暮らしと浄土

第7回

ブラウン

2022.04.24更新

 近頃、島の中で泥棒が出るという。

 事件らしい事件などほとんど起こらない周防大島だが、このところよく耳にするのがこの空き巣の話だ。島の人間は玄関の鍵をほとんどかけないというのだから、都会に暮らす方は呆れてしまうかもしれない。

 つい先日、知人の家にも泥棒が入ったらしい。といっても、被害は大したものではなく、つい玄関先に置いてあった子供のお年玉を持って行かれたという話だ。やはり玄関に鍵かかっていなかったそうだ。

 戸締まりしないのは不用心だから、やはり鍵をかけることにしよう。

 てっきりそういう話になるのかと思ったのだが、家主は今でも鍵をかけていないという。

 以前、ドキュメンタリー映画でカナダに暮らす人が、「家に鍵はかけない、それほどにここは治安がいいんだ」と話しており驚いたことがあったが、どうやらここ周防大島もカナダに負けず劣らず、暮らしやすい島であるようだ。

 近所の建具屋さんである田村さんの作業場もいつも鍵がかかっていない。

 誰もいない時でも常にそこは開かれている。ツバメが巣作りをする時期などは、入り口の扉すら開いたままになっていて、作業場の天井には毎年いくつもの巣が残されていた。

 田村さんはいつも独特の語り口を持って話をしてくれる。僕は田村さんの話を聞くのが好きで、よく通りかかっては作業場に顔を出していた。

 この日はちょうど島で起こった空き巣の事件について話が及んだ。

 すると、田村さんは泥棒をする人間に対してこう言った。

「因果を知らんのんじゃ。恐ろしいことよ。善因善果、悪因悪果。全て自分に返ってくるんよ。いいことをすればいいことが返ってくる。悪いことをすれば悪いことが返ってくる。それも大きなって返ってくるんよ。その人間は因果を知らんのんじゃ。恐ろしいことよのう」

 田村さんの作業場はいつも演歌がかかっている。しかもフルボリュームでかかっている。別に耳が遠いわけではない。かつてカラオケの先生もやっていたことがあるという田村さんのスピーカーはきっとこだわりの物なのだろう。最初はそのあまりの音量に驚いたものだったが、慣れてしまえばそう居心地の悪いものではない。

 あれはいつだったか、一度明け方に田村さんの作業場を通りかかったとき、演歌が聞こえてきたことがあった。流れていたのは大音量の北島三郎だ。僕は思わずエンジンを止めて、車を降りた。

 ちょうどその時、鳥たちが一斉に鳴き始めた。早朝のある一定の時間、鳥たちはやけに騒がしく鳴く。それは空気が最も静かな時間で、鳴き声が一番美しく遠くまで聞こえるからだと、何かの本で読んだ。

 青白い澄んだ空気の中で聞こえた三郎もまた格別であった。朝靄の中に立っている自分が、どこか違う時代、どこか違う時空の隙間のようなところに入り込んでしまった。そんな錯覚を覚えた。

 田村さんの作業場の横には黄色いフォークリフトがいつも停まっている。

 かなり使い込まれた年代物で、あちこち錆びており、とても動きそうになかったが、まだ使えるという。

 そのフォークリフトのことを思い出したのは、ある機械がうちの作業場に到着した時だ。

 その機械は200キロほどもあるのに、運送屋さんはたった一人でやってきた。こちらは向こうが一人でやってきたことに呆れたが、向こうはこちらが僕一人だということに呆れていた。どう考えても二人で抱えることなど不可能だった。

 僕の作業場と田村さんの作業場はちょうど山の反対側だが、ほんの1キロほどしか離れていない。北側の斜面を下り切ったところが僕の作業場で、南側の斜面を下り切ったところが田村さんの作業場だ。あの坂道を上がっていけばもうすぐそこだ。

 僕は田村さんを頼って電話をした。事情を説明している僕の声を遮って、田村さんは即答してくれた。

「ワシが行っちゃらあ。すぐ行くけえ、待っちょきんさい」

 ほっと胸を撫で下ろし、僕は待った。

 だがいくら待っても田村さんは一向に現れない。おかしい。ほんの1キロしか離れていないというのに。何かあったのだろうか。

 段々と僕の不安が大きくなってきた頃、遠くから高鳴るエンジン音が聞こえ始めた。

 来た来た来た! 待ってましたよ!

 僕は横にいた運送屋さんと一緒に立ち上がった。

 音の方角、坂の頂上を見上げると、フォークリフトに乗る田村さんの姿が見えた。

 ウイィィィィィィィィィン!!!

 ものすごい音が集落に響いている。

 だが遅い。田村さんの乗るフォークリフトはとてつもなく遅かった。

 時速5キロくらいだろうか。どう見ても歩いているくらいの速度だ。

 僕と運送屋さんは顔を見合わせ、もう一度座り直した。

 その後、ゆっくりと到着したフォークリフトはボロボロだったが、その力はやはり凄まじかった。田村さんはサッと機械を下ろし、あっという間に中まで運び入れてくれた。

 リフトに乗る田村さんの背中を見ながら、この機械は田村さんの名前にちなんでヒデオ君と呼ぼう。そして長く大事に使っていこう。そんなことを僕は考えていたと思う。

 全ての作業が終わった後に、田村さんに話を聞いているとフォークリフトのブレーキは壊れていて使いものにならないという。びっくりした僕は、そんな危ないの乗っちゃダメじゃないですか、と思わず大きな声を出してしまったが、

「世話ないんよ。サイドブレーキがあるんじゃけえ」

 田村さんはニカっとした笑顔で言った。

 今こうしてパソコンに向かって、田村さんのことを沢山思い出しているのは、つい先週亡くなったからである。

 このところ具合が悪くて、入院していたのは知っていた。だがコロナでお見舞いにすら行くこともできず、とうとう最後まで顔を見ることができなかった。

 聞き書きを始めようとした時に、真っ先に頭に浮かんでいた一人が田村さんだったが、ついに叶わぬ夢となってしまった。

 僕に今できるのは記憶の糸を手繰り寄せることだけだ。

「ワシは車が好きでのう、よう乗ったもんよ。何台乗ったかのう。若いとき一番憧れとったんはGTっちゅう車でな。知り合いの社長が乗っちょった。格好が良くてのう、ワシはそれがどうしても欲しかったんよ。じゃけえ無理して買うたよ。ピカピカに顔が映るほどに磨いてのう、綺麗な車なんよ。運転席に座るじゃろう。そこから見える車のボデーのラインが違うんよ。ワシは死に物狂いで働いてのう。人の寝る間も働いたよ。まず朝は2時に起きるじゃろう、3時にはもう仕事を始める。合間に飯くらいは食べるがのう、そのまま夜まで仕事しよった。商売っちゅうのはそがなもんよ。商売やる人間の休みは雨の日くらいのもんよ。じゃけど、雨じゃあ車が汚れるけえねえ。結局、ほとんどその車に乗ることはなだった」

 僕は2年ほど前、養蜂のための工房を新しく手に入れた。

 かつての農協だったその建物は古かったが、つくりも丈夫で、何しろ広い。車の出入りもしやすく、僕らにはうってつけの物件だった。あちこち古くなっていたので改装は必要だったが、僕らはなるべく自分達の手でやることを選んだ。内装や、外壁などの塗装の仕事は全て僕ら自身でやった。

 もちろんプロに頼んでしまえば簡単なことだったが、多少下手でも自分達の手でやる方が、思い入れも湧く。あそこのマスキング失敗だったなあ、などと思うこともあるが、それも今となっては楽しい記憶に変わった。素人集団ではあったが、作業の後半はみんなもだんだん慣れてきて、その出来栄えに僕らは自画自賛していた。

 新しい工房は田村さんの作業場のすぐ目の前にある。

 田村さんは僕らが塗装作業をしていると、

「器用じゃのう、なかなかええ具合に出来ちょらあ」

 などと言って、しょっちゅう顔を覗かせてくれた。

 外壁を全て塗り終わったある日、僕は少し離れたところから工房を眺めていた。

 当初、赤い土のようなイメージで塗り始めたその赤茶色の塗料は、思っていたよりもずっとピンクだった。

 これ何色だと思う?

 そう娘に聞くと、「真っピンク」と答えが返ってくるほどにピンクだった。

 集落の中で浮いているんじゃないか、ちょっとやりすぎだったんじゃないか。何を言っても後の祭りだったが、正直僕は少し心配な気持ちで工房を眺めていた。

 通りかかった田村さんが自転車を止めて僕の横に近づいてきた。

「ええ感じに仕上がったのう」

「色どうですかね? どう思います?」

「ええ色じゃのう。どう言うたらええかのう、なんかこう、胸の中がぽうっと温もるような、あったかい感じがするのう。気持ちが明るくなる。ええ色じゃ」

 ドキドキして聞いた僕は、この言葉に大きく救われた。

「とひ(雨どい)は塗らんのんか?」

「これから塗りますよ。来週やろうと思ってます」

「何色にするんで?」

「雨どいまでピンクってわけにもいかないんで、茶色にしようかなと思ってます」

「茶色かあ。・・・それもええが、ブラウンがええじゃろうのう」

 ・・ん? ホワット? なんですと?

「茶色も悪くはないが、・・・まあブラウンが一番ええじゃろうのう」

 しみじみと田村さんは目を細めて同じことをもう一度言った。

「・・・いいっすねえ、ブラウンもいいっすねえ」

 田村さんのブラウンが一体何色なのか心底気になったが、僕には聞くことができなかった。

 そして次の週、雨どいは全て綺麗な茶色に仕上がった。

 これを書いている今日は啓蟄だ。

 冬を超えた虫たちが土の中で初めて動き出すという、春の到来を表す暦だ。

 ミツバチたちの動きも少しずつ活発になってきた。

 僕が暮らす集落の河津桜は満開になり、今まさに見ごろを迎えている。

 僕と妻は近所の河津桜を一枝切って、田村さんの作業場まで持って行った。田村さんが亡くなってまだ数日、もしも魂がまだ残っているなら、戻ってくるのはきっと一番時間を過ごしたこの作業場だろうと二人で話した。

 花瓶に河津桜と菊の花を生けた。

 田村さんの作業場はとても静かだった。なんの物音もなかった。

 田村さんが使っていた、作業台、アンプ、スピーカー、ラジオ、たくさんの工具、カレンダー、椅子、ヘルメット、バイク。全てがそのままに置かれている。

 天井を見上げると、梁にはいくつものツバメの巣が残されている。巣から糞が落ちてこないためだろう、巣の下にはベニヤ板がきちんと取り付けられている。

 田村さんの作業する頭の上で、今まで何羽のツバメがここから巣立って行ったのだろう。

 ツバメは育った場所に戻って子育てをするというが、この作業場の扉が開くことはもうなくなってしまった。それでもツバメたちはまた新しい寝床をすぐに見つけ、きっと逞しく子どもを育てていく。

 田村さんが教えてくれた大切な言葉がある。

 それは今も、うちの作業場の柱に貼り付けたままである。

「昔、岩国に行った時にのお、あれはなんの商店じゃったか、それは忘れてしもうたが、店の壁の高いところに大きな字でこう書いてあった。『信用は無限の資本なり』。今でもはっきり覚えとる。そんときワシは思うたよ、これは誠のことじゃって。これは本当のことなんよ。資本いうのは金のことじゃない。そらあもちろん金も少しはいるがのう。肝心なんは人からの信用よ。これが一番の要よ。そん時ワシは、ようわかっとる店主じゃのう思うたよ。商売やる人間はのう、こういう気持ちじゃなきゃいかん。『信用は無限の資本なり』。ええ言葉じゃろう?」

内田 健太郎

内田 健太郎
(うちだ・けんたろう)

1983年神奈川県生まれ。東日本大震災をきっかけに、周防大島に移住。養蜂家。「瀬戸内タカノスファーム」を主宰。2020年より、周防大島に暮らす人々への聞き書きとそこから考えたことを綴るプロジェクト「暮らしと浄土 JODO&LIFE」を開始。

瀬戸内タカノスファーム

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