島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第15回

旗と歌

2026.04.29更新

 一九四一年の春。一九三五年一月生まれの湧上さんは、六歳で玉城国民学校に入学した。同じ学校の二年には、湧上さんと同じく船越出身で、一九三四年生まれの泉スミ子さんがいた。この年はちょうど、国民学校令が公布されて、尋常小学校が国民学校に改称された年だ。
 玉城国民学校には、船越や前川をはじめ、村じゅうの字から子どもたちが通学していた。湧上さんたちにとって、学校は地元の一部でありながら、これまで慣れ親しんできた家の近所を離れて、初めて出会う公共の場所だった。そこは「共通語」とされる日本語をはじめ、新たな知識や規律が教授される場所だったけれど、とりわけこの年の四月以降、教育を通して国家の意志と命令が伝達され、遂行される場所となっていった。背景にあったのは、日中戦争開戦以降の日本の戦線の拡大と、軍国主義の浸透である。

 一九三七年七月の日中戦争開戦から一九四一年に至るまでの、時局の展開の速さは恐るべきものだ(1)。一九三八年四月、日中戦争の長期化を背景に、第一次近衛文麿内閣によって国家総動員法が公布された。かたやヨーロッパでは一九三九年九月、ドイツ軍によるポーランド侵攻と英仏によるドイツへの宣戦布告を機に、第二次世界大戦が開戦する。一九四〇年の四月以降、ナチス・ドイツはノルウェー、デンマーク、オランダ、フランスなどに次々と侵攻し、六月にはパリが陥落した。
 このドイツ軍の大勝利を好機として、日本でも戦争の拡大に備えるべく、総力戦体制の確立を目指す新体制運動が活発化していく。一九四〇年の七月二十二日に第二次近衛内閣が成立。その五日後の七月二十七日、大本営政府連絡会議は、ドイツ・イタリアとの結束の強化と武力南進政策の採用を主軸とする「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定する。同年の九月、この連絡会議決定に基づき、日本は日独伊三国同盟を締結。時を同じくして日本軍は、蔣介石の国民党政府を支援する英・米・ソの援蔣ルートを遮断するとともに軍事基地を確保するため、北部仏印(フランス領インドシナ北部)に進駐した。その翌月には、近衛首相を初代総裁とする大政翼賛会が発足している。
 一九四一年、戦況はさらに怒涛の展開を迎える。六月に独ソ戦が開戦。七月下旬、日本軍は援蔣ルートの完全な遮断と資源獲得を目指して南部仏印に進駐する。これに対して、アメリカは日本に対する石油輸出の全面禁止という措置で対抗した。同年の十月、日米交渉が行き詰まる中で第三次近衛内閣が解散し、東條英機内閣が成立。そして、この年の十二月八日、日本軍によるマレー半島上陸と真珠湾攻撃によって、太平洋戦争が開戦する。

 太平洋戦争に向かう時局の変転の下で公布・施行された国民学校令の目的は、「未曽有の世局に際会し庶政を一新して国家の総力の発揮を必要とするの(〔とき〕)に当り」(2)、「皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為す」(3)ことだった。つまりは、教育分野における総力戦体制の徹底である。
 日清戦争以降に皇民化教育が推進されていく中で、すでに学校には奉安室をはじめ、「国体」を象徴する場所やしくみが存在していたが、これ以降は「皇民の錬成」を目的に、子どもたちの態度を律する規範が教え込まれていった(4)。なかでも、まだ低学年だった湧上さんとスミ子さんの印象に残っているのは、毎朝のように学校で歌わされた歌である(5)

湧上さん スミ子さんが国民学校二年生のとき、私は一年で。

スミ子さん そのときに真珠湾攻撃でした?

湧上さん はい。〔...〕

――憶えていらっしゃいます? 学校で先生に何か言われたとか。

スミ子さん もうなー、軍国主義で、ジョーイ、一年の時からもうあれ、わったーが入る時からもう軍国主義よ。

――教育勅語を唱えさせられたり?

スミ子さん この教育勅語、三年生からはこれ暗記して、わからないときは残されて。〔...〕だから、みんな怖がってあれしよった。三年生からや、教育勅語は。だけど、「あさみどり〜」言ってから。神武天皇の賛歌、あれして。

湧上さん 明治天皇。

スミ子さん ああ、明治天皇ね。

湧上さん 「あさみどり澄みわたりたる大空の......」(6)

スミ子さん これを各部屋、このこっち側「〽あさみどり〜」したら、またあっちもする。これをしないと学校始まらんわけ。〔...〕みんなこれを統一してから勉強はするという心の構えであるわけさ。

湧上さん 全部〔のクラスで歌が〕続いてるわけです。同じ時間帯で。

スミ子さん 教室から聞こえるわけ。これ終わらんと。これ終わってから「始めます」が、挨拶が始まりよったわけ。だから、私、いまも覚えてるよ。〔...〕「〽雲にそびゆる高千穂の〜」(7)って。「〽高根おろしに草も木も〜」して、こんなんして教えよったわけ。もう、なー、ほんとに訓練さ。こんなんしてもう。

湧上さん 皇民化教育です。

スミ子さん そうそう、訓練。

湧上さん 始業の〔鐘が〕カンカンカンカンって鳴ったら、みんな教室に集まって、そのときに担任の先生が見えて、みんな礼をしてから「あさみどり」からやるんです。

スミ子さん 「あさみどり」から始まる。だから、こっちが「〽あさみどり~」、あっちも、みんなするわけさ、一斉に。もう、これから教育が始まっているわけ。軍国教育が。〔...〕もう天皇制は神武天皇〔から〕、これ十番まで言わんとまた。神武天皇、何天皇、何天皇って十番まで言わして、言いきれなかったらまた残す〔居残りさせる〕わけ。

――厳しい。

スミ子さん アンサーニ、学校でよ。〔...〕学校でこんなするもんだから、また残されたら大変ってから、おうちで、もう一生懸命暗記する。(すい)(ぜい)天皇、何天皇......。だー、これわからんさ。
 教育勅語は、わったーのカジマヤー(8)したおじいちゃんが〔...〕この人が暗記して、カジマヤーのお祝いのとき歌いよったよ。「朕惟ふに我か皇祖皇宗」。あんたたちわかります? 「國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」って。大変でしたよ。「朕惟ふに」は、朕というのも天皇陛下さまであるわけさ。〔...〕

――〔教育勅語の〕意味は、先生が説明して下さって理解してらしたんですか。

スミ子さん そう、そうしての始まりさ。そうしないと、うれー何かにってからわからんよ。教育勅語といったら、これはもう、「日本人である限りはぜひわからんといけない」という、これが打ち込まれているわけさ。この「〽あさみどり〜」とかや、また「〽雲にそびゆる〜」とか。〔...〕

 スミ子さんたちの回想によれば、朝、登校してきた子どもたちは教室に入ると、黒板の右上に設えられた神棚に向かって柏手を打ち、最敬礼する。そして先生を前に、明治天皇の御製歌にメロディをつけた歌を斉唱し、ようやく授業が始まる。
 それだけではない。湧上さんによれば、毎朝の登校時には、校門に入るときから踏まなくてはならない手順があった。

湧上さん 朝、学校に登校する場合も、集団で登校して校門に入るんですよね。そこからはみんな軍隊式にですか、入っていって。そして、奉安殿ですか、天皇陛下の御真影があるところですね。これは、玉城国民学校の校門から右手の、ちょっとしたもりになっていたんですよ。そこに奉安殿がありましてですね。そのそばを通ると、校門に入ってからだいたい二十メートルぐらい行ったところに見えますから、みんな止まって、奉安殿に向かって最敬礼しまして。それから、ここで解散して自分の教室に行くようにしましてですね。これも三年生になってからのような気がするんですね(9)

 スミ子さんもまた、湧上さんとの会話の中で、奉安殿のあった場所についてつぎのように回想している。

スミ子さん また、奉安殿ってからさ、あっちにまた天皇陛下さまの遺影でしょ。

湧上さん 天皇陛下の写真ですね。

スミ子さん こっち〔奉安殿〕に向かって朝は礼拝。ぬるが、朝は朝礼があったさ。朝礼のときはこっちに礼拝はしてから、朝礼もするし、またこっちから通る人は誰しも、もうこんなんして。

湧上さん 最敬礼して、それからまた教室に行くんですね。

スミ子さん そうそう、みんなわかる、こっち「神様」ってから。これももうなくなったね。

湧上さん 高台になっていましたよ。

スミ子さん うん。忠魂碑ってから、きれいに造られていたさ(10)。階段して。

――お宮みたいな感じだったんですか。

スミ子さん うん。〔...〕石の上に、こんなんしてきれいに。こっちからも階段で上れるようにして。

 この場所については、『玉城村史』に一枚の写真が掲載されている。運動場の一角に造られた築山の上には松の木々がそびえ、手前にはアーチ型の石橋が架かっている。この橋を上った築山の上には、日露戦争以降の村出身の戦死者を祀った忠魂碑が立っており、その奥に天皇・皇后の「御真影」を収めた奉安殿があった。
 この写真がいつ頃撮影されたものなのかはわからないけれど、キャプションにはこうある。
「玉城国民学校運動場南側に建立された忠魂碑前で毎年行われた村主催の招魂祭(年によっては運動会当日に行った)」(11)
 運動場に集まった大勢の人びとは皆、カメラに背を向けて築山を見上げている。ふもとには何本も幟が立ち、石橋の上には日の丸の旗らしきものも見える。この日は運動会の当日だったのか、写真の左手奥には二張りの日除けテントが写っている。運動会に合わせて招魂祭を執り行ったのは、多くの住民が集まる機会を捉えて皇民化教育を行い、忠君愛国の精神を涵養せよという中央の意向を受けた村役場や学校側の意図があったからだろう。こんな風に国民学校は、子どもたちのための教育機関であるのみならず、村民たちにひとしなみに皇民化教育を施す場所として位置づけられていた。

 船越の上山(イーヤマ)大川(ウッカー)にあったように、このあたりの集落には、野山や水源のそこここに拝所が設けられている。それは、それぞれの土地の地形や天候などに応じて風や水や光が通り抜け、(こご)り、湧出するスポットだ。スミ子さんの言う「自然界のもの」と通じるための、聖なる場所。そうした拝所の配置とは別な、この土地にとっては異質でありながら、きわめて強力な求心力と威光に満ちた場所が、学校という公共空間に構築された祭祀場としての築山だった。
 この場所のもつ象徴装置としてのしくみを文化人類学的に考えてみるとき、それはかなりオーソドックスで、なおかつ魔術的なものであるようにみえる。
 石橋でもって地上から隔てられつつ接続された山頂の聖域に祀られているのは、「神」とされるものの図像イコンである。それは普段は、人目から厳重に隠されている。特別な儀礼のときにかぎって、決まった手順を踏んで、それは高みから「降臨」し、人びとの前に部分的に開陳される。皆は聖なるイコン、あるいはそれを秘匿する聖所を見上げ、最敬礼し、歌を斉唱する(12)。あたかも供物を捧げるかのように、人びとはイコンに歌を捧げ、かわりにそれが表象する「神」の威光、その力を受けとる。
 こうした儀礼の様子は、さまざまな地域を対象とする民族誌に描かれてきた、儀礼における神と人のやりとりにも似ている。たとえば、「人目から隠された神のイコン」という要素から私が連想するのは、イギリスの人類学者であるアルフレッド・ジェルが、アラン・ババザンの記述に依りつつ描いた古代タヒチの宗教儀礼だ(13)。あるいは、「歌と力の交換」という要素や、後にみるような献穀田田植式の光景から思いだされるのは、私自身が調査をしていた南インドの神霊祭祀における、神霊と人びとの間の贈与交換のありようである。

〔...〕ジェルが注目したのは、トッオと呼ばれる聖なるモノの「皮を脱がせる」儀礼である。神々を具現するトッオは通常、それを見た者を死に至らしめるほどに強い力をもつものとして厳重に包まれ、人目から隠されている。トッオを包む外皮の中でも重要なものは、赤い鳥の羽根である。トッオの「皮を脱がせる」儀礼では、低位の司祭から高位の司祭へと、トッオを包む新しい羽根が受け渡されていく。同時に、もっとも主要なトッオから低位のそれへと、古い羽根が受け渡される。こうして皮を脱がされたトッオは、儀礼の最後に再び厳重に包みこまれる。この儀礼では、自然の豊饒力を秘めた新しい羽根と、トッオに接触することでオロ神の「聖なる抜け殻」となった古い羽根の交換が達成されている。〔...〕
 こうした聖なるモノの交換過程は、じつは多くの儀礼にみられるものだ。私が調査をしてきた南インドの神霊祭祀では、年に一度の儀礼の折に、村人たちから神霊に供物が捧げられる。村人が育てたみずみずしい作物は、育て手との結びつきを保ったまま神霊の領域へと送りこまれ、神霊の祝福を受けた後、その一部がお下がりとして分配される。それは、新たな生命力を送りこむことによる祭祀全体の活性化であると同時に、神霊の聖なる力を人びとが分有する過程でもある(14)

 こうした儀礼が魔術的であるというのは、儀礼の中心に存在するのが「聖なるもの」であるからではない。そのもの自体に本来的に力が備わっているかどうかにかかわらず、対象を崇敬する態度をとり、その前で特別な立ち居振る舞いをする人びとの行為こそが対象に力を与えるという、そのしくみそのものが魔術的なのだ。
 壇上に掲げられた対象を一心に見つめ、祈りを唱え、歌や供物を捧げる。象徴シンボルやイコンと呼ばれるものの特別な力は、そうした私たちのふるまいによって生みだされ、共有され、承認される。同時に、そうしたふるまいは私たち自身を、当の対象との関係性によって規定される何者かに作り変えていく。たとえば神霊の帰依者に、共同体の一員に、あるいは皇国の臣民なるものに。
 対象に対して特別なふるまいを要請する規範やまなざしと、それに応える私たちのふるまいの反復を通して、儀礼の中心にあるものの「力」を前提としたシステムが生みだされ、日常のさまざまな営みと絡みあいながら増殖し、強化されていく。そして、一旦そうしたシステムが公共の「現実」として定着してしまうと、そこから抜け出すことは容易ではない。

 スミ子さんは、奉安殿に対する当時の自分たちの態度について、「こっち『神様』ってから」と語っていた。国民学校は当時、そんな風に日々の教育や儀礼を通して、天皇のイコンに神性を見てとることが当たり前であるような「現実」を作りだす場所として機能していた。
 そうした官製の儀礼のあり方は当初、地元の人たちにとっては目新しく、特異なものに映っただろう。けれども厄介なのは、一方で、そうやって新たに創りだされ、村々に普及していった公的な儀礼のあり方が、この土地で培われてきた従来の祭祀のあり方と、構造的な類似性をもっていたことだ。




(1)以下の歴史的経緯については、吉田(二〇〇七:二−五、二〇二五:一九、一〇二−一〇三)、加藤(二〇〇九:四一二−四一五)参照。
(2)文部省訓令第九号「国民学校令並ニ国民学校令施行規則制定ノ要旨」による。文部科学省ウェブサイト(n.d.)参照。なお、引用文中のカタカナ表記はひらがなに変更している。
(3)国民学校令第一条による。文部科学省ウェブサイト(n.d.)参照。なお、引用文中のカタカナ表記はひらがなに変更している。
(4)一八八七(明治二十)年、他県の師範学校に先駆けて、沖縄県尋常師範学校に明治天皇の「御真影」が下賜された。また、一八九〇年には教育勅語が発布され、翌年には祝祭日における教育現場での儀式の様式を定めた「小学校祝日大祭日儀式規程」が制定された。学校に下賜された御真影と教育勅語の謄本は、当初は校舎内の奉安室(奉安庫)に収められていたが、火災による焼失などを避けるため、昭和初期からコンクリート製の奉安殿が建設されるようになった。吉浜(二〇一七:五七−五八頁)参照。なお、玉城国民学校の前身である玉城尋常小学校は一八九八年に創立され、奉安殿は一九二九年に建設された。玉城村史編集委員会(二〇〇四:六−七)参照。
(5)本章で引用した泉スミ子さんと湧上洋さんの語りは、二〇二六年三月五日に沖縄県南城市玉城船越で行った聞き取りに基づいている。
(6)「あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」。明治天皇御製。
(7)神武天皇の即位日を祝う唱歌『紀元節』の一節。高崎正風による作詞、伊沢修二による作曲で一八八八年に発表された。「世界の民謡・童謡」研究会(n.d.)参照。
(8)数え九十七歳の生年祝いのこと。
(9)この湧上洋さんの語りは、二〇二六年三月四日に沖縄県南城市玉城船越で行った聞き取りに基づいている。
(10)吉浜(二〇一七:五一)によれば、沖縄で忠魂碑の建立が一般化したのは日露戦争以降のことである。忠魂碑の建立に際して、文部省は学校敷地を建碑用地として認めるとともに、一九一六年には「忠魂碑が学校敷地に立っていることで児童に忠君愛国の精神を涵養することができる」という忠魂碑の教育的価値を示した。なお、玉城村の忠魂碑は一九一八年に建立された。玉城村史編集委員会(二〇〇四:七)参照。
(11)玉城村史編集委員会(二〇〇四:七)参照。
(12)仲嶺(二〇一六:六九)によれば、学校では「小学校祝日大祭日儀式規程」に則り、紀元節・天長節・元始祭・神嘗祭・新嘗祭に際して、つぎのような次第で儀式を執行すべきとされた。①学校長教員及び生徒による天皇・皇后の「御影」への最敬礼と万歳、②学校長又は教員による教育勅語の奉読、③学校長又は教員による誨告、又は祝祭日に相応する演説、④学校長・教員・生徒による相応する唱歌の合唱。
(13)ただしジェルによれば、オロ祭祀に登場するトッオは、神を表象するモノとしてイコン的であるとも非イコン的であるともいえる(Gell 1998: 110)。
(14)石井(二〇一九:三二−三四)。

参照文献
 石井美保 二〇一九『めぐりながれるものの人類学』青土社。
 加藤陽子 二〇一六『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫。
 「世界の民謡・童謡」研究会 n.d. 「紀元節 歌詞の意味 建国記念の日」(二〇二六年四月十五日閲覧)。
 玉城村史編集委員会 二〇〇四『玉城村史 第六巻 戦時記録編』玉城村役場。
 仲嶺政光 二〇一六「小学校祝日大祭日儀式規程とその式次第」『富山大学地域連携推進機構生涯学習部門年報』第十七巻、六九−八〇頁。
 文部科学省ウェブサイト n.d. 「一 国民学校令の公布」(二〇二六年四月十五日閲覧)。
 吉田裕 二〇〇七『シリーズ日本近現代史⑥ アジア・太平洋戦争』岩波新書。
 ―― 二〇二五『続・日本軍兵士――帝国陸海軍の現実』中公新書。
 吉浜忍 二〇一七『沖縄の戦争遺跡――〈記憶〉を未来につなげる』吉川弘文館。
 Gell, Alfred 1998. Art and Agency: An Anthropological Theory. Oxford: Oxford University Press.

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

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