第14回
あんたのビートで踊らせろ!
2026.08.29更新
8月頭のことだった。深夜にSNSを見ていると、三原さんが亡くなったという記事が流れてきた。まさかと思って、二、三回読み直したけど、三原さんのお姉さんが三原さんのアカウントからアップしているから本当らしかった。それでも、間違いかもしれないなと、えっちゃんに連絡してみたが、深夜だったから返事はなく、ぐるぐると昔のことを思い起こして眠れなかった。
三原重夫さんは、チャットモンチー時代にずっとドラムテックを担当してくれた、私にとっては恩師のような人だった。
「どもどもー」と、レコーディング初日に颯爽と現れ、ドラムの音作りをしてくれた。私が「こんな音のイメージなんです」と伝えると、小さなキーボードをリュックサックから出してきて、レコーディングする曲のルート音を鳴らし、その和音になる音をハミングしながらヘッド(ドラムの表と裏の皮)のチューニングをした。メロディー楽器ではないドラムに音程を持たせて緻密にヘッドの調整を行うことは、吹奏楽部時代も散々やってきたが、それを三原さんというゴリゴリのロックバンドのドラマーがやっていることに最初は驚いた。
「ロックってその日の気分っすよ。パッションで叩けばいいじゃん」くらいに思っていたからだ。とんでもなかった。三原さんと一緒にやってみてわかってきたのは、レコーディングに必要なのは、一瞬のロックを永遠のものとして擦り減るまで聴かせる格好良さだった。ロックの定義と何だか相反しているが、聴いてもらえなきゃ意味がない。そのためには、裏付けされた冷静なかっこよさが必要だった。「ロックなんて感覚だ」というのはそれを全部やった人だけが言っていい言葉だったし、鍛え上げられるものなのだと三原さんから教わった。
翌朝、えっちゃんから連絡が来て、えっちゃんも三原さんの訃報を知らなかった。しばらく三原さんの思い出をやりとりして、SNSに流れる様々な追悼コメントを読んで過ごした。日本のロックシーンを引っ張ってきた少し上の世代の方々もみんな三原さんの死を悼んでいた。改めて、ドラムという楽器を通して、日本のロックシーンを底上げした人だったのだと思った。
私は、ステージでドラムを叩いていた三原さんを知らない。その代わり、レコーディング前、チューニングが終わった私のドラムを、私より上手に自由に、まさに水を得た魚のように、叩きまくる姿を呆然と見ていた。「ドラムは顔で叩く」というのはああいうことだが、レコーディング前にあんなにボカスカやられたら、こっちはますます縮こまってまうわー。いつも楽しそうで羨ましかった。
私以外の二人にはお茶目で楽しいロックおじさんだったけど、私にとっては厳しいドラムの師匠だった。三原さんもきっと、私にどう接したらいいのか迷ったのではないかな。当時女性ドラマーを教えることは少なかっただろう。しかも私のドラムは吹奏楽から来ているので独特だったから、その辺りも個性とするかどうかで戸惑ったと思う。
「もっとシンプルに、こう叩いたのではダメなの? 縦を揃えることの方が大事でしょ」
「まあそうなんですけど・・・でも」
私はさぞ面倒な人だったと思う。
私のドラムに背骨が通ったのは、三原さんのお陰だ。そして、ドラマーとしてやっていけたのは三原さんが女子だからと遠慮せずに言うことはちゃんと言ってくれたからだ。三原さんについていったから、今の私がある。
三原さんに初めて会ったのは、22歳、まだデビュー前で徳島にいた頃だった。
「久美子だけ数日間ドラムのレッスンに来てみない?」と、これから契約を結ぼうとしていたキューンソニーのディレクターKさんが電話をくれた。
ドラムのレッスンを勧められるほど自分は下手くそなんか、とショックを受けた。今思うと、ドラムという楽器は、バンドの要であり個人練習もしづらいから、変な癖が定着したら全体が崩れてしまう恐れがあった。きっとその前にと思ってセッティングしてくれたのだ。
YouTubeで今ならいくらでもお手本を見ることができるけど、当時は教則本についているDVDを見たり、ドラムの上手な地元のおじさんとスタジオに入るのがせいぜいだった。もちろんそれも勉強になっていたのだけれどね。
「嫌だったら無理はしなくていいからね」とKさんは付け加えてくれたけど、自分でできる範囲の練習はやってきたつもりだから、ドラムレッスンを受けてみようと思った。弦楽器の二人は徳島にソニーの方が来て音作りについて教えてもらう機会がたまにあったけど、ドラムはそういうのもなかったので、これはチャンスじゃないかと自分を鼓舞した。
池尻大橋のオリンピックインというホテルを連泊で予約してくれ、数日間のレッスンが始まった。売れるかどうかもわからないデビュー前の、しかもボーカルでなくドラマーに、ここまでお金をかけてくれるって、すごい時代やなと今となれば思う。長い目で見れば、バンドって、個々の個性と技術の両方を育てることが必要だけど、ドラマーにまでお金をかけられるかというとなかなか難しいと思うのだ。それに、個性と癖を見分けるというのも紙一重。これは三原さんにもよく言われたけど「基本あってこその個性だ」と私も思っている。
レッスンが始まった。自由に叩いてみてと言われて、叩いた。
「そのゴーストは16で入れてるの? それとも3連で入れてるの?」
「え・・・と。どっちだろう。なんとなくの感覚ですね」
と、私は答えた。
享年66・・・ということは、この頃の三原さんは、今の私と同い年くらいだったんだ。ローザ・ルクセンブルグやルースターズにいた天才ドラマーが、生意気な大学生に。本当に申し訳ない事態だったわけです。
「その変なゴーストをずっとやめなくて売れたバンドはおらんからな、やめた方がええよ」
ピシャリと言われた。ゴーストとは、ゴーストノートのこと。字の通り、お化けのように、8ビートの2拍目や4拍めの最後に引っかかるように小さな音で裏拍を入れるオシャレな手癖だった。16分音符で数えた時には4つめに入るはずだが、私はなんとなくかっこいいから入れていた。そこをまんまと見破られたのだ。
「普通の8ビートだったらダメなん? 大体、その音量、ゴーストになってへんやん」
「いや、はい。でも、こういうのがやりたいので」
みたいに言った。大人を舐めていた。今ならわかる。普通が一番かっこいいし、8ビートを叩き続けるのが最も難しい。その凄さを当時の私はわからずにいた。
「高橋さんは16を感じながら叩いてる? 君のそのゴーストはきっちり16の位置ではないよ。そいつによって全部のノリが崩れてるよ」
面倒なことを言うおじさんだと思った。こんな小さなところをつついてくるなんて、と。
「ドラムが良くないバンドは売れないよ」
レコード会社の人や、プロデューサーもいる中で、なんだか地獄のようなレッスンは続いた。すごいタム回しとかを教えてもらえるのかと思っていたら、ひたすら姿勢をキープしてビートを叩き続けるのだった。疲れすぎて私は思わず、
「疲れました。しんどいです」と言ってしまう。
「そんならもう帰りや!」
そりゃあ叱られるよ。最近の若いもんはの代表のような態度だったと思う。本当に疲れた。今までやってきたことの半分以上にダメ出しをくらって、自分の打楽器人生はなんだったんじゃいという気持ちになった。
「あんな、君は踊ったことある?」
「え?」
「本気で踊ったことないやろ? ドラムは人を踊らせる楽器だから。踊れんやつは人を踊らせられんよ。クラブに行って、朝まで踊ってきな」
本当に気持ちのいいビートなら、おかずなしで何時間でも人を踊らせられるということだった。ライブハウスにはそりゃあ何十回と行っていたけど、確かにクラブは徳島になかった。
その日の夜だったか、Kさんがゆらゆら帝国のライブに連れて行ってくれた。翌日の夜はプロデューサーのいしわたりさんが渋谷の楽器屋さんに連れて行ってくれて、電子ドラムでもない音の鳴らないゴムパッドのドラムセットを買って、鳴門のアパートに置いた。
ぺちゃんこにへしゃげた私を、変わるがわる大人たちはフォローしてくれていたのだ。ロック界のレジェンドに教えてもらうというまたとない機会だというのに、今思うと信じられない無礼者だった。
上京してから、私は夜な夜な終電でクラブに通った。そして、朝まで踊って始発で帰った。踊る人たちは、そのビートの何がかっこええかなど口では説明できなくとも、無意識で朝まで踊っている。いや、ビートに踊らされているのだ。それが良いビートの証拠だった。
自分が何を叩きたいかはその次で、まずはCDを聴く度、またはライブ中の3時間、人を踊り続けさせる。それが私の役割なんだ。踊ってみて初めてわかった。それから、変なゴーストはやめた。今あれをやってる子を見かけるとあの日の三原さんのように指摘したくてうずうずする(しないけど)。
そして、16を感じながら8ビート叩くようになった。三原さんの言うことの大半は実践できたと思う。褒められることもないけど、注意されることも減っていった。変なアレンジは相変わらずやめなかったけれど、しゃーないなあという目で見てくれていたように思う。
三原さんの言うかっこよさが本当の意味でわかるようになったのは、自分が作詞家になってからだ。作詞講座をしていて、
「なんでこの言葉書いたん?」
「なんとなくかっこいいから」
というやり取りが毎回繰り返される。その度に、ああ、あの日の私と一緒じゃないかと思うのだ。
なんとなくかっこいいものは確かに世の中にたくさんあるけど、かっこよさが長く続いているものは、必ずしっかりとした背骨がある。論理に裏付けされている。
本当にいいビートは、30分繰り返しても、1日繰り返しても踊り続けられる。それは言葉というビートでも同じことが言える。本当に素晴らしい文章は、何度繰り返し読んでも素晴らしい。
ドラマーっちゅうポジションはやんややんやと言われやすい。生身の人間なのにリズムマシーンのようにクリックに合わせて、揺れずに同じビートを叩き続けることが今のポップミュージックのドラムの基本だと言えるだろう。レコーディングとなればなおさら。
ある日のレコーディングのことだった。
あれやこれやと大人たちに注文を出されて私はへばっていた。何テイク、何十テイクやってもOKが出ない。三原さんはブースで黙って見守っていた。
そして、途中で私をブースの外に呼び出した。叱られるのかと思ったけどそうではなかった。誰もいないところで、三原さんは私の目を見て言った。
「久美子ちゃん、ドラムってな、みんなに言われやすい楽器なのよ。リズムって一番目立つし、久美子ちゃん言いやすいからなあ、みんな言うてしまうんだろな。ドラムってポジションの大変さは僕もようわかってる。そやからな、気にしすぎんと気楽にやったらよろし。好きに叩いたらよろし」
下手くそ頭でっかちだった私を精神的な面でも支えてくれていたのは三原さんだった。同じドラマー同士だからこそ、レコーディング現場の一番近くで、私の気持ちを理解してくれていた人だった。
私がバンドを抜けると知らせた時も、「まあ、これが最後ってわけでないからな、また飲みにでも行こう」と言って、大しては寂しがってくれなかった。
そんなふうに、いつも飄々とそこに生まれるビートで踊り続けている人だったなと思う。好きなドラムのこととなると何時間でも音作りを粘って、会うたびに新しいチューニング理論を話をしてくれた。三原さんは誰よりもドラムが好きだった。もしかしたらドラムテックではなくて、ずっとバンドでドラムを叩いていたかったのではないかと思ったりもする。私は求められながらもそうなれなかったから、三原さんがずっとずっと眩しかった。
感謝の気持ちも大して伝えられなかった。だけど、三原さんと一緒に作った音は、全部音楽の中に残っている。ちょっと不協和音にしたり、ハンカチミュートでは効かずタオルミュートにして、ガッチガチで叩くたびに腕が痛いし、生音は全く良くないしで、文句を言っていたら、
「でもな、久美子ちゃんが目指してる爆発音みたいなスネアは、これくらいミュートかけといて、後でコンプをかけたら。ほら、こうなるねん」
「うわ! ほんまや。叩きよる時の音と全然違うー!」
「な、海外のごっついドラマーが叩いてるみたいな音になるやろ」
三原さんがいたから私のドラムは完成した。
最後に会ったのは、下北のライブハウスで飲んでいた時だった。いきなり三原さんが現れた。
「なんやー、チャットのドラマーが飲んでると聞いて来たら、あんたの方かー!」と意地悪そうに笑っていた。どうやら、私が脱退後にベースからドラムに変わったあっこちゃんの方だと思って来たらしい。
久々すぎて、お互いに気まずいなあという雰囲気があったけど、今こんな活動をしていますと話したり、チャット時代のレコーディングの話にもなった。
「シャングリラがヒットしたのは、あのスネアの気の抜けたチューニングのお陰と思うよ。最近、いろんな現場に行ったら、シャングリラみたいな音にしてって言われることが多いのよ」
と嬉しそうに話してくれた。
「そうですね。すごい音ですもんね。でも、違和感って大事ですよねえ」
これも、作詞家として言葉を選ぶ時に大事にしていることだった。
あの日の三原さんと同じ歳になって、三原式メソッドを本当の意味で理解できるようになってきた。私のドラムの音色、そして言葉の音色も、三原さんの教えが背骨になっているんです。三原さん、本当にありがとう。これからも基礎を大事に、私のビートで頑張ります。




