第16回
ふたり旅
2023.04.11更新
イスタンブール空港に降りたって一番先に目に入ってきたのは、オレンジ色の服を身に纏ったレスキュー隊員たちだった。日本からずっと同じ飛行機だったのだろう。
整列し、何かを話し合っている様子だ。
原因はわかっている。昨日トルコで起きた巨大地震だ。
発生したのはちょうど僕と母が日本を出国する数時間前のことだ。トルコを襲ったその巨大地震の被害は計り知れない。
イスタンブールと震源地は遠く離れてはいたが、それでも影響は大きいようだった。
時間はまだ早朝だったが、空港のロビー、ベンチや待合所で熟睡している旅行客も目に入った。どうやらキャンセルになった飛行機もたくさんあるようだ。
空港の巨大な液晶画面の前にさまざまな国籍の人たちが自分のフライト情報をチェックしている。僕らも心配な気持ちで、次に乗る飛行機の番号を探した。
イスタンブール発、ローマ行き。
予定より1時間遅れに変更されていた。ほっと息を吐いた。キャンセルにならなかっただけでも良しとしなくては。
イスタンブール空港、世界への玄関口と呼ばれる最大級の国際空港だ。
その名に違わず、空港内にはありとあらゆる人種がひしめいていた。白人、黒人、アジア人はもちろん、インド系やアフリカ系の人、中東の人。
世界中すべての人種を集めてきたようにすら思えた。
見たこともない朱色の大きな布を被った一団に遭遇する。どこかの国の宗教者たちだろう。一人の老婆が長い下りのエスカレーターに乗ろうとするも、震えて、泣き崩れるように悲鳴を出した。どうやら生まれて初めてエスカレーターに乗るようだ。同じ一団の男性に抱き抱えられるようにして、一歩一歩エスカレーターに進んでいく。なんとなく手を貸したい気持ちになるが、手は足りているようだった。心の中で見知らぬその老婆にエールを送る。
だだっ広い空港の廊下をピーピーという機械音と共に電動の運搬車が走ってくる。乗せているのは荷物ではなく人間だ。僕のすぐ目の前を静かに走り抜けていく。続け様に2台。
乗っていたのは明らかにインド人の風貌。1台目は男性で2台目は女性。年齢にして60歳前後。おそらく夫婦なのだろう、二人はそっくりだった。性別こそ違えど、放っている空気感も、そのでっぷりとした体格も全く同じだった。
おでこの中心には何かの宝石。そして遠くを見つめる気位の高い眼差し。
マハラジャだ、僕はそう思った。
乗っているのは運搬車だが、不思議なことに象に見えてくる。彼らは自分の国では象に乗っているに違いない。何かいいものを見たような気がした。
12時間という長かったフライトですっかり縮んでしまった体がギシギシいっていた。
顔も洗いたいし、歯も磨きたい。体を伸ばしてトイレに入ると、みんな考えていることは同じなようで、トイレはとても混んでいた。長い列に並ぶ。一人の白人がその順番を勘違いして横入りしてしまい、アジア人に大きな声で檄を飛ばされる。どうやらみんな時差ぼけでイライラしているようだ。
備え付けられている小便器の高さが日本よりもずっと高く、外国へ来たことを再認識させられた。
用を済ませようとするも、便器には澱んだ黄色の液体が溜まっている。隣の便器を覗き込んでみたが同じことだった。仕方なくその便器で放尿。排水溝の上には芳香剤の役目なのだろうか、花の形にあしらわれたゴムのシートのようなものが置かれている。
ゴムの花の間から少しずつ流れていく澱んだ液体をみながら、ふと下水道の中を想像してみる。
これほどまでに多様な人種の汚物を飲み込んでいる下水はどこにもないのではないか。
それは言い換えれば、世界中のありとあらゆる種類の食べ物を消化している。
全ての栄養素を飲み込んだ下水。
ここは世界で最も多様性に富んだトイレなのではないか。肥溜めを作れば、もしかしたらすごくいい肥料ができるかもしれない。
これはとんでもない発見をしてしまったぞ。と、自分のアイデアに興奮したのだが、しばらくして、それがものすごくどうでもいいことだと気がついた。
2時間ほど暇になってしまった僕と母は、空港のカフェで休憩することにした。
注文したのはオレンジジュース2杯と、パイの実のような小さなお菓子を二つ。合計18ユーロ。1ユーロ145円で換金したのだから、日本円にすると3000円近くか。
オレンジジュースとパイの実だけで3000円。
とんでもない物価だ。これは節約しなくては大変なことになりそうだ。
値段はともかく、トルコのバクラヴァという名のパイの実はとても美味しかった。バターの風味が強いパイの中にたっぷりとピスタチオが挟まっている。小さいがすごく甘いので、たくさんは食べられそうにない。
そしてオレンジジュース。こんなのどこで飲んでも同じだろうと思っていたが、時差ボケでおかしくなっていた体にスーッと染み込むように潤いを与えてくれた。手絞りではなく、機械絞り。日本では見たことのない大きな機械の中で、大量のオレンジが皮ごとぐるぐると回り、押しつぶされて果汁だけが絞られていた。フレッシュ。
休憩している間に母は半世紀も前の昔話を始めた。
1972年。
20歳の母が初めて飛行機に乗った年。それは今のように簡単に海外へ行ける時代ではなかった。
10代から憧れ続けたイタリアへのフライトはモスクワとパリを経由しなければならなかったという。
パリに到着し、生まれて初めてのホテルで夜を明かす。
言葉も通じなければ、誰一人知人のいない外国では何もかもがわからずに朝食すら食べることができなかった。
成田空港へ見送りに駆けつけてくれた叔母のお手製ちらし寿司弁当をホテルの部屋でありがたく食べたそうだ。東京からパリまでのはるか数千キロを一緒に飛び越えてきたそのちらし寿司弁当は、当然とも言えるだろう、腐っていた。完食した母の腹を襲うことになる。洋式トイレはまだ日本では珍しかった時代だ。不慣れな母は、おちおち座っていたのでは出るものも出ないと、便座の上に足を踏み締めて、和式のようにまたがって用を足したという。
我が母ながら圧巻である。
パリの空港から、いよいよイタリア行きの飛行機に乗ろうという待ち時間、母の腰掛けていたベンチの隣にイタリア人紳士が座ってきた。
顔を覗き込むと、それはイタリアを代表する名優・マルチェロ・マストロヤンニだった。映画「ひまわり」やフェリーニの「甘い生活」、スクリーンの向こう側に見ていたマストロヤンニ本人に奇しくも遭遇したのだ。
あえて例えるなら、映画「男はつらいよ」に憧れて日本へやってきた外国人の隣に渥美清が座るようなものだ。
「ダーティーハリー」に憧れたならクリント・イーストウッド。
「燃えよドラゴン」でいうならブルース・リーだ。
母は腰を抜かすほど驚いたが、話しかけないわけにはいかない。
思い切って口を開いた。
マストロヤンニさんですか?
私はあなたの映画のファンです。
私は中学生の頃からずっとイタリアに憧れていて、今まさに初めて行くところです。
ペルージャの語学学校でイタリア語を学びに行くんです!
興奮して話す母に、マストロヤンニは温かな眼差しとその独特の優しい声でペルージャという街がいかに素敵なところか教えてくれた。そして母の小さな手帳にサインをし、握手をして去って行ったという。
その大きな手の包み込むような感触を昨日のことのように思い出すと母は言った。
当時、女優カトリーヌドヌーヴとの間に子供がちょうど生まれたところだったから、あれはフランスにいる子供に会いに行った帰りだったのだろうと、ずっと後になってからそう思ったそうだ。
母は今年72歳になる。
重い緑内障を患っていて、日に日に視野が狭くなってきている。目がまだきちんと見えているうちに、もう一度イタリアに行きたい。イタリアの友人たちを訪ねたい。
20歳で初めてイタリアを訪れて以来、その後も何度となくイタリアを旅してきた母だが、きっとこれが最後の旅になるだろう。
一人ではもうとても行けないという母を連れて、僕は今回初めて一緒に旅に出ることにした。
初めてのヨーロッパ。初めてのイタリア。
そして最初にして最後になるだろう母とのふたり旅。
羽田を出発する際に、パスポート写真を見ての本人確認があった。
係の女性からマスクを外すよう促された母は、笑顔でマスクではなくメガネを外し、係員を凍り付かせた。
そしてイタリアでの入国審査の時も、カメラの前で顔を撮影されるのだが、マスクを外してくださいという係員の声を無視して、何を思ったか全く理解できないがマスクを外さずに力づくでゲートを強行突破しようと試みていた。
これはなかなかに大変な旅になりそうである。
(つづく)