島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第16回

玉の苗(1)

2026.05.20更新

 玉城国民学校の運動場で行われた招魂祭がどのようなものだったのか、その詳細はわからない。けれども、沖縄に第三十二軍が配備される直前、一九四四年の二月に玉城村で催された献穀田田植式は、国家の儀礼と在来の儀礼との関係性を考える上で興味深いものだ。
 この年の初春、同年の秋に宮中で催される新嘗祭に献上する米を作るための水田として、玉城村の百名ひゃくなにある農家の田んぼが選ばれた。『玉城村史』によれば、このことは村全体にとって、「五〇年に一度あるかないかの大行事」であった。宮中に献納する米を育てるにあたって、まず行うべきとされたのは田植式である。

 毎年秋におこなわれる新嘗祭は、天皇じきじきに執り行う稲の収穫を祝う神事であり、極めて神聖な国事行事とされていた。そこへ奉納する精米を生産する行事であるから、ある意味では天皇につながる行事が献穀田の田植式であり、絶対的天皇制国家であった当時としては県にとっても重要な行事であり、県知事がじきじきに臨席する慣例になっていた(1)

 この決定を受けてからというもの、田植えをする二十名の早乙女たちの選定に始まり、田ごしらえ、式場と道路の整備、歌に合わせた田植えの練習など、田植式に向けた準備が村を挙げて進められた。式場として選ばれたのは、「百名の中心的な御嶽であるザジュン山の北麓」である。この場所一帯を整備するために、「三〇〇坪の畑を敷きならし〔...〕そこから献穀田まで通じる道路一面に白砂をまいて清浄感を演出」(2)するといった大掛かりな作業が行われ、そのために大人はもちろん国民学校の生徒までも動員された。当時四年生だった湧上さんも、皆と一緒に百名の海岸で集めた白砂をモッコに入れて、式場の近くまで運搬したという(3)
 いよいよ式典当日となった一九四四年二月十五日。この日のために整備された式場で、最初に神主が祝詞を詠みあげて降神の儀式を執り行い、県知事をはじめとする来賓や関係者たちが玉串を奉納する。その後、鳥居の設えられた本田にて、一同が見守る中で早乙女たちが横一列に並び、高等科の女生徒たちの歌う『献穀田御田植式の歌』に合わせて苗を植えていった。早乙女たちの出で立ちは、「手甲、白足袋にタスキをかけてアネサンカブリに菅笠という、まさにヤマト化した沖縄を象徴するような装い」だったが、菅笠だけは本物を調達できなかったため、沖縄製の「ムンジュル笠で間に合わせた」(4)という。
『玉城村史』には、このときの光景を写した一枚の写真が載っている。印刷は不鮮明だけれど、注連縄しめなわで飾られた鳥居の下に、国民帽をかぶった数名の男性と女生徒たちが並び立っているのが見える。その足元の田んぼでは、手拭いをかぶった早乙女たちがかがみ込んで、一心に苗を植えているらしい。
 このときに歌われた『献穀田御田植式の歌』の歌詞は、つぎのようなものだ。

一、 今日は目出度や玉城村の
   献穀田の御田植 ユリテク ユラテク
   苗は蓬莱 玉の苗

二、 我等乙女の真心こめて
   植れば稲は八束穂に ユリテク ユラテク
   穂に穂が咲いて 黄金こがねなみ

三、 実り捧げて祝いまつらん
   永久に栄ゆる大御代を ユリテク ユラテク
  いや栄えませ 弥栄えませ(5)

 集落の御嶽の麓をならして式場に造り替え、神主を招いて神道の儀式を執り行い、新設した鳥居の下で大和風の装束をまとった乙女たちが田植えを行う。細部に多少の不自然さはあったにせよ、この式典の全体を通して表現されていたのは、国家の中心から遠く離れた島の水田で育てられた米がはるばる東京の宮中にまで届けられ、新嘗祭に献上されるということの象徴的な意味だった。
 宮中で催される新嘗祭のために地方から新穀を献上するという取り組み自体は、後にみるように明治期から始まったものだけれど、このときの新穀献上のあり方は、とりわけ一九二八年の秋に挙行された昭和天皇の大嘗祭の特徴を引き継ぐものであっただろう。この大嘗祭では、大正のとき以上に「国民動員」が推し進められ、奉祝行事の一環として全国各地からの献上品の贈呈が重視された(6)
 奉祝行事や物品の献納を通して国民を大礼に動員した大嘗祭と同じように、毎年行われる新嘗祭においても、新穀の献上に伴うさまざまな手続きや労働、儀礼の準備から実施までの一切は、なべて帝国の中心と周辺を結びつけることにつながっていた。こうした行事を通して想像的に生みだされるのは、帝国の津々浦々から中心たる宮中に向かって、人びとの衷心と生産力、土地の豊饒性を具現する米が移動し、その見返りとして中心から周辺へと天皇の恩寵が行き渡ってゆくという、壮大な力の循環である。
 こうした儀礼の構造そのものは、さまざまな土地で古くから行われてきた農耕儀礼における、神々と人びとの間の贈与交換のあり方を原型とするものだ。ただし、国家儀礼としての新嘗祭が帝国における臣民の統合を主眼とするものになったとき、広大な領土の隅々までも包摂し、統制する中心の力を証明するものとして、離島や植民地をはじめとする「周縁」からの供物の献上こそが、重要な意味を担うことになったのではないか(7)

 その一方で見過ごすことができないのは、宮中への新穀献上という儀礼的な事業のもつ、実利的な側面である。
 新嘗祭のために地方の各府県から新穀を献上するという取り組みは、まずもって、一八九二(明治二十五)年四月に全国の府県知事らが宮内大臣に提出した「新嘗祭供御献納ノ儀ニ付願」によって実現したものであり、なおかつそれは、農業振興策の一環として位置づけられていた(8)。つまり、「天皇陛下御視察あらせらるる〔...〕国家の厳儀」たる新嘗祭に新穀を献上するという栄誉を与えることで農民たちの生産意欲を高め、もって「我国の大本たる農事を貴ふの風を起し、国家を利する」(9)という目論見である。
 また当初、各府県による献穀の手続きについては、「有志農民による献穀であること、献穀のための新穀は清浄を旨とし、必ず初穂であり、各府県あたり精米一升、精粟五合を限度とすること、毎年十月三十日までに府県庁を経由して宮内省に納めること」(10)という原則以外は特に定められておらず、献穀田の選定方法や祭儀の内容なども地方の裁量に任されていた。このように、新嘗祭のための新穀献上は中央から地方への一方的な指令であったというよりも、国家儀礼の機会を利用して農業の振興を図ろうとする中央と地方行政との目論見の合致の下で進められていったといえる。宮中の神事と庶民の農事を行政の主導の下で結びつけようとするこうした取り組みは、その後、さらに興味深い展開を辿っていく。

 一九三五年十一月二十三日。新嘗祭の当日であるこの日に、時の内閣調査局長官だった吉田茂らの呼びかけによって、国民的祭典としての「新穀感謝祭」が開催されることになった。この新たな催しの目的は、農の祭礼である新嘗祭の重要性を広く国民に浸透させることだったが、その背景には、一九二九年以降の世界恐慌のあおりを受けた全国の農村の疲弊があった(11)
 大原(一九八九)によれば、この新穀感謝祭を立案したのは農林省出身で、当時内閣調査局の調査官を務めていた和田博雄である。和田がこの祭典を思いついたのは、ナチス政権下のドイツで行われていた収穫感謝祭を視察したことがきっかけだった(12)。彼は、自分がドイツで目にした「収穫祭そのものは農民的なもので、ナチのイズムに染まっていない」とし、「日本ではもとから新嘗祭という古くからの祭があった、イデオロギーではなしに本当の意味のまつりごとという国民的なものがあったわけですから、やはり収穫祭というものをやったらいいんじゃないか」(13)という考えから、国民行事としての新穀感謝祭を考案したというのである。
 いま一人、和田の同僚として新穀感謝祭を推進した人物である勝間田清一の発言も興味深い。当時を回想して、彼はつぎのように語っている。

この"新穀感謝祭"というのは新しい言葉で、精神作興的な意味合いもあり、農民のデモンストレーションという役割もありましたが、我々としては、行事の目的として、次の三つを考えていました。①新穀感謝②全国の物産(米、果実、特産品など)の展示③種苗交換。つまり"神事+物産展"的性格にもってゆこうとしたのです(14)

 新嘗祭とそれにまつわる諸行事を、天皇制を中心とする帝国のイデオロギーと不可分に結びついた厳粛な祭儀としてのみとらえる見方からすれば、「神事+物産展」という勝間田の発想は意表をつく一方で、「なるほど......」と思わせるものでもある。
 古今東西、祭りの周辺には出店が並び、市が立ち、賑わいが生じるのが常である。人間と神々の間の聖なる贈与交換が境内で執り行われる傍らで、境外では貨幣とモノを介した人間同士の交換が繰り広げられる。
 だとすれば、宮中の新嘗祭に連なる地方の行事を新穀感謝祭として再編し、人びとの交流や取引を盛り上げようという勝間田らのプランは、理にかなったものだったといえる。このとき、祭りのもつ「神事」としての聖性と、「物産展」としての世俗性は相矛盾するものではない。むしろ、宮中の新嘗祭につながる祭りの神聖性こそが、官製の祝祭たる新穀感謝祭の価値を高め、人やモノを呼び込み、それらの交流を促進する原動力となる。その結果として地域の経済が多少なりとも活性化され、農作物が増産されたとすれば、それは国力の増強につながるのみならず、新嘗祭における祈願の成就と天皇の「神威」をあかすことにもなる。目指されていたのは、おそらくそんな好循環だっただろう。

(つづく)


(1)玉城村史編集委員会(二〇〇四:五四)。南城市教育委員会文化課(n.d.)も参照。
(2)玉城村史編集委員会(二〇〇四:五四)。
(3)二〇二六年四月二九日、南城市玉城船越にて堀川輝之さんが湧上洋さんに行った聞き取りによる。
(4)玉城村史編集委員会(二〇〇四:五四−五五)参照。「ムンジュル笠」とは、麦わらと竹で編んだ日除けの笠のこと。
(5)玉城村史編集委員会(二〇〇四:五六)。神田精輝作詞、宮良長包作曲による『献穀田田植歌』は、歌詞中の地名を変えて沖縄県各地の献穀田田植式で歌われた。
(6)斎藤(二〇二四:三九六)参照。
(7)日本統治期の台湾における新嘗祭と献納米の栽培については、周(二〇一四)参照。
(8)大原(一九八九:四〇−四二、四八−四九)参照。大正五年以降、献穀に関する業務は宮内省から農商務省の管轄となった。
(9)「新嘗祭供御献納ノ儀ニ付願」より(大原 一九八九:四〇−四一)。なお、引用文中のカタカナ表記はひらがなに変更している。
(10)大原(一九八九:四二)。
(11)大原(一九八九:五六−五七、五九)、周(二〇一四:七六−七七)参照。
(12)ナチス・ドイツの収穫感謝祭については河野(二〇〇一)、藤原(二〇〇八、二〇〇九)参照。
(13)吉田茂伝記刊行編輯委員会(一九六九:二一四)。なお、注12で挙げた研究が示している通り、ナチス・ドイツの収穫感謝祭が純粋に農民的なものであったという和田の見解は事実に即しているとは言えない。
(14)大竹(一九八一:五四九)、大原(一九八九:五八)。

参照文献
 大竹啓介 一九八一『幻の花――和田博雄の生涯(上)』楽游書房。
 大原康男 一九八九「新嘗祭献穀の意義と歴史」『國學院大學日本文化研究所紀要』第六四巻、三〇−六九頁。
 河野眞 二〇〇一「ナチス・ドイツの収穫感謝祭――ナチスのプロパガンダに民俗イヴェントの源流をさぐる」『文明』二一巻六号、五五−九〇頁。
 斎藤英喜 二〇二四『神道・天皇・大嘗祭』人文書院。
 周俊宇 二〇一四「もう一つの新嘗祭――植民地台湾における祭日としての展開」『日本台湾学会報』第一六巻、五九−八三頁。
 玉城村史編集委員会 二〇〇四『玉城村史 第六巻 戦時記録編』玉城村役場。
 南城市教育委員会文化課 n.d.「1944年 新嘗祭献穀田御斉田」『なんじょうデジタルアーカイヴ』(二〇二六年五月八日閲覧)。
 藤原辰史 二〇〇八「待機する共同体――ナチス収穫感謝祭の参加者たち 1933−1937」『人文學報』九六巻、一−三一頁。
 ―― 二〇〇九「麦おばさんはどこへ行ったのか――村の収穫祭とナチズム」『ゲシヒテ』第二号、四一−六〇頁。
 吉田茂伝記刊行編輯委員会 一九六九『吉田茂』明好社。

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

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