第14回
水の旅路(2)
2026.03.24更新
かつて船越の大川の前には、南の方角に連なる前ヌ毛と呼ばれる丘陵の裾まで、広々とした田園風景が広がっていた。大川を水源とする水路は、田園に散在する松林を抜け、起伏に富んだ土地を蛇行しながら伸びていたという。いまはただ、平坦に均された広大な畑地の間に、まっすぐな農道が山の方まで続いている。
その道端に、ぽつんとひとつ取り残されたかのように、小さな拝所があった。それは昔、神女になるべき女性が命名の儀礼を施されたという場所だ。大嶽之御イベと、お名付所。
湧上さん 若い女性がですね、あんまり働きもしないで、病弱になると、カミダーリといって......。神女になる資格があるということで。それで、カミダーリして神女になったら治るみたいでね。〔...〕それで、各門中の神女になって、殿〔上山の拝所〕でお祭りのときに、祝女を中心にしてカミンチュたちが座るわけですね。それで、色々とお祈りしたりする。〔...〕
古い石造りの拝所は、いまは照りつける日差しに隈なく照らされているけれど、かつては松林をわたる風に吹かれ、水田に生息する鳥や蛙の声に囲まれていたのだろう。その前に膝をついて、祈りを捧げていた白装束の女性たちの姿が目に浮かぶ。
そういえば昔、ガーナ南部の村に暮らしていたとき、近くを流れるデンスという川のほとりで女性司祭たちがよく儀礼を行っていた。とりどりの供物を岸辺に並べ、水神の表情を窺うように、川面に身を乗りだして。川の水で沐浴し、水を満たした壺を社に持ち帰り、神の依代として祀っていた司祭たち。
水と儀礼は、思えばいつも親和的だ。それが触れるものを清め、浸し、その内部に流れ込むことで、水はそれ自身が辿ってきた天地の経路の中に人を導き入れる。何層にも堆積した地層をくぐって湧き出してくる水は、太古からの土地の記憶や諸々の物質を溶け込ませ、そのエッセンスを伝える媒体でもある。ある土地に仕える司祭たちは、だからこそ、そこを流れる水を自分の身体に摂りこまなくてはならないのだろう。
大川のような水場は、この土地にやってきた日本軍にとっても、きわめて大事な存在だった。一九四四年の夏、船越に軍隊がやってきたとき、大川はこの土地に駐屯する兵士たちにとっての要所のひとつになった。けれども、まだ沖縄が戦場になる前、この場所に集っていた兵士たちの様子はどこか牧歌的なものだ。
湧上さん 最初に日本の兵隊が〔船越に〕来たときは、武部隊〔第九師団〕が来たわけですね。武部隊の兵士はですね、このあたりで壕を掘って、その帰りにはここで水浴びして(1)。そして、夕食後はまたここに来て。ここ〔大川のほとりの丘〕は芝だったんですね。松が三本か四本あって、その木陰で休んでいたみたいですね。〔...〕それで、この水を使って、洗濯やら水浴びをして。
――当時、石鹸とかは使っていたんですか。
湧上さん 使ってないですね。〔...〕髪の毛を洗うのはですね、クチャ〔泥灰岩〕。あれを溶かしてね。水に漬けると、崩れるわけです。それで洗う。あれはちょっとした砂利が入ってるからね。あれで洗うと、髪洗い粉ありますよね、昔の。あれと同じような。
前ヌ毛の中腹に陣地壕を構築していた兵士たちは、一日の作業を終えると大川で水浴びをして、そのほとりの松林で休息をとった。
若い兵士たちは、きっと地元の人と同じように褌一丁になって汗と泥を流し、冷たい清水で顔を洗っただろう。そして、泉から上がると松の幹にもたれて煙草を吸ったり、よもやま話をしたり、芝生に寝転んで仮眠をとったりしたのだろう。
彼らの目に、石畳の水路を光りながら流れていく水と、その先に広がる早緑の水田は、沁みるように美しく映ったことだろう。この土地に湧き出る水に身体を浸し、生命の糧としてそれを飲んでいた彼らは、そのことを通してこの土地の記憶と諸々の物質をわれ知らず摂りこみ、少しずつこの土地に馴染んでいっただろうか。
けれども、たとえ一人一人の兵士にとってそのような経験があったとしても、彼らにとってもちろんこの土地は客地であり、潜在的な戦場でもあった。船越の人びとにとって、泉から湧き出る水は天地をめぐり、あらゆるものの生命をつなぐ神聖な存在だったけれど、軍隊にとってそれは、より即物的な必要物資のひとつであるにすぎない。
風と水、祈りの流れによって有機的に結ばれていた山も水源も大地も、軍にとってはまったく異なる意味をもっていたのであり、作戦という観点から地形を読みとり、改変していく軍の行為によって、この土地の景色はしだいにその様相を変えていくことになる。
湧上さん あの道の向こうの山〔前ヌ毛〕はですね、中腹ぐらいのところから、壕が掘られています。〔...〕そして、向こう側にも掘られていたんですがね。六つか、七つぐらい掘られていたけど。ひとつだけは向こうの大道〔前川の屋取集落〕側に通り抜けていました。ひとつだけです。それ以外は、通り抜けはしてなかったです。それで、通り抜けしたところから、港川の〔...〕米軍の軍艦の情報が見えるわけですからね。それを有線で、糸数城の下の本部、向こうにある美田連隊(2)の本部に連絡して。もちろん、糸数城のほうにも監視哨があって、そっちとやり取りしていたみたいですね(3)。〔...〕
そして、〔山の〕上の方の中腹ぐらいに、私のうちの前の分教場におった中隊(4)の陣地壕が二つありましてですね、いまも行けば見られると思うんですよね。そこにある食料を取りに、うちの......。――お父さまが?
湧上さん ええ、防衛隊の十名ほどが、〔糧秣を〕運びに来て。そこで解散して、みんな帰ったわけ。〔...〕うちの親父は、部隊の本隊に戻るのは、家族に会ってからということで〔家族の元に〕来たわけです。
一九四四年の夏から年末にかけて、玉城村に駐屯していた第九師団第十九連隊第一大隊麾下の部隊によって、前ヌ毛の山腹にはいくつもの陣地壕が構築された。翌一九四五年の二月以降にこの地域に駐留した独立混成第十五連隊(美田連隊)麾下の部隊は、これらの壕を引き継ぎながら部分的に改築し、港川方面からの米軍の攻撃に備えていた(5)。そして三月二十四日、港川沖に米軍の艦隊が姿を現す。
六月初旬、独立混成第十五連隊第三大隊の防衛隊長を務めていた湧上蒲助さんは、南部での戦闘が激化する中で命令を受け、陣地壕に備蓄されていた糧秣を運ぶために隊員たちを率いて前ヌ毛までやってきた。ところが、米軍の激しい攻撃によって進退極まった防衛隊は、そこでの解散を余儀なくされる。蒲助さん自身は部隊に帰還するつもりだったが、その前に子どもたちの顔をひと目見たいと家族の避難する壕に立ち寄り、そのことが――いまの時点からみれば――湧上さん一家のその後の運命を決めたのだった。
*
空をめぐるものは風、大地をめぐるものは水。
山のふもとの井泉にはいつも豊かな水が湧き出し、人びとは水と戯れ、古い石獅子はそれを見守っていた。この土地に軍隊がやって来、若い兵士たちの姿が松林の間に現れはじめたときにも。
刻々と、暗雲は近づいていたのだ。重苦しい太鼓の音のように予兆は広がり、準備は着々となされていた。けれども、それがより明確な形をとりはじめるのは、まだ少し先のことだ。

↓赤い円で囲んだ地域(旧玉城村、旧具志頭村)の拡大地図。各地の位置関係はこちらを参照されたい。

(1)一九四四年七月中旬、玉城村には第九師団第十九連隊第一大隊が配備された。船越にはこの大隊麾下の牛山中隊が駐屯し、集落の東側にある山川堂から南東の前ヌ毛一帯の山で陣地構築を行っていた。なんじょうデジタルアーカイヴ(二〇二二)参照。
(2)一九四五年二月から四月下旬まで玉城村に駐屯していた独立混成第四十四旅団独立混成第十五連隊のこと。
(3)大道は前川の東側にある集落屋取である。地図上でみると、船越の大川から前ヌ毛、大道、港川は南北にほぼ一直線上に並んでいる。糸数城跡は船越の東側の丘陵地にあり、一九四五年三月下旬以降、独立混成第十五連隊はこの丘陵を拠点として戦闘指揮を執っていた(地図参照)。南部観光総合案内センター(n.d.)も参照。
(4)独立混成第十五連隊第三大隊(西村部隊)麾下にあり、湧上さんの自宅近くの分教場に駐屯していた歩兵砲中隊のこと。
(5)玉城村における日本軍の駐留の変遷については、本エッセイの第四回「崖の上の歌(1)」参照。
参照文献
なんじょうデジタルアーカイヴ 二〇二二「湧上洋さんのオーラルヒストリー(2)」(二〇二六年二月六日閲覧)。
南部観光総合案内センター(n.d.)「糸数アブチラガマを中心にした戦闘経過概要」(二〇二六年二月二十三日閲覧)。




