第17回
自然治癒の研究
2024.09.18更新
目覚めてすぐに、体が不調であることに気がついた。疲れかたが尋常でない。週末からの出張を始め、母の介護を交えながら夜遅くまで仕事をするなど、ハードな時間が集中していた。疲れはきっとそのせいだと思った。しっかり休めば、すくに復調するはずだった。
ところがである。夕方あたりから、なんだか宙を歩くような心地となり、体がゆっくりと麻痺していくような感覚に襲われる。発熱していることは明らかだった。
新型コロナウイルス初感染である。そういえば、出張先から帰福する機内で具合の悪そうな人が隣に座っていた。スチュワーデスさんが「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか」と何度も声を掛けていた。その人も「大丈夫です」と答えながらも、何度もトイレに足を運ぶ。どうやら、その人からもらったようである。
薬は飲まないことにした。どのように自己治癒していくのかを、じっくりと感じたかったからだ。病気をしたとき、これまでの自分の態度は「とにかく早く職場に復帰すること」に一点集中しており、自己治癒に任せるなんて選択肢はなかった。よって、治療と服薬を体に畳みかけてきたのである。
ずいぶんも前のことだが、薬を飲まない、病院に行かない、職員がいた。宗教上の理由からだった。職場ではその信条が尊重されていたが、当時の管理者は「薬を飲まないことで回復が遅れる」と気を揉んでいた。勤務に穴が開けば、他の誰かが代替えせねばならず、その負担の存在が「薬を飲まない」という態度に厳しい目を向けさせていた。
「24時間、戦えますか」のキャッチコピーを象徴とするバブル期を当たり前のように過ごしていた僕らには、仕事があらゆることに優先するという心性が骨の髄に染みついていた。その無理さかげんに気がつき始めたのは、老人介護という仕事を通じて当事者とその家族に触れたからだった。
あの「24時間、戦えますか」は単なる商品イメージではない。強壮ドリンクを補給してでも、経済を発展させることが私たちの生活において最優先されていたのである。そのような生活態度から派生する問題に対応するために、福祉労働者もまた、24時間闘い続けなければならなかった。終わりの見えない状況に接するたびに疲弊していくのがよく分かった。
疲れは休むことで癒されるし、労働のひとつの成果として愛でることもできる。ところが、疲弊はそうはいかない。沼地に足を取られたかのように、歩いても、歩いても前に進まない。「休んだら何とかなる」といった楽観が生じない。それでも、介護の仕事が続けられたのは、老いとぼけの世界の深さゆえである。
話しが少しずれてしまった。そう、自己治癒の経過を体感したいのだ。敬愛する医者のひとりに矢嶋嶺先生という人がいる。在宅医療に尽力され、人やその暮らし、老いた者とその家族の関係を人間臭い眼差しで見守ることのできる医者だった。先生は、生前にこんなことをおっしゃった。「同業者からは怒られちゃうけど、医者に病気は治せない。体が自ら治しているのであって、医者に力があるとすれば、ほんの数%かな」
先生の言葉は謙遜から放たれたものではないと思う。僕は過去に骨折を3回しているのだが、2回はギブスで固定するだけの自然治癒、3回目は早期の職場復帰のために手術を希望した。確かに1か月早く治癒したが、自然治癒にはない、ダメージを体に感じていた。手術に伴う全身麻酔と意識が完全に戻っても外してもらえなかった鼻腔チューブのしんどさは地獄といっても過言ではない。
麻酔から覚める時、遠くから般若心経が聞こえて来た。もしやこれは死ぬパターンではなかろうか。よく目を凝らしてみると、親族が枕元で唱える声だった。その直後、経験したことのない悪寒が僕を襲う。死者の体温を生きながら感じた気がした。鼻腔チューブは喉の粘膜を常に触り続け、いたずらに嘔吐反射を刺激する。その度に吐しゃ物もないのに吐き気を催した。術後も骨に入れられた金具が理論的には生じないはずの痛みを僕に感じさせ続けたのであった。短い治療期間で済み、早期の職場復帰も叶ったが、安眠を得ることは少なかった。
もし4度目の骨折があったなら、手術は選ばないだろう。ギブスで固定される不自由さがあったとしても、ゆっくりと治る体にある無理のなさを選びたい。
僕は矢嶋嶺先生のことを思い出しながら、寝て治るのを待つことにした。
静かに横になっていると、体に、ある繰り返しのあることに気がついた。身の置き場のないような、喘ぎの時間が終わると、さっきまでの苦しみが噓のような時間を迎える。砂漠でオアシスに出会ったかのような気持ちよさに包まれて深く眠る。息苦しさと発汗で目が覚めると、どんなに体位を変えてみても収まりのつかない時間が再来する。頭の中は思考とはほど遠い、とりとめのない考えが暴走しており、得体の知れない活動が休息を与えなかった。しばらくすると、先ほどのオアシスが現れて、何とも言えない心地のよさに体が包まれながら深い眠りに落ちる。それを繰り返すたびに、高熱は階段をおりるように下がっていった。
薬の服用によって、険しい症状が緩和され、楽になるという経験はある。けれども、あのオアシス的な生理の快感は初めてだった。
そのような経過をたどることで、運よく回復を果たしたのだった。
思わぬ事態にも遭遇することができた。
発熱の渦中で行う母の介護はとても気の重いものだった。病気を理由にお休みする訳にはいかない。全介助の母を車椅子に座らせるだけでも骨が折れた。母の重さが普段の倍に感じられる。数ある介助の中で気を重たくさせたのは食事介助だった。
母の食事の仕方は癖が強い。ご飯をスプーンによそって口元に運ぶと、必ず首を横に振る。2回目も同じ。3回目で口を開けて食べるという運動を伴う。食べたくないのか、そうではないのかが分かりづらいのである。
発病中の僕は、そんな癖の強さに付き合う体力も気力も持ち合わせていない。どうなることかと思いながら介助を始めると、なんと、パク、パクと口が開くではないか。こんなにも順調なのはおそらく初めて。病気の息子を気遣う母の愛かと思った。
でもそれは出来すぎである。思うに、僕は食事を母の口元に運ぶことで精一杯だった。「ちゃんと口を開けて」とか「食べて欲しい」などの要求を母に抱くだけの元気がなかった。病気によって僕からアクが抜けていたのではなかろうか。
自分のしたことの成果を相手に求めないというケアの本質に意図せず近づいていたと思われる。