第5回
猫のあんず
2022.02.09更新
3年ぶりだったろうか。
世界中で大流行している疫病のせいで長らく会っていなかった両親の暮らす東京へと、久しぶりに出かけた。
数年ぶりに見る成長した孫たちの姿に、両親は心からの笑顔になった。嬉しそうな親の顔を見ていると、普段の自分の不精は棚に上げ、親孝行しているような気分になるから不思議である。
だが再会から数時間も過ぎれば、やることも話すこともなくなる。
ここは東京。瀬戸内の島で生まれ育ち、いつも雄叫びを上げるように近所を駆け回っている子供たちはすぐに退屈してきた。やることも特にないので、実家のすぐ近所に新しくできたというショッピングモールへ出かけることになった。
僕は元来、人混みが苦手である。人混みの中で買い物をするのはもっと苦手である。自分の歩きたい速度で歩けないというのが、まず腹立たしい。モールなんてどこも大きさ以外は大して変わらないじゃないか。似たような店に似たような空間。自分が今いったい日本のどこにいるのか、なんだか迷子になったような気持ちになってくる。どこかに風情のある商店街は残っていないのだろうか。
だが、何事も勉強である。この日、僕らは思いもよらない店に遭遇した。
その名は猫カフェ。漢字の読めるようになった娘がまずその看板に気がつき、いつものように弟を口車に乗せた。二人は完全に猫カフェに行く気持ち120%。何があっても行くと言って聞かないので、仕方なく入ってみることにした。
入り口にはレジがあり、その後ろの大きなガラス窓からは、店内がよく見える作りになっている。なるほど。確かに猫カフェという名の通り、数多くの種類の猫たちが、店内の至る所に見える。テーブルの上、椅子の上。壁を伝って歩くもの。窓辺で寝るもの。高いところから見下ろすもの。
正直に言って、そもそも僕は猫がそんなに好きではない。もちろん飼ったこともない。犬か猫かと言われれば、犬と即答する。コーヒーを飲むならもっと静かなところに行きたかったが、こうなってしまってはどうしようもない。子供たちの目はもう輝いてしまっているのだから。
先にレジで飲み物を注文するルールだったので、カフェラテを頼んだ。ラテアートというサービスがあるらしく、店にいる猫から好きな種類を選べという。昨今のバリスタはとうとう猫の顔まで描き分けられるようになったらしい。店員の言われるまま、写真の中からどの猫がいいか選ぶよう娘に促したところ、
「私2個がいい」という。
全くどうしていつもそういうわがままを言うんだ。2個は無理なんだから1個にしなさい! と、イライラしていた僕は語気を強めて言った。娘はポカンとしている。娘が指を差した写真をよく見ると、そこにはアメリカンショートヘア「ニコ」と書かれていた。
レジの女性は苦笑いしている。僕は耳を掻きながら、ニコちゃんでお願いしまーすと告げた。
猫が逃げないためなのだろう、二重の扉になっているガラス戸をくぐって僕らは店内へと入った。
右に猫。左に猫。壁を見上げても猫だった。
子供は2人とも猫の方に走っていったので、僕と妻はなるべく猫のいなそうな一番奥の窓際の席に腰を下ろした。これでやっと落ち着ける。風船から空気が漏れるような息を吐いた。長いドライブの果てに辿り着いた東京だ。僕らは夫婦揃ってとても疲れており、すぐに眠気がやってきた。昼下がりの温かな日差しが心地よかった。
しばらくして不意に手元のブザーが鳴った。飲み物ができたという知らせだ。僕は一瞬の昼寝から覚め、飲み物を取りににいった。
お待たせしましたー、と言う店員のお姉さんから渡されたカフェラテには確かに写真のニコちゃんの顔が描かれている。すごい。完全に再現されている。これは時間がかかるわけだ。でもあまりにもできすぎている。これではこのラテアートの達人が休んでしまったらカフェは回らないんじゃないか。この人はちゃんと休暇はもらえているんだろうか。もしかしてここはブラック企業なのでは。これってあなたが描いているんですか? 思い切って聞いてみると、「いえ、こういうプリンターがあるんです」とさらりと答えてくれた。どうやら進化したのは職人の腕ではなく、機械の方であったらしい。
席に戻ると、子供たちが猫に餌をあげたいとせがんでくる。店内にはあちこちにガチャガチャが設置され、猫の餌を販売しているようだった。もちろんさっきから気づいてはいたが、見てみぬふりをしていた。200円。まあそれくらいならいいか。一回だけだぞ、と二人にお金を渡すと、その一分後にはもう戻ってきた。もう餌がないから、もう一回やりたいという。
たった今あげただろ!? 嘘くさいので確かめるため、今度は僕も一緒にガチャを回しにいった。出てきたプラスチックのボールを開けると、中にはわずか6粒ほどの柿の種のような猫の餌。子供の言ったことは本当だった。これなら3秒でなくなるだろう。その餌のあまりの少なさに呆気に取られている僕の周りに、7匹ほどの猫が早くもわらわらと集まり、物欲しそうな顔で見上げているじゃないか。なんという危険な場所なんだここは。このままでは子供と猫とガチャガチャの無限ループに突入して有金全部を吸い込まれそうな気がしたので、餌を子供の手に押し込み、そそくさと僕は退散した。
そういえば人生で一度だけ猫と少し仲良くなったことがあった。
あれは確か周防大島に移住をしてすぐの頃だ。僕らはその時、築200年ほどの古民家に暮らしていた。生まれて初めて暮らす、土間と竈のある日本家屋は驚きの連続だった。
台所に行くだけなのに靴を履かなくてはならなかったし、大雨の日は土間が水で染みてきて、ものすごい湿気だった。お気に入りの皮靴にカビが生えてがっかりしたのを覚えている。赤ん坊がいたのも具合が悪かった。突然の泣き声に振り向くと、土間に娘が頭から落っこちていたなんていうこともあった。
だが何より驚いたのは土間という空間が、半ば自分の家ではないような、セミパブリックな場所であるということだった。まるで縁側のように人はそこまで、堂々と土足で入って来られる。
夜、まさにこれから寝ようというその時に、近所のめかしこんだおばあちゃんが酔っ払って入ってきたこともあった。
夕方家に帰ると土間の真ん中にバケツが置いてあって、大きなエイやタコが入っていたこともあった。
親切に晩ご飯のおかずを一品置いて行ってくれる人もあった。
早朝の6時前に近所のおじいさんが「おるかのー?」と入ってきたこともあった。
そしてどこからかやってくる野良猫もあった。
体の小さな灰色と白の縞模様のその猫は、夜によくやってきた。足だけは真っ白で、なんだか地下足袋でも履いているように見えたので、僕と妻はいつからか「タビ」と呼ぶようになっていた。痩せていたがとても綺麗な猫だった。一度、ダシを取り終えたイリコをあげたのがいけなかったのか、毎晩のように顔を見せるようになっていった。最初のうちはどこか恐れているようだったけど、次第に慣れ、体を撫でてもじっとしているようになった。
だがある時を境に、急に顔を見せなくなった。どこか遠くへ行ってしまったのだろうか。あるいは轢かれてしまったのか。どこかで拾われたのか。
徐々に可愛くなってきていたタビを心配する妻と僕だったが、あれっきり2度と会うことはなかった。
東京の猫カフェでそんなことを思い出していた。
妻は本当に疲れているらしく、窓際でよく寝ている。僕は甘ったるい猫のカフェラテを飲みながら、久しぶりに見る東京の郊外の景色を眺めていた。窓の外には、数多くの家族連れが年末の買い物を楽しんでいた。視界に入る人たちだけですら、もう周防大島の人口を超えているような気がする。海も山も見えないからだろうか、なんだか外国を旅しているような気分だった。
その時、足に何かが触った。上から見ても何もいないので、屈んで椅子の下を見てみると、1匹の潰れたような顔をした白い猫がそこにいた。なんとなく面構えと態度が太々しい。
テーブルの上に置いてあった猫紹介の写真を手に取り、よく見比べてみた。多分これだなという少し不細工な猫がいた。「あんず」と書いてある。試しに名前を呼んでみた。
あんずは僕の呼び声には見向きもせずに椅子の下から、窓の縁へと素早くジャンプした。どうやら日の当たっていたその場所で日向ぼっこをするのが目的だったようだ。
気持ちよさそうに、目を瞑ってじっとしている。さっきまでの太々しさが少し和らいでいるような感じがしたので、そっと手を伸ばし恐る恐る触ってみた。びっくりするほどふわふわだ。もっふもふだ。太陽の光を浴びて、眉間に皺を寄せている。そのおでこの辺りを撫でてみる。気持ちよさそうにじっと動かない。猫の額に手を置いて、一緒に日の光を浴びながらうとうとしていると、なんだかとても良い気分になってきた。あんずと日の光以外のことはもはや全てどうでもいいような気がした。
しばらく時間が過ぎると、あんずは仰向けに寝っ転がった。腹を出して目を瞑っている。おおなんと。心を開いた。そう思った僕は腹を撫でてやった。一転、あんずは素早く噛み付いてきた。甘噛みではあったがびっくりして手を引っ込めた。何事も無かったかのようにまた寝に入るあんず。もう一度ゆっくり手を伸ばし頭を撫でてやる。やはり仰向けのまま気持ちよさそうな顔でじっとしている。顎の下を撫でてから、そーっと腹の方へ手をやってみる。ガブリ。もう一度噛み付いてきた。
なかなかしたたかな牝猫である。出会ったばかりでそこまでは許さないわよ。まるでそう言われているようであった。僕はそのアメとムチ作戦の術中に見事にはまった。
あんずちゃーん。自然と出てしまう高い声は、ついさっき孫を抱き上げていた実家の父によく似ている気がした。
それからしばらくして、あんずと一緒に昼寝をしていた僕は目を覚まし、ふと時計を見た。店内に入ってから一時間が経過していた。名残惜しくもあんずに別れを告げたが、彼女は僕には目もくれなかった。
子供達と妻を招集し、店を出ようと入口のガラス戸へ向かった。ガラス戸に手をかけたその時に、足元に何か触った。あんずであった。店の一番奥に座っていた僕の席からはかなりの距離があるのに、わざわざ見送りに来てくれたようだった。もう一度触ろうとしゃがみ込み手を伸したが、プイッと向こうを向いて去っていったしまった。それっきりこちらを振り返ることはなかった。
・・あんずちゃんまた来るからね。
猫の余韻にふわふわと浸りながら、レジで支払いを済ませようとした僕は驚愕することになる。
「8560円です」
爽やかな声で、そう伝えてくる店員のお姉さん。
はい??
店にいたのはわずか一時間。飲んだものは大して美味くないカフェラテ2杯と、子供たちのジュースだけだ。
耳を疑ったが、目の前のレジの画面にきっちりとした数字が並んでいる。
そうか、ここは新手の風俗なのか。
あんずの顔が頭に浮かんだ。
ちょっとクセのある美人揃いの店。不平不満は決して言わないホステスたち。それも年中無休で働いて、一切のお金は求めない。
これはとんでもなく頭の良い人が始めた新しいビジネスに違いない。家では猫を飼えない猫好きも多いだろう。猫好きだけじゃない、世間の荒波で疲れた心を癒しにくるサラリーマンもたくさんいるに違いない。ひょっとしたら入れ込みすぎて、猫を我が物にしようと拉致を考える人すらいるかもしれない。突然ハッとして、辺りを見回す。誰か黒いかばんのようなものを持っている頭のイカれた奴がいはしまいか。あんずちゃんの無事が心配になってくる。来年も必ず会いにくるからね。今度はたくさんお金持ってくるからね。