一晩でなんとかなりすぎる

第10回

深爪がウザすぎる

2025.01.27更新

 パソコンを使ってこの文章を書いているが、右手の人差し指がキーボードに当たるたびに痛い。深爪してしまったからである。この世のすべてが憎い。
 だいたい深爪は舐められすぎていると思う。少し爪を切りすぎただけ、怪我にも満たない、ほんの些細なトラブル、くらいに扱われているが、決してそんなことはない。
 生活していると四六時中「ちょっとだけ」痛むのである。このストレスは計り知れない。たとえばお茶を飲むためにコップを持っても、リモコンのボタンを押そうとしても、シャンプーをしている最中も、常に「ちょっとだけ」の痛みがつきまとう。しかもすぐには治らないときている。数日から、下手をすれば一週間以上続くこともある。ストレスとしての存在感が大きすぎるので、深爪をやってしまったときには、本当に腹が立ってしょうがない。町を破壊するゴジラの気持ちもいまならわかる。
 4日に1度くらいのペースで爪を切るのだが、あきらかに切りすぎだと思う。そのせいで、やたら頻繁に深爪をしてしまう。
 では、いったいなぜこんなにも切りまくってしまうのかといえば、パソコンのキーボードを使うときに、ほんの少しでも爪がボタンに当たると、気になって仕方がないからである。
 一応、「毎日ちょっとはなにか書く」という目標を掲げて暮らしているわけだが、怠惰な性格が災いして、平気で一週間くらい空いてしまうこともある。
 そんなとき、しばらくぶりにパソコンをさわると、キーボードを叩いた感触で「うわぁ爪が伸びているな」と気づく。「その分だけサボってしまったんだ......」と、自分のだらしなさや意思の弱さを突き付けられるような気がして、慌てて爪を切り出す。
 すると、どうしても深爪してしまうのである。直接的な自罰の意味合いでそうしているつもりはないのだが、天の神さまにむかって「もうこれ以上はサボりませんよ、頑張るつもりがありますよ、ほらこんなにも」とアピールするかのごとく、ついつい爪を深めに切ってしまう。要するに私の深爪は、愚かさと浅ましさの象徴なのである。

 未熟者ゆえに、浅ましい瞬間は他にもたくさんある。
 先日、健康診断へ行ってきた。そういう機会は高校生のころに学校で受けた身体測定ぶりで、大人になってからははじめての経験だったので、さっぱり勝手がわからない。健診以前に、まず会場入口の回転扉の入り方がわからなくて絶望した。東京には田舎者を寄せつけないための罠が多すぎて困る。
 なんとか建物へ入るところまでは成功し、しかし今度は受付で「最後に食事をしたのはいつですか?」とたずねられて硬直する。こういうとき、なんと答えれば良いのだったか。
 実はその日、特になにも考えず、朝食に巨大なおにぎりを食べてしまっていたのだが、そういえば健康診断の日というのは、飲食禁止ではなかったか。肥満の父がかつてそのことでたいそう苦しんでいたような記憶がある。それとも、胃カメラがない人は食べてもまあ良しだったか? 事前にもらった注意事項は読んでおいたはずなのに思い出せない。
 一か八か、バカ正直に「数時間前に大きなおにぎりを食べました」と告白したとして、めちゃくちゃ怒られたらどうしよう。「帰れ」とか言われてしまった暁には、職場にも迷惑がかかるし、せっかくの採尿も無駄になる。
 わずか一瞬でさまざまに思い悩んだ挙句、「昨日の夜の食事が最後です」と、思いきり嘘をついてしまった。
 と同時に、とんでもなく悪いことをしてしまったかもしれない、と不安で仕方なくなる。もしかしてこのあとの血液検査やらなにやらで虚偽申告がばれて、するとそっちの方がよりひどく怒られるのではないか? だいたいこういう大事な場面で簡単に嘘をついてしまうなんて、社会人として終わっている。まずい、このままの人間性で生きていったら、いずれは取り返しのつかない大問題を起こしてしまい、最悪の場合は失業などにも繋がりかねないのでは......などと、悪い想像が膨らんで、肉体はともかく、内面の健康は著しく損なわれた状態で健診を受けることになった。
 結局、検査中に嘘がばれることはなかったのだが、罪悪感に耐えかねて、とうとう真実を告白することを決意した。すべての項目を受け終えたあと、診察の部屋に通されて、問診票に間違いがないか確認する段階で「すみません......」と切り出し、「最後の食事なんですが、さっきです。よく考えてみたら、そういえば今朝もごはんを食べてしまいました」と、さもうっかり忘れていたかのような体で打ち明けた。
 看護師さんは「あ、そうでしたか」と、やや怪訝そうな顔をしながらも、特になにも言わずに問診票を修正してくれたので、怒られなくてひとまずはほっとした。
 と同時に、やはり自分の愚かさ、幼稚さ、とっさの嘘で不都合をごまかそうとするどうしようもない浅ましさを恥じた。なんとかしなくてはならないが、いつになれば、どうやって改善できるのだろう。見通しがまるで立たないのがより辛い。帰りも回転扉に翻弄されつつ、とぼとぼと会場をあとにした。

 健康診断といえば、体重測定の話。これは実に5年ぶりくらいだった。
 思春期にさしかかるころから20歳をすぎるまで、長年、一生懸命ダイエットに励んでいた過去があるのだが、どうしても痩せなかった。巷で有名なダイエット法はほとんどすべてを試しつくしたが、なにをどれだけ頑張っても、なぜか一向に効果が出ない。自分の体型が気に入らず、すると人目も気になって仕方なく、生きる上での枷としては重すぎた。いつ何時も体重のことばかりに頭を支配されている日々が嫌でたまらなくなり、21歳のある日、思い立って体重計を捨てたのである。
 それから現在に至るまで、死闘の日々とは打って変わって、嘘のように心穏やかにものを食べることができるようになった。
 だから今回、5年ぶりに体重計に乗ることにより、このデリケートな幸せが壊れることはおそろしく、引き続き自分の体重を知らずに生きていくために、測定時は目をつぶってやり過ごそうかな......などとも考えた。
 しかし、やはり気になる。ついつい薄目で結果をちらっと見てしまったのだが、なんと、5年前に最後にはかったときと比べて、6㎏も減っていたのである。
 すぐには信じられず、見間違いかと思ったが、そうではないらしい。ちゃんと痩せている。これは嬉しくてたまらなかった。思わず満面の笑顔になってしまった。
 測定結果を何度も思い返しては、まさか体重計であんな数字を見られる日が来るとは......と、しみじみ喜びをかみしめた。数年前、終わらないダイエットの地獄に苦悩していたあのころ、なりたくて、なりたくてたまらなかった目標体重に、気づけばあっさり到達していた。
 そして不思議なことに、幸せな気分を何度もなぞり、かみしめようとすればするほど、なんだか虚しいような気もしてくるのである。
 たしかにいまも嬉しいけれど、必死でもがいていた当時にこの結果を見られていたら、そっちの方が何倍も喜びが大きかっただろうなぁと思うのだ。こんなに何年も経ってから、実はいつのまにか叶っていました、なんて知らされるよりずっと。できることなら、過去の自分に教えてあげたい。そんなに苦労しなくても、5年たてば勝手に痩せるから大丈夫だよ、と。
 しかし、悩みが解決する瞬間というのは、往々にしてそういうものなのかもしれない。
 改善したくて、すぐにでもなんとかしたくてもがいている最中にはなかなか成果を得られないけれど、いったん苦しむのをやめて、なんならすっかり忘れたくらいのころにふと振り返ると、案外すんなりクリアできていて拍子抜け、というような。体重計を手放して5年が過ぎ、なんだか一つ学んだような気がする。
 だから、いまタイムリーに抱えている困りごとも、もう少し時間が経ちさえすれば、意外と乗り越えられるのかもしれない。
 東京の回転扉に翻弄される自分も、健康診断でとっさに嘘をついてしまう自分も、書く練習をついサボる自分も、みっともなくて浅ましくて、いまは嫌で仕方がないけれど、のらりくらりでも生き続ければ、いつかは変われるのだろうか。
 とりあえず2025年も、この爪は、研ぐのではなく、切っておこうと思う。深爪には十分気をつけつつ、なるべく毎日キーボードを叩いて、きっといい文章を書くために。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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