第7回
お父さんとお母さん
2023.11.07更新
ちらし寿司、お煮しめ、チーズ入り竹輪の揚げ物、お吸い物。デザートは黒糖を濾してつくった寒天。金粉がちょこんとのっている。まるで料亭で食事した気分である。この祝い膳は、食事ボランティアさんが作ってくださった。
「私が提案した料理で採用されたのは、このチーズの入った竹輪の揚げ物だけです」と夫。「男の人は手の込んだものを作ろうとするから」と妻。おふたりは夫婦でボランティアをして下さっていて、本日の主役であるお母さんのお友達でもある。
今日は102歳を迎えたお母さんの誕生祝い。お母さんのことを「お母さん」と呼ぶようになって、かれこれ30年になろうとしている。出会いのきっかけは、利用相談の電話だった。
「デイサービス? というの? うちのお父さんなんだけど、ぼけがあってもお宅を利用できるかしら...」。戸惑うお母さんに、体験利用を勧めると「お約束の時間に行けるかどうか分からない」と言う。お父さんとは夫である。「私の言うことなんか聞いてくれないだろう」とのこと。「じゃあ、僕の方から伺います」と会いに行ったことを思い出す。
住まいはマンション群の一角にあった。ビンテージ感のある5階建てで、エレベーターはない。当時は各階ごとに玄関扉が塗り分けてあって、お母さんのお家は赤色だった。現在は改装されてシックな色になっている。
部屋に足を踏み入れると「ピンポ~ン」とセンサーが反応する。お父さんには、いわゆる「徘徊」のあることをうかがわせた。
お父さんに会うなり、その風格に圧倒された。きれいな白髪。眼鏡の奥には、きりりとした眼光。詰襟シャツのボタンを首元までしっかり留めているばかりか、ジャケットとスラックスで身を固め、書斎の椅子に足を組んで座っている。新聞を逆さまにして読んでいた。
自宅にいるのに、くつろいだ様子がない。現役を離れて、ずいぶん時が経つらしいが、バリバリの代表取締役的雰囲気が漂っている。
「手ごわい」。そう直感した。
この人である。「人は自分の思い通りにはならない」という当たり前の事実を、僕の骨の髄に染み込ませたのは。
送迎の車に乗ってくれない。トイレに誘っても拒絶される。お風呂に入るどころか、服は絶対に脱がない。そういえば、ご飯だけは、あの世に逝く直前まで、自分で食べていたと思う。食事介助をした記憶が薄い。
何より大変だったのは、突然、外に出て街を練り歩くことだった。いろんな所を一緒に歩いた。人様の庭。日の暮れた獣道。とあるうどん屋さんの厨房をすり抜けたことすらある。温泉での入浴中に、全裸のまま脱衣所から出ようとしたときは、体を張って阻止した。なぜなら、僕も全裸だったからである。
あのスリリングな時間。冷や汗をかきながら一緒に歩くことは嫌いじゃなかった。むしろ、好きだったかもしれない。平謝りしながら歩く僕とは対照的に、当人は堂々としていて、どうしたらあのような態度でいられるのか、その秘密が知りたかった。
ぼけの世界にはこれまでに体験したことのない次元が待ち受けていて、当人はおろか、介護者もろとも振り回される。
時間や空間の見当がつかなくなることで、時系列に従った記憶が困難になる。時と場が捉えられず、場違いな言動が増える。手に取った「物」の役割が理解できず使いこなせない。行為を成立させるために取るべき順番が分からない。
これらの症状によって「今はいつ? ここはどこ?」といった状況になり、やることなすこと上手くいかなくなるのだから、取り乱し、混乱してしまうのは当然である。
私というアイデンティティは、毎日繰り返しているいつもの行為そのものから、支えられている。行為が成立しないことで「私」も不成立となり、「私は誰?」といったことにもなりかねない。
とはいっても、どんなにぼけが深まっても私らしさを失うということは決してないのである。症状というものは普遍的だが、混乱の仕方は人それぞれだった。他の誰とも違う、「私らしい混乱」なのだ。混乱には当事者にしか生じない理由があって、それに触れたとき、僕は初めてその人に出会えた気がしていた。
「お父さんたら、国からもらった賞状を鋏で切ろうとするから、私が額に入れて飾ったの」賞状は簡単には手の届かない高いところに掛けてあった。
日本国からの救助が望めない朝鮮半島で終戦を迎えたお父さんは、ソ連軍の配下をかいくぐり、命からがら帰国した。たくさんの同胞を連れて。外務省はその功績を称え表彰した。
贈られた賞状は飾られることもなく丸めたままにされていた。それどころか鋏を入れようとしたのである。あの頃は認知症状によるものと理解していたが、あれは分かったうえでの振る舞いだったのかもしれないと、ふと思った。
敗戦の修羅場を生き延びたお父さんは「あの時のことを思うと怖いことはない」と常に口にしていたという。堂々とした態度は「あの時」に培われたのだろう。きっと、認知症状に左右されることのない「わたし」が生まれたのではないだろうか。
お父さんと僕はとにかく歩いた。設計事務所の前で足を止めて、僕を無理やり押し込みながら「ここで仕事を取ってこい」と言った。事務所の方にお願いして、調子を合わせてもらうことでその場をしのぐ。「仕事をもらいました」と伝えると「よし、次に行くぞ」とお父さんは歩き出す。後ろに手を組み、少し前傾姿勢で歩くその背中が好きだった。
さすがのお父さんも寄る年波には勝てず、外を出歩くこともできなくなったし、入退院を繰り返すことが増えた。見舞いに行った時のことだ。一回り小さくなったお父さんが僕を見るなり「何をしているんだ、早く仕事をとってこい!」と一喝したとき、無性に嬉しくなって「はい」と答えて病室を飛び出したことが忘れられない。お父さんは、その数か月後にお母さんと僕たちに看取られて死んだ。
「こんなこと言っちゃうと、怒られるかもしれないけど、お父さんの看取りは楽しかった」
お父さんとどのように付き合ったのか、自分しか体験していないことを、集まった人たちが武勇伝のように語り尽した。ひとつひとつ、ひとりひとりのエピソードに、お父さんや付き合った人の個性が溢れていて、死に逝く人を囲んでみんなで大笑いしながら、カレーライスを食べた。
「お父さんたら、夜中、油山まで歩いて行っちゃったのよ。私も付き合わされちゃって。歩き疲れたのか、道路に引かれた中央車線の上に寝っ転がって、眠っちゃったの。きっと、布団に見えたのね。靴を脱いで綺麗に揃えてね。おかげで私は交通整理。お父さんが車に轢かれないように。世の中は捨てたもんじゃないのね。若い男の人が車を止めて、お父さんを乗せて家まで送ってくれたの。その上、おんぶして部屋まで運んでくださった。あの時は、お父さんも素直に言うことを聞いて・・・」
お母さんの話には深刻さが微塵もない。
僕は、お父さんとお母さんから、どう生きるかを学んだように思う。
お父さんのような、生死を分けた修羅場をくぐったことはない。けれど、そのような過酷な経験をしなくても認知症状に振り回されない老い方や暮らし方に辿り着けると思う。それがどういったものかを、言葉にすることはできないが、すでにお父さんから授かっているような気もするのだ。その贈り物を生かすも殺すも僕次第であるように思う。
お母さんが、お父さんとの出来事を話す様子が好きだった。大変なことが起こっているのに、なんだか楽しそうに聞こえる。喜びや悲しみ、イライラや怒りが素直に生き生きと言葉になっていた。嘆きを感じさせない語りが支援する側であった僕たちをずいぶんと励まし、支えてくれる。
物事には始まりがあれば、必ず終わりがある。この世の終わりと思えるような出来事も、たとえ全世界を敵に回したとしても、それが永遠に続くことはない。お父さんとお母さんが教えてくれたことは、決して深刻にならない態度であるようにも思う。
お母さんは20年間を独りで暮らしてきた。102歳の老体で4階の住まいに今も生活しているなんて奇跡的である。
「よくまぁ~、上がったり、降りたりしてきましたね。本当によく頑張りましたね」と僕。「何にも頑張ってなんかないのよ~。気がついたらこの年になってたの」とお母さん。さらりと言ってのける。
誕生会を終えるころ、お母さんのお膳には煮しめが残っていた。「食べていい?」と聞くと「駄目よ~、今日の夕食にするからと」とお母さん。しっかりテイクアウトして、4階の住まいに帰っていった。