一晩でなんとかなりすぎる

第16回

鳥が死んで風になるまで

2025.07.21更新

「小説を書く」ということは自分にとって、なによりも大事にしてきた生きがいのつもりだけれど、それは同時に首枷でもある。とにかく重いので、生活しづらくて仕方ない。
 なんのために、なにを書くべきだったのだろうとしょっちゅう見失っては途方に暮れる。良い作品とはなにか? 観点を挙げ出せばきりがない。
 誰にとっても読みやすく、よく売れる小説ほど優れているという見方もあるだろうし、あるいは著名な文学賞を受賞した作品こそ至高という考え方もある。正解はない。
 たとえば自分の魂が、なんの柵にも囲われず、いくらでも自由に、贅沢に思考してよいとすれば、良い小説とは、「自分(=書き手)を、なるべく遠くへ連れ出してくれるもの」だと思う。
 物語というのは完璧に独立した一つの異世界であり、そこには当然、作者も読者も存在し得ない。純粋な物語世界が、ただ「在る」。それを書く人、読む人という区別はそこからかけ離れた現実の次元においてやっと発生するもので、物語そのものにとってはまったく関係のないことである。
 私は、遠くの異世界を見に行きたくて、その手段として筆を持つ。どこか面白い場所へエスケープするために、自分に向いている方法が、たまたま「小説を書く」ことだったのだ。
 書いていると、ふいに筆がぽとんと落ちて、かわりに大きな翼を得る瞬間があり、そういうときはどこまででも遠くへ行ける。大空を思うまま飛んでいくようで面白い。楽しくて仕方がない。
 だから、(誤解を招く言い方になるかもしれないが、)書いたものを世の中に広めたいとか、それで儲けて有名人になりたいとか一切思っていない。目的がずれている。
 究極、作品制作はごく個人的な旅である。翼で空を飛ぶような旅。それがしたいのだ。
 しかし、もちろんこれはあくまで理想論にすぎず、現実世界では一銭も生み出さないカスのような夢想なので、そういうことを考えている暇があったら働いて納税。創作活動に没頭できるモラトリアムはとっくに終わったし、週末しか自由時間がとれない今の生活で、もう長旅には出られない。必ず月曜には帰ってこなければならないのだから。
 このところそんなことを考えていたら、鳥に化けることをすごく難しく感じてしまった。翼がなくては空を飛べない。ものを書く勇気はどんどん萎れる。そもそもなにを書くべきなのかもわからない。脳みそのどこかにあったはずの文章工場が施設ごとそっくり消え失せている。自分にはもうなにも書ける気がしない。
 これではいけないような気がして、とりあえずリハビリのような気持ちで、もう何か月もさぼっていた日記を再開することにした。

 7月15日(火)
 朝8時、まだ職場についてもいないのにもう帰りたいなと思いながらうつむいてとぼとぼ出勤していたら、道端で鳥が死んでいた。
 車に轢き潰されたような形で、平たくなって地面に横たわっていた。結構大きな鳥だったので、全身がぐちゃぐちゃになった姿はグロテスクで、とっさに目を逸らした。
 しかし、正面を向いて進んだら、どんどん職場が眼前に迫ってくるのが見えて嫌だなと思い、結局また地面を見ながら歩いた。
 小学生のころから「うつむいて歩くと危ないから目線を上げなさい」と叱られていたことを思い出した。たしかに、死んだ鳥は前方不注意のせいで車に轢かれてしまったのかもしれない。普段は羽を広げて飛んでいるから、もう空の景色に飽きていて、珍しい気持ちで地面を見ていたのかも。あの鳥はもう二度と飛べないんだな、と思ったらすごく不憫な気がした。死んでしまったことより、もう飛べないことをかわいそうだと思った。
 仕事から帰ったあと、エッセイを書こうとしたが、なにを書けばいいのかさっぱりわからなくなって一文字も書けなかった。時間だけがどんどん過ぎて、どうにも仕方がないので、とりあえず日記だけを書いて、夕飯を作ることにした。
 トマトと玉ねぎを切って炒めながら、本当はこんなことしている場合じゃないのになと後ろめたく思った。ごはんよりほかに作る(書く)べきものがあるのに、生活へ逃げている自分が本当に嫌になる。ずっと宿題が終わらない子どものような気持ちで暮らしていて、それが窮屈。いつ解放されるかもわからないし、そもそも解放されたいのかもよくわからない。

 7月16日(水)
 雨が降っていたので、傘をさして出勤した。
 すれ違う人とぶつからないように気をつけるので、雨の日だけはきちんと顔を上げて歩ける。
 そういえば昨日の鳥はどうなったかなと、その場所をだいぶ通り過ぎてから思い出した。引き返して見に行こうかとも思ったが、出勤時間に間に合わなさそうだったので諦めた。「鳥の死体を見に行って遅刻しました」とはさすがに言えない。
 昼、たまたま休憩室に一人だったので、本を読みながら弁当を食べていたら、あとから入ってきた人に「えっ、本読んでるの? すごーい!」と驚かれた。休憩中に読書をするのは異常な行動なのかもしれない。慌てて閉じたら、「ごめんごめん、中断させちゃって。続けて読んでいいよ」と言われた。なんだか自分がものすごい社会不適合者のようで恥ずかしかった。
 別に読んだり書いたりする喜びを誰に邪魔される筋合いもないと思ってはいるけれど、かといって堂々とすることもできない。内心と世間との隔絶を埋めるためになんとかチューニングしようとしても、難しくてうまくいかず、どうせ恥をかいてばかりなので、結局は内心の方を抹消するしかなくなる。

 7月17日(木)
 朝、鳥は二日前と同じ場所で死んでいた。
 はじめに見たときと比べると、かなり薄く、平たくなっていた。たぶんあれから何台もの車に轢かれ続けたんだろうなと想像した。もう、かつて動物だったものの死体と言うよりは、はじめからそういう形でそこにあったゴミみたいにしか見えなかった。生命のニュアンスをほとんど失っていて、不思議に軽やかだった。
 フルタイムで働いたあと、夕方からアルバイトに行った。
 この前日が芥川賞と直木賞の発表日だったので、自然にその話題になった。私が小説を書いていることを知っている人が「ゆきのちゃんもいつかこのくらい注目されるようにならないとね」と言い、その横にいた人が「さすがにそれは高望みだろ(笑)」と明るく笑っていた。「君の小説読んだけど、さっぱり意味がわからなかったしなぁ」と言われた。なんと返事をすればいいかわからず、考えるのもばかばかしかったので、とりあえず一緒になって笑った。そういうことはしょっちゅうあるのでもう全然なにも思わない。繰り返し轢かれて薄っぺらくなった鳥の死体のことを思い返した。

 7月18日(金)
 この日もたまたま休憩時間がずれて、また休憩室に一人だったので、はじめて職場の電子レンジを使って弁当を温めた。
 職員用のレンジを使えることはずっと前から知っていたが、たとえばもし先にレンジを使っている人がいた場合、その人の弁当を温め終わるまでの1分ないし2分のあいだ、時間つぶしの雑談をしなくてはならない。先客は一人とは限らないから、もっと長い時間になる可能性もある。さらに、自分の弁当を温めている間に次に使いたい人が来たら、おしゃべりタイムはまた延びる。それを恐れて、これまで冷や飯を食べ続けてきた。弁当とは本来冷めているものだし。おむすびころりんのおじいさんも、ラピュタを探しに行ったパズーとシータも、遠足にいったぐりとぐりとぐらも、温め直しなんかせずに弁当を食べていたのだ。
 が、まあ一度くらいは試しに使ってみてもいい。今日がチャンス、と思ったのでそそくさとチンして、温かい弁当を食べた。すごくおいしかった。しまったと思った。こんな喜びは知らなければよかった。
 帰り道、もうこれで最後にしようと思いながら、死んだ鳥を見に行った。
 もはや、鳥はそこにはいなかった。ただ、道路に黒い染みがついているだけだった。
 近づいてよく見てみると、実はさまざまな色がまじりあっていることがわかる。羽であったであろう部分は黒と白とグレーがうねるような模様を作っていて、足であったらしい部分はピンクと白と赤の線。全体が油絵の具を分厚く重ねて描いた抽象画のようにぼやけており、フォルムは曖昧だった。
 その中でただ一点、眼球だけがくっきりと丸いまま、地面に張り付いていた。白目に灰の瞳孔。轢き潰されて面になったその円形と目を合わせて、しばらくじっと見つめ合ってから、踵を返してアルバイト先に向かった。
 夜中、ようやく一週間の仕事をすべて終え、くたくたになって自宅へ帰る途中で、だいぶ盛り上がっているらしいカラオケスナックから酔客たちの合唱が漏れ聞こえてきた。曲は『翼をください』だった。しばらく立ったまま聴いた。『子供の時 夢見たこと 今も同じ 夢に見ている』というセンテンスを聴きとって、こんな歌詞あったっけとぼんやり考えた。
 あの鳥の瞳が最後に見たものはなんだったのだろう、と思った。死んで大地にくっついてしまった目。今は空を見ている格好になる。かつて飛び回っていたはずの大空を、きれいなまん丸のままの眼球でずっと見つめているのだ。彼はそういう死に方をした。
 しかし、鳥はもう、とっくにあの場所にはいないような気もした。あそこにはただ、なきがらが模様として残っているだけで、鳥の魂はすぐに姿を変えたのではないか。
 きっと今度は風になって、すぐにまた軽やかに飛んで行ったのではないかと、なんだかそういう気がした。
 翼がなくても、飛べるのだ。ふとそういうことを思いついた。
 良い小説を書くために、なるべく遠くへ行きたい。そのために空を飛ばなくてはならない。異世界を目指す旅はとことん非日常なものだから、現実との行き来など不可能。鳥になって長旅に出るか、人に戻って働くか、二つに一つを選ばなければならないのだと、ずっとそう思い込んできた。
 しかし、飛ぶ方法は、別に一つではなかったのかもしれない。翼がなくなってしまったのだとしたら、風になることを考えてみる。強くなったり、弱くなったりを繰り返しながら、いつ何時も日常の中へ吹き続ける風。夢と現をなめらかに行き来する、無色透明な柔らかい風。
 また新しい物語に出会いたい。とびきり遠くへ行って、見知らぬ異世界が見てみたい。
 書けない日が続くと落ち込むけれど、そういう日でもとりあえず、短い日記だけでも書けるといいのかもしれない。
 できるかぎりこの風を止めない。風は鳥より遠くへ行ける、はずだと思う。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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