第25回
ゾワゾワ
2025.05.31更新
入浴中のこと。花冷えに弱い僕はのんびりとお湯を満喫していた。さあ上がろうと浴槽をまたいだ時、左の腰に何かが触れた。よく見ると米粒よりも小さい物体がくっ付いているではないか。「やられた!」と瞬時に感じた。マダニである。無理やり取るとよくないことは知っていた。慌てて触って潰してしまいマダニの体液が僕の体内に逆流するのはご免である。
こういときはミツバチに刺された時を参考にすればよい。ミツバチの針は刺すと抜けない構造になっている。焦って蜂の体をつまんで無理やり引き抜くと自分の体内に毒を送り込むことになる。よってトランプのカードのような薄くてしなやかな板を差し込み梃子の原理で抜けばよいとされる。
脱衣所を見渡すとパッチン留めが目に入った。(これでいけるはず)。ミツバチの針を抜くイメージでパッチン留めを腰に当てる。いとも簡単にマダニは外れた。しかし嫌な感じもした。マダニが取れると同時に「バチン」と音がした。いや、聞こえたような気がした。これが結構な弾性を感じるもので、蔓を引きちぎったときに似た感触が手に残る。皮膚に突き刺さったマダニの小さな口がちぎれた音にしては盛大である。
スマホで「マダニの取り方」を調べてみた。やはり「無理にとるな」と書いてあった。理想は「受診し治療を受けよ」とある。あいにくその日は長野の介護セミナーに参加しなければならない。受診は諦めてスマホの情報を読み進めた。「ピンセットで口をつまんでゆっくり抜け」というのだが、マダニはわき腹の少し下にぶら下がっていた。腹から腰に蓄えられた脂肪が邪魔である。さらに加齢によって関節や筋が固まりかけていて、体を捻りながら下を見ることが可能でないことは明らかだった。たとえ出来たとしても老眼が精緻な作業を妨げただろう。よってパッチン留めの使用は適切だったと思えた。
マダニの本能は侮れない。吸血の際は柔らかいところを選ぶと聞いていたが、わき腹の脂肪ではなく、その下にある死角を選定するなんて。肛門に喰いつく者もいるというから、そこじゃなくてよかったと心から感謝した。事実、「めちか」と名付けた地域猫の肛門にテカリながら膨らんだマダニがぶら下がっているのを目撃したときは慄いた。
マダニの取り方については「ワセリンを塗る」「アルコールを塗布する」など、他のやり方もあった。(しまった。我が家にはワセリンも燃料用のアルコールもある。早まったと少し後悔した。後日、このやり方も望ましくないという情報も届いた。何が良いのか混乱する)。
それにしても、マダニは体を張っていると感心する。見つかれば死が待っているといっても過言ではない。「命を賭してまでなぜマダニは血を吸うのですか」とAIに聞いてみた。「成長するために動物の血を吸い込みます。特にメスは産卵するために大量の血を必要とします」と教えてくれた。実に正しいと思った。そのうえで僕は妄想的に答えたい。「血にはさまざまな力が秘められています。だから吸血が止められないのでしょう」と。そんな爺さんでありたい。
いずれにしても血を吸っているときのマダニに生理的な快楽はあるのだろうか。ドラキュラは苦しみとも快感ともいえぬ恍惚をスクリーンに映し出す。マダニはどうなのだろうか。
その日を境にスマホはせっせとマダニ情報を送り続けた。頼みもしないのにマダニによる感染症の恐ろしさを教えようとする。その過剰さを有難迷惑に感じ始めた。スマホは手っ取り早く便利ではあるが、うんざりするようなお世話を焼いてくるものだ。
初めてスマホを手にした時のこと。布団の中で気持ちよくまどろんでいた。起きるには、まだ早い明け方。枕元でピロロンと音がした。電話にしては音が違う。スマホに馴染んでいない僕は、もしや職場からの連絡かと思い飛び起きて手に取った。こんな時間の連絡は決まってご老体があの世に逝っている。
画面には「今日はあなたの誕生日です」とあった。その直後に再度お知らせが来て「この情報は役に立ちましたか」と尋ねてきたのである。
フライパンをポチッたときもちょっとうんざりした。あっという間に届いたのだが、その翌日に「フラインパンをお探しですか?」と聞いてくるのであった。そのお尋ねは、購入したフライパンにしっかりと油が馴染んだ今でも続いている。
僕は次々と送られてくるマダニ情報に目を通し続けた。わずかな不安が手伝ってスルーできない。操られるかのように読み進めるうちに、小さかった不安はみるみる膨らんでいく。
今思うと致命的に不安を煽った情報があった。発熱とか頭痛といった症状別に生存率が記されたものである。内臓の不全状態は明らかに生存率が低い。生存率が二けたを切る症状が目に入ったとき漠然としていた怖さが具体的な怖さに変わった。それからというものは少しでも希望の持てる情報探しに支配されるようになっていく。
ここでパニックになってはいけない。生存率に関わらず疑わしい症状が出たら病院に行けばよい。正しい情報に基づく知識があるからこそ深刻な状況が回避され適切な対応ができる。そのように自分に言い聞かせた。それでも不安はますます膨らんでいく。
マダニがもたらす病原菌による感染と死。そのリスクはとても小さいと分かっていても最悪な事態に対する恐怖のほうが勝ってしまう。内臓不全の症状が現れとき、僕はきっと死ぬのだ。誰が母を介護するのだろうか心配し、つれあいと交わした約束を果たせないことを死んでもいないのに後悔した。
どこでマダニに喰われたのだろうか。可能性はふたつ。開拓中の島か実家である。どちらも野生動物と共に在る地だった。
実家には地域猫が4匹棲みついており、その1匹に「こがお」と名付けた雌猫がいる。彼女はきっと僕のことが好きなのだ。隙を狙っては部屋の中に入り込み膝に乗る。たまに耳にくっ付いたマダニを発見して取り除いたこともある。
僕は「こがお」を締め出した。「繁殖が著しいこの時期だけだから」と心を鬼にした。そんな僕の豹変に「こがお」は何とも哀しい声色で鳴く。窓の外側から大きな声で鳴きながらじっと見つめてくる。
この出入り禁止はいつまで続くのか。先が見えない。そのうちに「こがお」と僕の絆はなくなってしまうのだろうか。地域猫との関係と感染リスクを両天秤にかけるような選択の仕方が何を失わせて、何を残すのだろうか。思案の末、「こがお」に付いたマダニを取り除くことを理由に触ることにした。
「正しく知って、正しく怖がる」という言葉がある。大きな事故や感染症が生じるたびに叫ばれる。けれどもそれが上手く行うことができないし、よく分からない。「正しく怖がる」と聞くたびに、ある映画を思いだす。黒澤明監督の「生きものの記録」だ。
主人公の喜一老人は原爆の恐怖に取り付かれる。東西冷戦による核戦争と放射能汚染を怖れるがあまり、日本から脱出して被爆リスクの小さい国へ移住しようとする。家族や職場から様々な反対を受けるうちに、企てる移住手段が常軌を逸してしまい、喜一は精神病院に入院させられる。印象的なのは病室の窓から太陽を見て「地球が燃えている」と言い、無事に避難できた思い込むことで安堵している姿だった。
喜一老人は「正しく知って、正しく怖がる」ことができなかったのだろうか。この映画は老人介護の地平から見ても様々な示唆に富んでいるのだが、僕にとっての「正しく恐れる」とは喜一老人の態度のように思えてしまう。
原爆や放射能に怯える喜一老人。彼は極めてまっとうに理性の人だったのだ。理性的に怖がり続けることで体がゾワゾワしたに違いない。体験していないはずの核爆発による被爆や放射能汚染を実感してしまったのだ。ゾワゾワというコントロールできない野性が目覚め、沈没することを予見したネズミが船から逃げ出す情動に駆られたのだと思う。その行動は理性を超えた啓示に近い。
近年、世界を覆っている狂気に対して理性が発動していない。むしろ本当に感じるべき恐怖を理性の顔をした理路で胡麻化しているようにも思える。その理路が、ちゃんと怖がっている喜一老人を精神病院に送り込んだのだ。
本当に怖いときはゾワゾワとする。それは野性からの警告音のようにも感じる。人間にとって危険な生き物はゾワゾワ感のある容姿を備えていて「私は危険でございますよ」と伝えてくる。蜂やムカデ、蛇やワニ、サメやウツボはその類である。ゾワゾワは、ご先祖様たちが僕らの血に仕込んだ知見ではないだろうか。
どうしたら喜一老人の恐怖が発狂しなかったのだろう。いや、彼は発狂したのではない。発狂したと社会が受け止めたのである。
僕らがすべきことは彼の感じたであろうゾワゾワをひとまず信じることだ。ゾワゾワというご先祖様が仕込んだ知見から立ち止まり、今の仕組みを見直すことのように思う。
改めて喜一老人の恐怖を考えると、僕らを包摂する現代の恐怖は体を通して感受できる域を超えている。「それが恐怖である」と論理的にしか認知できない恐怖。その寄る辺のなさが不安を掻き立てる。身体性を超えてしまった得体の知れない恐怖を生み出す時代であるからこそ、野性の知が必要だと根拠なく感じる。きっとゾワゾワは理性的な顔をした危険なシステムにも発動するはずなのだ。
マダニの吸血から14日が経とうとしている。何はともあれ僕は元気に生きている。