一晩でなんとかなりすぎる

第6回

感動的なほどおいしくはない

2024.09.23更新

 友人の彼氏は、ごはんを作るのがとても上手で、よく手料理をふるまってくれるらしい。
 よその食卓をのぞくのが趣味なので、しょっちゅう写真を送ってもらうのだが、彼が作る食事は、どれも本当においしそうで、パートナーにこんな素敵なごはんを食べさせてもらえるなんて羨ましいなあ......といつもうっとりする。
 ある日のメニューは肉じゃがだった。彼氏の得意料理らしく、味はとにかく絶品で、友人も、それはそれは喜んだという。
 彼もその好反応を見て、おそらくは気をよくしたのだと思う。それから一週間もしないうちに、また肉じゃがを作ってくれた。さらには、友人がいつでも食べられるように、冷凍庫に蓄えておける作り置きまで用意してくれたらしい。甲斐甲斐しいことこの上ない。
 それから数日後の夜は、これもまた十八番らしい、オムライスを作ってくれた。もちろん素晴らしく美味だったので、友人も「やっぱりおいしいね」と言いながら食べていたそうなのだが、どういうわけか、彼氏の表情はどんどん曇る。
 怪訝に思った友人が「どうかした?」とたずねると、彼はとてもしょんぼりしながら「今回は、感動的なほどおいしくはなかったんだね......」と嘆いたという。
「たぶん、肉じゃがのときに、おいしい、おいしいって褒めちぎりすぎたから、オムライスに対しても、そのくらいのリアクションを期待されていたんだと思う」と、友人は電話でそう話していた。また「申し訳なく思ったけど、正直、毎回ごはんを食べるたびに、いちいち感動していられないよ」とのこと。
 たしかに、友人の言うことはもっともである。アナウンサー志望者が受けるリポート試験でもあるまいに、食べ物を口に運ぶ都度「すご~い! 感動! 天才! 神の子! 胸が打ち震える! 感激の涙で前が見えない!」とか、叫んでいられるわけがない。食事は生活の一部なのだから、常に大げさな反応を待ち望まれてもなかなか苦しい。
 しかし同時に、彼氏の心情にもまた、深く共感できてしまうのである。
 私もときどき料理をするが、誰かに食べてもらった場合「おいしすぎて感動した」以外の感想を受け付けたくない。
 先日、上とは別の友人が家に泊まりにきたので、ひき肉と白菜をたっぷりいれた、しょうがのシチューを作ることにした。
 しかし、肝心の味付けの段でなぜか横着をしてしまい、すべてを不真面目に計量したために、完成したシチューは、あきらかにしょうがの味が濃くなりすぎていた。
 意地っ張りで負けず嫌いすぎるという短所が全面に出て、はじめは必死で「いや、でもおいしいよね? しょうがのパンチが効いて、米も酒も進む素晴らしい味わいだよね!?」と無理やり成功作として押し通そうとしたのだが、それにしてもあまりにしょうがが多すぎたため、信じられないほど大量の汗が全身から噴き出てくる。料理というより、兵器のようなシチューであった。
 滝のような汗を流しながら、さすがに観念するしかないと悟り、一緒に食べてくれていた友人に「失敗してごめんね......」と謝ったのだが、返答はあっけらかんとしたもので、「バカ舌だから、全然わからないよ!」と爽やかな笑顔で言われた。そういえばこの友人は、焼き鳥屋で食事をしたとき、店員さんのミスにより、鶏のスープが誤って白湯さゆの状態で供されたにもかかわらず「おいしい!」と喜んで食べたというバカ舌伝説の持ち主であった。
 落胆する私の姿を見てか「ちゃんとおいしいから大丈夫だよ! しょっぱくて、ゆきのちゃんが好きそうな味だよね」と励ましてくれたのだが、そのフォローが余計に辛かった。鶏スープと白湯の区別がつかないバカ舌にもわかるほどしょっぱいなんて、終わりである。
 失敗の原因はあきらかなので、次はきちんと分量を計ってリベンジすればいいだけの話なのだが、どうもそのときの失敗がトラウマになっている。やはり、自分の作ったものを評価されるとき、なぜかやたらとナイーブになるため、何の気なしに発せられた感想が、その言葉以上に鋭利に突き刺さってしまう。
 しかし実は、この逆のパターンも経験している。
 実家にいたころ、急な思いつきで、母のためにブイヤベースを作ったことがある。そしてこれを食べた母が、想定の10倍ほど激しく気に入ってくれた。
「おいしすぎる、信じられない、夢みたい」とか「この先の人生ずっと、毎日これが食べたい」とか、果ては「ゆきのを生んで本当によかった。お母さんは誇らしいよ」とまで言われてしまった。
 さすがにそこまで大げさに褒められると、これもまた、二度目は作りづらいのである。過剰に絶賛されたことにより、「次に作ったとき、前ほどうまく作れなかったらショックだな」と思い、及び腰になる。
 似たような話だが、先日、友人宅で久々に『ビボう六』と再会した。昨年秋に刊行された、私のデビュー作である。自分が過去に書いたものを読み返すのがとにかく怖いたちなので、上京するとき、東京の部屋には拙著を持ってきていない。だから、半年ぶりくらいに現物を目の当たりにして、思わず手にとってしまった。
「高いのにわざわざ買ってくれたんだ、ありがとう~」とか言いながら、久々に本を開く。酒を飲んで酔っていたので、いつになく勇敢だった。内容についての記憶も薄れつつあったので、単純に中身をまた見たかった。
 そして、あろうことか泣いてしまったのである。自著を読みながら涙するなんて、はたから見たらキモすぎるけれど。
 内容がどうこうというのではなく、なんというのか、自分の文章がきゅっと締まっており、そのことがとても怖かった。
 これと比べると、いまの自分が書くものは、どうしてもたるんでいるように思われる。ずっと必死でやり続けているつもりだが、実は全然だめなのかもしれない。もうこのときのようには書けないのかもしれない、なけなしの才能も実力もとっくに枯れ果てているのに、自分だけが気付かずに努力っぽいことを漫然と続けて、え、このままで大丈夫なのか? と、途方もない恐怖と不安で頭がいっぱいになり、たちまち猛烈に病んだ。
 そうしてめそめそ泣きながら本を閉じ、うつむいて裏表紙に目を落としたとき、そこに、古本屋の値札が貼られていることに気が付く。
「いや、まがりなりにも友だちの本を、中古でお得に買うんじゃないよ......」と思わずずっこけそうになり、瞬時に涙も引いてしまって、ふと冷静な気分を取り戻した。
 中古、ということは、誰かがこの本を手放したのだ。
 自分ではそれなりにうまく書けたと思っていても、この本を一度買ってくれた持ち主にとっては、残念ながら、ずっと手元に置いておきたい本ではなかったということ。感動的なほど面白くはなかったということ。
 俯瞰で考えてみれば、それが起こるのは当然である。いつも、必ず、すべての人にとって「感動的なほどすぐれている」ものを生み出すことなど、もちろん不可能に決まっているのに。
 それでも、なぜかできるような錯覚を起こして、どうしても目指してしまうのである。「誰かを感動させたいな」と明るい期待を持ちながら、「作る」ということそのものが、とても楽しいことだから仕方ない。
 近いうち、しょうがのシチューをリベンジしようと思う。うまくできるかはわからないけれど、料理をするのは楽しいし、ひょっとすると次こそは、誰もが感動するほどいいものを作れるかもしれないから。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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