第15回
非合理性の先にある合理性
2024.07.08更新
抜けるような青空。吹き抜ける風の爽やかさ。バイクに乗るには絶好の日よりだった。
愛車のバイクは、駐車場の奥にあって、5台が並ぶ車の後ろに、こっそりと停まっている。車の脇をすり抜けた僕は思わぬ足止めをくらった。そこには、恐ろしく立派なウンコが横たわっていたのである。思わず息を飲んだが、すぐさま、その息を吐きだした。臭いもまた強烈であったのだ。チリ紙などもなかったことで、より存在感が増していた。
早くもクロバエの集団がたかっており、金緑色の体が太陽の光を受けて輝いていた。糞虫も同じような色をしたものがおり、種が違っても、同じような金属光を放つことを不思議に思う。
ここが田舎であったなら、安心して野ぐそができたことだろう。お尻を拭く葉っぱだってあったはずだ。眠らない街の片隅で、人の気配に怯えながらの行為である。不愉快ながらも、落とし主が少し気の毒だった。草むらに身を潜めれば、誰も気づかない。産み落としたウンコに土でもかけておけば、あとは自然が分解し、土に還す。発見者も割り箸で掴んでゴミ袋に包む必要もなかった。焼けたアスファルトに横たわるウンコもまた哀れであった。
またもや、ウンコの話である。このことを書くべきか思案した。2度あることは3度あるという。その3度目をスルーしてはいけないように思えた。
介護職の性なのか、ウンコに接すると、つぶさに観察する癖がある。30cmを超える大物であるからにして、動物のものとは思えない。153万人が住まう都市に、人間より大きな生き物が生息しているはずもない。野良犬を見なくなって久しいし、時折、見かける野良猫は「餌やり厳禁」の厳しいお沙汰を受けている。
よって、人間のモノであることは明白であった。落とし主は頑固な便秘者とお見受けした。鰹節であるかのような色合いと風格は、体内に長く留まりながら、腸に繰り返し水分を与え続けたことで得たものだろう。先っぽは、より黒く変色しており、乾燥したトウモロコシのような質感があった。
1週間ほど、腸内に留まったぐらいでは、あのように干からびることはないだろう。あるいは、日頃から水分を採らぬ生活をしているかである。もしかすると、強いストレスを抱えている可能性も考えられた。
老婆心ながら、水分の摂取量を増やした方がよいと思う。腸がウンコから水分を再吸収しなければならぬほど、脱水気味であるならば、大変よくない状況である。水分不足で血液の粘度が強まれば、梗塞や血栓が生じやすくなる。脳に大きなダメージを与え、麻痺による機能不全を起こしかねない。血栓が肺や心臓に飛べば、即、命にかかわる。また、濃いオシッコが常態化すると尿路感染を起こしやすくなる。
体がストレスを抱えれば、おのずと精神的ストレスも高まる。悪循環を巡らす前に「水分をちゃんと摂るだけで、体は自ら整うよ」と会えるはずもない落とし主に声を掛けた。
排泄物は多くのことを教えてくれる。介護職はそのみちのソムリエかもしれない。「オシッコが紅茶のような色、濃いアールグレイかな、ちょっと匂いがきつかったので、できるだけ、水分を摂るように気にかけて下さい」とか「ウンコがいつもより柔らかく、わらび餅のようなものも見受けられました。ちょっとした酸味を感じたので、今日は胃を休めた方がいいかも」などと、申し送られる。
ウンコを食べ物に例えることは、よくない癖だが、僕らにとっては日常であった。サーターアンダギー、焼きナス、ダイコン、ポンデリングにおはぎ餅。例えられた食べ物を上げるときりがない。実物を見ていない職員に、リアルな様相を伝える努力が導いた伝達法である(他の介護職から一緒にするなと言われそうですが・・・)。
介護現場のセオリーでは、3日に1回は排便のあることが望ましいとされている。よって、お出ましにならないと、薬によって強制的に排出させる。ところが、刺激性のある薬は、お腹をジクジクと痛ませたりする。それが、ぼけを荒ぶらせたりもするのである。とはいえ、便秘の状態もまた、ぼけを荒ぶらせる(生理的不快は、ぼけを荒ぶらせるのです)。
できるだけ自然排便を促すために、お茶を飲むように勧めたり、食物繊維を多く含むものを食べる努力をしたりする。非刺激性の便秘薬を用いて、腸内に水分を集め、ウンコが出やすくしたりもする(そもそも、水分を摂ろうとしないお年寄りに、どれだけの効果があるのか疑問ですが)。さらに、トイレに座ることで腹圧をかけやすくし、重力の力を借りて産み落とすお手伝いに精を出すのであった。
ウンコの出来上がる過程や排出されるメカニズムは生命科学によってある程度解明できる。仕組みが同じなので、その原理に基づいて介助するなり、治療や手術を行えば、施行者も人種も問わず有効となる。科学が定義するところの再現性だ。
けれども、同じウンコを作り出すことはできない。みんなが同じ条件のもとに同じ食事をしても、出てくるウンコは同じではないのである。施設で暮らすご老体のウンコをみても明らかであった。再現性はないと言ってよいだろう。
腸内に住まう菌や体の細胞との関係性によって、私たちの体が成立していることも明らかになりつつある。さらに、菌と体の細胞は常に生まれ変わっていることを考えると、毎回が初めましての関係性において、今日のウンコを創り出しているのではないだろうか。また、ストレスがウンコに影響を与えているとすれば、社会もまた、ウンコづくりに加担している。目の前に生まれ出た私のウンコには、上司との関係性が反映されている可能性もあるのだ。
それらを勘案すると、ウンコは多くの生き物や社会との関係によって創られる唯一無二の存在であり、人生と似ている。理想の結果を得るために科学を用いて再現できる類ではないのである。再現し続けるべきものがあるとすれば、共に生きるという関係性だと思う。
医学や生理学に基づけば、駐車場に産み落とされたウンコや紅茶色のオシッコから、いろんな推測が可能になるし、効果的といわれる対策も用意することができる。けれども、「それでOK」とならないのが老いの世界であった。
「お薬の時間ですよ」と勧めると「それはわたくしの時間ではありません」と答える婆様。
水分を摂るように勧めても、飲もうとしない。食物繊維が豊富な食べ物ほど、食べようとしない爺様。
「トイレに行きましょうか」と誘うと「そんなところに用はございません」と拒む婆様。
服薬ゼリーに仕込まれた薬だけを器用に舌で選別し吐き出す婆様。
どんなに「正しいとされるセオリー」を持って対応しても、受け入れようとしない「嫌」の世界があり、理屈が通用しない「非合理」に溢れていた。医学的にみて適切とはいえない営みに従わざるを得なかったのである。けれども、このような対応は「正しいとされるセオリー」から審判されると、極めて不適切な介護と評価されるだろう。
とはいえ、絶え間ない機能不全のプロセスを老いと呼ぶのだから、その不可逆性に有効であったはずの手立てすら、無効化される宿命にある。老いというものが面白いのは、僕たちには理解できない「嫌」と「正しいとされるセオリー」を受け付けない「非合理」を尊重すると、経験したことのない合理性に出会うことだった。非合理性の先にある合理性といったらよいだろうか。それは「嫌」を尊重してみることから始まる。
服薬しようとしない、好きな物しか食べない、わずかな水分しか飲まない婆様は15日に1回しかウンコをしなかった。やっとこぼれ出たとき、便器に当たって「カツン」という金属音がした。カンロ飴ほどの大きさで、腸内で水分が再吸収され、くるくると回転し続けたのちに、あのような球体が完成されたのだと思った。それが数個ほど生まれてくる。駐車場に横たわっていたウンコと同じ色をしていた。積極的に水分を飲まない婆様の体が生み出した作品ともいえる。当然ながら、この婆様の体にしか起こらない固有の出来事であり、一般化できないのである。
1か月に2回しか、ウンコをしない婆様ではあったが、生活に支障はなかった。体調もそれなりで、機嫌よく過ごしていた。すこぶる不機嫌になるときは、「正しいとされるセオリー」を、婆様の生活に押し付けたときであった。
ちなみに、婆様は96年を生きた。
ある医師は、こんなことを話していた。「私が往診しているお爺さんは、カステラしか食べていなかった。それも、ほんの少しね。それでも生きていたし、血液検査は何の問題もなかったんだよね。年寄りにはそんなことがある」と。
長生きすればするほど、その人の生活にある不足を補完するかのような体内の営みが生まれ、唯一無二のご老体を育てる可能性があるようだ。それは未知の領域ではなかろうか。