらしているのよね。これから先、どのように老いてゆけばよいか不安なの」

 たしか、そのようなことを言った。

「不安ですよね。先のことを考えすぎるとかえって不安が募ります。それよりも『何かあったら飛んで行くこと』に力を注ぎたいんです。もし、チホコさんに何かあったら電話をください。何はともあれ飛んで行く体制をみなさんと一緒につくりたいです」

 たしか、そのように答えた。

 漠たる不安に対抗できるのは漠たる安心だ。

「なんとなく大丈夫な気がする」と思えることが肝心なのだ。そんな根拠のない安心は、何かあったら飛んできてくれる存在を信じることで生まれてくる。

 

 年末年始を独りで迎えるお年寄りに、僕たちはビラを配る。「何かあった電話をしてください」と書き込んで太文字の番号をデカデカと記す。それを自宅の壁に貼ってもらうようにお願いする。あのビラは「あなたは独りぼっちではない」という呪文が書き込まれたお札である。

 お札は貼ってあるだけでいい。実働しないほうがいい。よって、電話の掛かってこないことを心からお祈りする。とはいえ、飛んで行く要員の確保は怠らない。職員に手当を支払って控えてもらう。

 電話は掛かってこなかった。

 賃金が発生しているのに実働しないことを喜び合えるなんて、なんと幸せなことか。きっと、あのお札か効いているのだ。

 1人で飛んで行くよりも、2人で飛んで行く方がいい。3人だとさらに心強いが、それはちょっと大げさすぎるかもしれない。実際に飛んで行くときは多くの人を必要としない。

 けれども、飛んで行く気のない人が多すぎると、飛んで行くつもりの人は心細い。ちょっと負担を感じてしまう。なので、僕たち専門職と共に飛んで行く気のある人が地域に増えるように努力する。

 そして「今回の年末年始も電話が掛かってこなくてよかったね~」と挨拶をする。

 僕らは契約を結ばない。実のところ、結べない。不安を口にする人がいると「何かあったら飛んで行きます」としか言わないので口約束でしかない。

 何が起こるか分からなし、何ができるかも分からない。ただ、飛んで行った手前、何とかするほかないのである。もしかすると、何もできないかもしれない。けれども、「とりあえず、飛んで行きますよ」と言い続ける。不安を口にした人は、口約束を信じるよりない。

 新型コロナウイルスがパンデミックを起こす前、イナダ君はチホコさんの庭にローズマリーを植えた。イナダ君は我が施設の職員だ。ローズマリーはモリモリと枝葉を伸ばし、紫色の花を咲かせ香り立っていた。庭の一角を占領するように育っている。

「ひょろひょろの苗だったのにね~」ちょっと高い大きな声でチホコさんは教えてくれた。

 毎年、ニンニクも植えさせてもらう。収穫したニンニクをスライスして、ローズマリーや月桂樹などをオリーブオイルに付け込んでガーリックオイルをつくる。それは、運営資金不足に奮闘する我々の小さな資金源となる。介護保険の報酬だけでは足りないのだ。

 ガーリックオイルに必要な材料を自給できれば利益がさらに増える。

 チホコさんだけでなく、不安を感じているお年寄りの庭にもニンニクとローズマリーを植えたい。職員と地域の人はその庭にお邪魔して育てる。僕たちはそれを使ってガーリックオイルをつくる。これで、みんなはささやかな生産者だ。

 出来上がったガーリックオイルに貼るラベルに、関わった人たちすべての名前を連ねたい。「ニンニクだけでなく他の野菜も育てたいね」。地域の人たちと、取らぬ狸の皮算用で大いに盛り上がる。僕たちはこれで大儲けをするのだ。

 独りで暮らすお年寄りの庭先でしっかりと根を張るニンニクとローズマリー。それは地域の人たちと僕らの分身だ。「あなたは独りぼっちじゃない」という呪文の書かれたお札でもある。

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に 『ぼけと利他』 (伊藤亜紗との共著、ミシマ社)『ぼけてもいいよ』『看取りケアの作法』『おばあちゃんが、ぼけた。』『シンクロと自由』など多数。

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