僕の老い方研究僕の老い方研究

第26回

タイミング合わせ

2025.06.28更新

 母の食事介助には苦労した。タイミングが合わないことにおいては、これまで介助してきたご老体NO1である。まるで母に問題があるみたいだが、僕の介助が下手糞なだけである。

 母の食べ方にはいくつもの関所が設けられていて、食べるための必須条件となる「口を開ける」にたどり着けない。

 第1の関所は「食べる気があるのか、ないのかが分からない」である。口元にスプーンを近づけると、決まって首を横に振る。まるで食べることを嫌がりスプーンから逃れようとしているように見える。この時点で「あ~、嫌なんだな。だったら、食事はいらないのね」となるのが介護者の心理であろう。

 ところが母の場合、2回ほどそれを繰り返した後、パクリと口を開けスプーンを迎え入れるのであった。その速さときたら蛇が獲物を捕食するときと劣らない。1回、2回と首を振り、3回目で食べる。そのような法則があった。

 第2の関所は「2口食べたところで、再び口が開かなくなる」である。普通ならこの時点で「やっぱり、食べたくないんだね」となる。ところが、噛み合わさる前歯の一か所に上下とも抜け落ちた場所があって、その穴にスプーンを当てると、パクリと口を開ける、その速さも蛇と同様であった。

 第3の関所は「蛸の口のようにスプーンを拒む」である。前歯の穴作戦を用いて4~5回口が開けば御の字である。それから以降は唇をキンキンに尖らせて穴への侵入を徹底的に拒む。「さすがに、食べれないんだね」となるのだが、実はそうでもない。

 ブレンダー食にしたものをパウチ式の容器に収め、その先っちょを口元に運ぶと、再び口が開く。スプーンへの抗いが嘘のように、パウチ式を受け入れた。まるで鍵が合ったかのようだった。

 ここまでくると、もはや母が食べたくて食べているのか、口の開くツボを見つけた僕から食べさせられているのか分からない。食べたい母と介助する僕のタイミングが合った気がしない。もしかすると、僕と母は食べる喜びを見失ったのかもしれない。

 ご老体はふたつの不自由に直面している、ひとつは機能不全による不自由。目が薄くなる、耳が遠い、手が痺れる、膝が痛い、便が滞るなど、老いが深まると体は動かなくなる。よってトイレに行きたくても、行くことができない。

 もうひとつの不自由は、人から介助されることによって、自分のタイミングを失うことである。「今、おしっこがしたい」、「今は、お腹がすいていない」、「今、ここにいたい。いたくない」といった、私にとっての「いま、ここ」を失う。

 トイレまで移動し、便器に座る介助をすること自体はたやすい。難しいのは、それが「その時なのか」というタイミングなのだ。赤の他人の生理的な感覚や気分感情に合わせて介助するなんて、本当は不可能なことだと思う。ここに、老人介護の困難=面白さが潜んでいる。

 面白いのは、毎日のように、食べること、排泄すること、眠ること、に繰り返し付き合っていると、なんとなく「もうそろそろかな」といった勘が生じることだった。第6感が発動するには、ず~っと一緒にいることが必要最低条件であると思う。

 なんとく感じたままに、なんとなく介助するのだから、空振りするし、ドンピシャでタイミングを掴む時もある。成功率など気にすることなく、なんとなく感じ、なんとなく介助することを、ただ、やり続けることに徹するのが僕らの介護である。

 20代のころ働いていた老人ホームで「オムツ外し」に取り組んだことがあった。オムツ全介助のご老体のところに定期的に訪れて、排尿の有無を確認し、それを24時間シートに記録した。その蓄積を分析すれば、その人の排尿感覚と間隔を掴むことができる。適切な時に効率よく介助できると信じていた。取り組みの末、そのような法則性のないことを悟った。出る時に、出るのである。

 しかしながら、出そうになったとき、人それぞれのサインがあった。ある人はソファーや椅子に登ろうとし、ある人は外に飛び出してひたすら歩き、ある人は「夫人の滝が出る」と呟いた。サインは野に咲く花のように存在していて、僕らに気がついて欲しいと望んでいない。事象というものは「いま、ここ」において同時多発しており、その一つ一つに「これには、こんな意味があります」という注釈もない。

 よって見たいものしか見ない体より、ぼんやりとした体でいる方が受け止めやすい。感覚というアンテナを開き、一緒にいることで生じる実感を頼りにサインを捉える。その方が合理的で効率が良いのであった。そのとらえ方に根拠を示せるような実証性はない。けれども、なんとなく見えてくる。

 そんなこんなで、記録をとるという無駄を止めた。お茶を飲んだりお菓子を食べたり、ときには歌ったりドライブをしたりしながら、一緒にいることにした。

 介護組織の呪縛とは「いいかげん」ではいられないことだった。予定された日課は、かならず実行される。栄養化が高くバランスの取れた食事が毎日提供される。「できないこと」よりも「できること」に着目され、意味のある一日と生きがいある人生をプロデュースし、本気で取り組まれる。落ち込みや怒りは、自傷・他傷行為に変換されて、迅速に薬が処方される。ちょっと散歩に出ただけなのに、ご利用者さまの安心と安全を守るための事故防止会議が開かれる。正しいとされること、望ましい状態とされることから逃れられないのが介護の組織だった。

 僕といえば、理想的な生活態度とはかけ離れた暮らしをしている。仕事を終えて帰宅すると、お気に入りの椅子に「疲れた~」と言いながら座る。足を投げ出して緩く傾斜する背もたれに身を委ねた瞬間に至福が訪れる。ベッドに横たわる母の介護を「しなければ~」と思いつつ寝落ちする。「しまった!」と飛び起きて母の介助をする。水分を飲み干した母にホッとして2回目の寝落ちに入る。落ちながら「歯を磨いていないぞ~」ともうひとりの僕が叫んでいる。けれども寝落ちにある快感に抗えない。

 そんな調子だから爺様になった僕は、正しいとされる介護を達成するために、標準化された方法論で意思統一した職員集団から、タイムライン通りに介護されることに抗うだろう。爺様の僕が望むのは、実感と勘を頼りに介護されることの不安定さであり、外れてばかりだけど、たまには当たったりする不確実さだ。そのタイミング合わせに一喜一憂する集団性である。

 ある出来事を思い出す。僕が小学生の頃、変身サイボーグという人形が大いに流行した。透明のボディに金属の骨格が透けて見えるのが格好よかった。仮面ライダーやウルトラマンといったコスチュームを着せ替えることができる。

「欲しい」と猛烈にアピールした。母は「17時までには、必ず家に帰って来ること」という条件を出し、帰宅時間を記録するグラフを壁に張った。当時の僕は授業中に先生から縄跳びで縛られるほどの多動児だったので、そんなルールが守れるはずもない。この調子だと死んでも手に入らないと悟った。

 そこで、眼鏡の買い替えに超満足していた父のご機嫌を見計らってお願いし直した。なんと、翌日には変身サイボーグを手土産に仕事から帰ってきたではないか。母から与えられた課題を果たすことなく願いが叶ったのである。僕はタイミングを掴んだのだ。

 大喜びして箱を開けたのだが、コスチュームを見てがっかりした。しゃれこうべに角の生えた骸骨だった。憧れのヒーローではなく、キングワルダー1世という名の悪役である。父のセンスのなさは絶望レベルであった。おそらく規則正しいいルールを僕に強いている間に、ヒーローもののコスチュームが売り切れたのだと思う。父は購入するタイミングを逃したのだ。やはりタイミングというものは人生を彩ってくれると思う。

村瀨 孝生

村瀨 孝生
(むらせ・たかお)

1964年、福岡県飯塚市出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に 『ぼけと利他』 (伊藤亜紗との共著、ミシマ社)『ぼけてもいいよ』『看取りケアの作法』『おばあちゃんが、ぼけた。』『シンクロと自由』など多数。

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