第13回
ジャンゴロジー
2026.10.06更新
子どもの頃、正月2日になると新聞販売店の若い店長さんたちがわが家に集まって新年会をしていた。父が販売店をまとめる仕事をしていたためで、今思えば、正月早々せっかくの新聞休刊日に申し訳なかったと思うが、みなさんかなり酔っぱらって楽しそうだったのでおゆるしいただきたい。
私は料理やお酒を運ぶのに忙しくて話の輪に加わることはなかったが、いつも店長さんの一人、Tさんがおみやげといって母にレコードを持ってきてくれていたことを覚えている。母は独身の頃、若者向けの雑誌編集者だったこともあって映画や音楽にとてもくわしかった。結婚して専業主婦になってからは東京から神戸への転居を含む6回の引っ越しと子育てに忙しく、ビートルズが来日したことも知らなかったという話を何度も聞かされた。Tさんはジャズにとても詳しく、母は久しぶりにそんな話ができて嬉しかったのだろう。Tさん経由でわが家に持ち込まれたアルバムが何枚もあって、デューク・エリントンも、セロニアス・モンクも、ルイ・アームストロングも、Tさんがいなければ小学生の私が聴くことはなかっただろう。
ジャンゴ・ラインハルトを初めて聴いたのも、Tさんのおかげだ。前回、前々回と「ギター革命」と題してYouTubeの登場がギター奏者に与えた影響について書いてきたが、音楽界のギター革命について書くとしたら、このギタリストを忘れてはいけないだろう。
アルバム「ジャンゴロジー」を初めて聴いたときのことははっきり覚えている。スピーディで軽やかにスウィングしているのにメランコリックで、だんだん切ない気持ちになってくる。カタカナが苦手な私でもこのギタリストの名前を今もすぐに口にできるのは、あの頃、スピーカーに耳を押し当てて聴くほどこのギタリストに惹かれていたためだろう。
とはいえ、ジャンゴのプロフィールを知るのは社会人になってからで、演奏する姿を観たのはもっとあと、というか最近だ。YouTubeに公開されていたモノクロの動画をたまたま見つけ、左の人差し指と中指の2本の指だけで旋律を弾いていたことに大きなショックを受けたのだった。
ジャンゴ・ラインハルトの生涯について、レコード会社やパリの音楽博物館、フランスの代表的なファンサイト「django-reinhardt.com」の資料などを参考に短くまとめると以下のとおり。
1910年ベルギー、フランス系ロマの子どもとしてキャラバンと呼ばれる住居付きの幌馬車で生まれ、一族とともに移動生活を送っていた。幼少期から音楽とダンスを通じてロマ文化に育まれ、気づいたときには楽器を弾き、曲も作るようになっていた。最初はバイオリン、12歳からはほぼ独学でバンジョーをマスターし、パリのカフェで演奏するほどの腕前だった。
うわさを聞きつけたイギリスのバンド・リーダー、ジャック・ヒルトンに誘われてバンドへの参加を決めるが、その直前、ジャンゴを悲劇が襲う。就寝中にろうそくが倒れてキャラバンが全焼し、大やけどを負ったのである。右足と左手の薬指と小指にマヒが残り、もう二度とギターは弾けないだろうと医者に告げられた。結婚間もない18歳のとき、当時の妻を守るために負傷したと伝えられている。
致命的といえるハンディキャップを抱えたジャンゴを支えたのが、音楽だった。入院中、兄が持ち帰ったギターを片時も離さず、動く指だけで演奏する方法を編み出そうとした。親指はネックに添えるため、弦を押さえられるのは人差し指と中指の2本しかない。それはつまり、これまでのように複雑なコードを弾くことはできないということ。コードをあきらめて、残る2本指でどうやって弾くのか。
当時のフランスには、デューク・エリントンやルイ・アームストロングらアメリカのジャズミュージシャンたちが来日し、ジャンゴも彼らのジャズを聴き込んで大きな刺激を受けていた。ルイ・アームストロングのトランペットを覚えてギターで再現するうちに生まれたのが、コードを構成するアルペジオをシームレスにつなぐために、半音階のランとトリルを多用する奏法だった。
ランとは階段を駆け上がったり駆け下りたりするように弾くこと、トリルとは半音または全音上の音を素早く繰り返すこと。ギターを弾く人ならピンとくるだろうが、いわゆるハンマリングとプリングの組み合わせもある。すべての音をピッキングすることなく、音をなめらかにつなげる奏法だ。ネックをスピーディに上下移動するソロはダイナミックで、2本の指が生み出す音の質感は鋭くも柔らかい。
アメリカのジャズがドラムや管楽器を使うのに対して、ジャンゴたちはバイオリンとベース、ギター、クラリネットで構成される「フランス・ホットクラブ・クインテット」を結成、ロマの伝統音楽とジャズを組み合わせた「ジャズ・マヌーシュ」(ロマ民族のジャズ)を生みだし、多くの聴衆を魅了した。動画のない当時、実際に演奏を観るまでは指2本で弾いているとは誰も信じられなかったという。
ロマの暮らしを取材したジャーナリスト、イザベル・フォンセーカの『立ったまま埋めてくれ ジプシーの旅と暮らし』によれば、放浪の日々を送る彼らには創世をめぐる神話がなく、自分たちの偉大な過去という歴史感覚もないため、さかのぼるとしてもせいぜい三、四世代前までということが圧倒的に多いという。誰か亡くなると遺品はすべて燃やし、遺産相続という概念もない。
ところがフランスのパリ音楽博物館には、ジャンゴが生前最後に使っていたギターが1本、妻によって寄贈されている。フランスのセルマー・ギターといい、このギターと出会ったことで、ジャンゴのフィンガースタイルが実現できるようになり、ジャンゴの音楽と共にセルマー・ギターは世界的なギターとして知られていくのである。
数年前、エチエンヌ・コマール監督の「永遠のジャンゴ」(2017)が公開された。映画の舞台は1943年、ドイツ軍に占領されたヴィシー政権下のフランスで、ジャンゴ人気に目をつけたナチスが彼をプロパガンダに利用しようとする場面や、ナチスや警察当局によってロマの人々が迫害される様子が描かれている。
楽譜の読み書きができないジャンゴがホロコーストの犠牲になったロマのために作曲した楽曲「レクイエム」誕生の背景がよくわかり、映画はそこに焦点を当てているので、戦後、ジャンゴがデューク・エリントンの招待でアメリカに渡り世界的なギタリストとなっていくところなどは描かれていない。
気になったのは、その運命の岐路といえるレマン湖近くの町からスイスへの逃亡劇だ。雪深い山をギターを抱えて逃げていると、彼を追う警察と彼らが連れた野犬の吠える声が近づいてくる。ジャンゴは身を隠すため雪を掘ろうとするが、なかなかうまくいかない。するとこれまで担いでいたギターを逆さまに抱え、固まった雪に思い切り叩きつけて砕こうとする。雪の中に隠れて追っ手をまいたのはいいものの、ギターのネックは折れてしまった。
どうするのだろうと思っていたら、ジャンゴは真っ二つに折れたギターを雪の上に置き去りにして、国境を無事越えていく。
映画を観ていた私はここで、えーっ、と思わず声をあげてしまった。これまでどこへ行くときもギターを担いでいたジャンゴが、そもそも大切な商売道具を雪に叩きつけるだろうか。ネックが折れたからといって捨ててしまうのか。それとも、ギターが彼の命を守ったと受け止めればいいのか。大いに戸惑った。
映画の制作にはジャンゴの孫のギタリスト、ダヴィッド・ラインハルトも関わり、ジャンゴの友人でマネジャーだった人物の伝記や、ジャンゴ研究者の文献も参照して制作されているため、まったくの作り話とは思えない。ロマが物に執着しないことを考えると、そういうこともありえるかもしれない。しかし......。
モヤモヤした気持ちでジャンゴの伝記や映画のリリースなどを調べてみたところ、やはりこの映画にはエチエンヌ監督と原作者であり脚本家のアレクシス・サラトコによる創作の部分が多く、当該シーンも演出の可能性が高いことがわかった。史実としては、そもそもジャンゴはスイス入国に失敗して国境警備隊に逮捕され、身元を確認されたのちフランスに送還されている。映画では一人だったが、実際は2人目の妻ナギーヌも一緒だった。ギターについても、ジャンゴが1940年に入手したセルマーのシリアル番号#503は、息子に引き継がれたのちナギーヌの手でパリの音楽博物館に寄贈されている。
そもそも、ギターは壊れていないのだ。
セルマー・ギターはサウンドホールというボディの穴が小さな楕円形になっていて、音楽博物館に寄贈されたジャンゴの#503には、戦後、磁気マイクをつけるために開けられた穴がある。これはデューク・エリントン楽団の全米ツアーにゲスト出演したとき、大音量のビッグバンドではギターの生音がかき消されてしまうため、音を電気信号に変えるピックアップが後付けで取り付けられた名残りだ。
当時すでにギブソンがピックアップを内臓したエレクトリック・アコースティックギター、通称エレアコを開発していたため世界初ではないものの、ギターの歴史を考えるうえでもジャンゴのギターは重要だ。スイスへの逃亡から戦後の世界的な音楽活動まで、ジャンゴの後半生を支え、このギターの価値をよく知るナギーヌだったからこそ、燃やさずに半永久的に保存することを決断できたのだろう。
そもそも記録を残さないロマの生涯については不明なところも多く、ジャンゴのスイスへの逃亡については、国境警備隊にジャンゴのファンがいて穏便に送還されたというエピソードも残っている。それが事実なら物語としておもしろくないという理由で、映画の緊張感を高めるため大切なギターを壊し、置き去りにしたという演出にしたのなら、ギター愛好家にはすぐにばれるウソで興醒めじゃないかなあと思った。
ところで、1970代、わが家にやってきたTさんはじめ新聞販売店の店長さんたちは、高度成長期に地方の中学を卒業して都会に集団就職した「金の卵」と呼ばれた世代だ。新年会に参加していたのは彼らがまだ独身か結婚して間もない頃で、両親は仲人を務めたり出産の手伝いをしたりとあれこれ世話を焼いていた。
それぞれ家族をもって独立してからは新年会もなくなったが、『絶対音感』が刊行されたとき、一番最初に神戸や大阪の書店をまわって本を買い、応援してくれたのが彼らだった。存命であれば、もう80代だろうか。
ジャンゴ・ラインハルトのアルバム「ジャンゴロジー」を聴くと今も、早朝3時、新聞にチラシを折り込み、仕分けし、ホンダの白カブに乗って神戸の町に配達に出かけていった彼らと父のことを思い出す。海沿いの工場から駅前の商店街、山麓の団地、山の手の高級住宅街まで、寒い日も暑い日も毎日毎日......。ジャンゴの生涯を知るずっと前から切ない気持ちだけ先に受け取っていたのは、インクで真っ黒になった彼らの指先のせいかもしれない。




