家のような人
2026.07.25更新
東京の家の、お隣さんが引っ越すことになった。
昨夜、我が家で送別会をした。
私たちは、よく似た古い一軒家の隣同士だった。何軒かがまとまって40年前に建てられたそうで、私たち以外はみんなご高齢だったが、私とSさんの家の家主は、別の場所に引っ越されたようで2軒だけが賃貸住宅だった。Sさんは私より5つくらい年上で、aikoと平井堅が好きで、3人の子供とのんびりした夫さんがいて、なにせおもしろく、優しい人だった。
私がインフルエンザにかかって、一人で寝込んでいた正月のこと、彼女はウイルスのウヨウヨいる家に無防備にやってきた。そうそう、平成最後の正月だったから、あれはもう7年以上前になる。
「あの、私インフルで・・・」
「えー、大丈夫ですか? これ、生協で間違って二つ買っちゃったから、良かったら一つどうぞ」
と、パウチになっているお節を持ってきてくれた。嘘だろ。お節を間違うことないだろ。
熱出してるのを静けさで察知して、持ってきてくれたんだろうと思った。Sさんは、肝っ玉というか、太っ腹というか。持ってきてくれるものがチマチマしてない。
「これ、カステラ作ったから」
え! 一本くれるの?
「これしそジュース作ったから」
赤い原液は、日本酒の四合瓶に入ってきた。
今日の飲み会は私が主催と言い張っておいたのに、しこたまのビールと、豚軟骨の煮込みとサーターアンダギーを作ってきてくれた。
「あれ? そうだっけ? 忘れちゃった」が十八番。
あの時ごめんねとか、この前ありがとうとお礼を言っても、殆ど忘れている。いや、忘れたふりをしてたんだろう。とにかく気持ちのいい人だった。
私が引っ越してきてしばらくして、コロナの時期に突入した。私たち夫婦も暇になっていつも家にいて、Sさんちの子どもたちも学校が休みになって、方々からラッパとかサックスとかピアノとか、楽器の練習する音がして、家という場所がにわかに盛り上がった時期でもあった。
そのときに、うちの地域でバドミントンが流行った。家の前の道で、夕方までシャトルを飛ばし、夕暮れになっても街灯の下でバドミントンをした。その流れで、縄跳びも流行。まだ小さかったSさんの下の子が、私に縄跳びをくれた。運動不足だったからこれはありがたいと、暇を見つけては縄跳びをし、まだまだいけるぞと大人たちが必死に二重とびを競い合ったのも思い出深い。
そんな子供たちも大きくなって、彼女たちはついに家を買うことになって、この三丁目の夕日みたいな場所を出ていく。
それはつまり、この地域のボスがいなくなるということだった。近所のおじいさん、おばあさんはさぞ寂しがるだろうな。私だって、とても心細い。
私は根無草のようにふわふわ3年ごとに家を引っ越してきた。でも、ここにきて8年が経とうとしている。この家にこんなに長くいられたのは、Sさんがいたからだ。一つの家族を長いこと隣から見るという不思議。無責任な立ち位置だったけれど、それでも親戚の一人くらいの感覚は味わっていたと思う。
修学旅行のお土産を持ってきてくれたと思っていたら、もう大学を卒業!? そりゃ私たちも年を取るよねえと話しながら、自分の家族以外と同じ場所で家族のように暮らすこの感じを表す言葉って、ないのかもなと思った。
自分の思う「隣人」の枠を超えたものだった。長屋のようでもなく、ちゃんと線が引かれた上で、隣に気心の知れた味方がいてくれる安心感があった。
1週間会わなくても、2階の書斎で書いていたら、隣のベランダで洗濯を干したり、ドアのバタンと閉まる音がして、Sさん家族の元気玉のようなものがこちらにも飛んでくるのだ。そういう見えない気配に支えられていた。
Sさんは、私と一緒で地方出身だが、東京に出てきて長いからだろう、かなり江戸っ子気質である。
例えば、夏の早朝5時、犬の散歩軍団が毎日やってきていた。一匹なら問題ないのに、家の前で何匹も待ち合わせをして、飼い主たちが長話をしていくのだ。
そりゃあ、犬は吠えまくり、「こら〜、ちろちゃんダメよー静かにしなさい!」と飼い主たちは大声で叱り、あんたの声の方がうるさいよとなる。
私は原稿を書いて、寝始めるのが4時なんてこともよくあって、やっと眠りに入った途端に起こされるという地獄が続いていた。
「でも、言えないよねえ」
と話した数日後、
「はいはい、そこで溜まってないでー。行って行ってー」と犬の散歩軍団に喝を入れるSさん! 何と軍団を退散させたではないか! それ以降、早朝も快眠できるようになった。
昔、スケバンだったのかな。と思ったけど、分厚いメガネをかけて、どっちかというと私よりの地味子だったようだ。
だからこそ、私たちは仲良くなれたんだろうな。日の当たらなさとか、インターネットのない時代の田舎の慣習とか、ずっと台所に立つ母の姿、そういう背景が、たくさんは話さなくても大体わかったし、それが悪とも言いきらないし、ただ、そういうもんだと思って育ってきたことは、お互いわかっていた。
二拠点生活を始めてからは、東京に帰ってくる度に、「ちょっと、疲れてるんじゃない? 農業大丈夫なの?」と、4番目の子供のように心配してくれた。ヨレヨレを見かねて、夕飯を持ってきてくれたことも数えきれない。
いつもサクっと人を気遣うのがSさんだった。
「隣三軒と言うでしょう」と、私の家の方まで掃き掃除をしてくれ、綺麗に植えたチューリップの鉢は、私に見えるように、こっちに向けて置いてくれた。彼女の姿が見えなくても、そういったさりげない優しさに気がついた時、背筋が伸びた。
彼女の良い意味での昭和の女っぷりは見事だった。
高齢の方々の体調を気遣い、この数軒のエリアの自治会長を「私もう一回やるからいいよ」と言ってくれた。「いいよ、私やるよ。もう他のみんなは大変そうだから私たちで毎年してもいいよね」と話せる人だ。
田舎の自治会ってもっと大変だから、こんなのなんてことないよね。回覧板回したり、たまに号令がかかったら本部に行ったりするだけだもんね。と話した。自分が損をすることを屁とも思わない。うだうだ言わない。
この頃は、よく救急車が家のあたりに来るようになった。
周りの持ち家の人たちはもう80を超えていた。昨日はOさんのおばあちゃんだったね。一昨日はKさんね。あのおじいちゃんは、最近施設に行かれたみたいね。
私が自治会のことで相談に行くと、大体の家のことを把握していた。
Sさんはスパイ映画が大好きで、休みの日は飲みながらスパイ気分で映画を見ているから日常生活でも活かされてるんかなあ。
しまった、お中元で生物が届くけど愛媛だ! という時は、運送会社の方に電話して「Sさん家に持って行ってください!」とお願いする。
そして、「半分食べていいよ。半分冷凍しといて!」とメールする。
Sさん家に着で、ゲラを受け取ってもらったこともあった。
私がしょっちゅうSさんの話をするから「Sさんってどんな人なんですか?」と編集さんに尋ねられた。友人もみんなSさんを知っている。
「私より5つくらい年上なんですけどね、モデル体型で美人なんですよー。で、チャキチャキ。そして優しいんですよ」と言いながら、だけど、それだけだろうかと思った。
彼女の弱音のようなことを私はほとんど聞いたことがなかった。地震の度に同じ揺れを感じ、同じ犬の鳴き声で目を覚まし、救急車のサイレンを見守ってきたけど、彼女はいつも人を気遣って、自分の話をしない。
いや、するんだけどちょっとだけして、すぐに「そんなことより、高橋さんのあれはどうなった?」と私にボールを投げ返した。
東京に帰ってきたら月に一回は飲みに行った。いつも近況を話し合い、飲んで、やっぱりしみったれた話はしない。いつも髪を綺麗に巻いて、メイクをしてヒールを履いている。
彼女の子育て奮闘記を私は隣で見ているだけで、たまに飲みに行って、そこでも4人目の子供として飛び込ませてもらってばかりだったように思う。
夜、自転車で帰ってくるといつもSさんの家に電気がついていた。この電気が消え、また誰かの電気がつくんだなと思うと、家っていうのはとても不思議な場所だと思った。子供たちにとっては、ここが故郷で、でも秋くらいからは誰か別の人の故郷になる。
どんな人が来るんだろうねーと話す。
Sさんの新しい家は、またこれ一筋縄ではいかんような、面白い物件だった。また新しい家でも、近所の人たちを笑顔にさせるんだろうな。
深夜、コンビニまで歩きながら、並ぶ家々を眺める。地域とは、家の境界線を超え、醸し出す空気の重なりによって作られていく。彼女自身が「家」のような人だったんだなあと思う。
子供たちは一足先に帰り、深夜まで二人で飲んで「ありがとう!」と何度も言い合って、彼女は隣の家に帰って言った。
Sさん一家のいない私の新しい生活が始まるのかとぼんやり考える。
きっとまた元気で会おうよね。




