一晩でなんとかなりすぎる

第24回

恥飯のすゝめ

2026.05.13更新

「意地腐れ」という言葉がある。
 子どものころ、一緒に暮らしていた年寄りたちがよく言っていた。「あればハァ意地腐れでだ(あの人はまったく意地腐れである)」と、忌々しげに、吐き捨てるような具合に。だからなんとなく方言のイメージがあるのだが、詳しいことはよくわからない。
 ともかく、この言葉が含むニュアンスは絶妙だと思う。
 要は性格の悪いことを指すのだが、「意地悪」とは似て非なるものだと解釈している。たとえば誰かを困らせようとか、そういう狙った悪質さとは微妙に違う。
 故意でなく、意図も計画も展望もなく、ただ純粋な性質の悪さ。
 「意地腐れ」は露見しにくい。ともすれば人気者だったり、愛され上手だったりさえする。その悪性は見事なまでに隠し通される。これこそが彼らの真骨頂であるとも思う。
 また「意地腐れ」はどこにでもいる。ふいに出くわす悲運を避ける術はない。
 そして大抵、なにか大事なものを奪われるのだ。金銭や時計やiPhoneなんかの具体的な貴重品はもちろん無事だが、たとえば自尊心とか、意欲とか、明るさとか、そういうけっこう重要な人生のエッセンスを、知らず知らずに踏みにじり、壊し、そして永久に持ち去ってゆく。
 これはもう仕方のないことである。アマゾンに猛獣がいるように、夏の鴨川沿いに蚊が大量発生するように、ユニバの海には必ずジョーズが出るように、人間社会には「意地腐れ」がいる。潔く諦め、受け入れるしかない。
 できることといえば、さすがの連中も立ち入れない区域を、黙々と耕し、豊かにしていくことのみ。
 その象徴の一つが、弁当箱の中身である。
 日々の弁当作りについて、くだらないなりに、一応曲げたくない方針をいくつか持っている。
 その一。弁当箱の選定を妥協してはならない。
 立派な額縁の中に収められていれば、どんなに下手な絵でも、なぜか芸術的価値がありそうに見えるのとまったく同じ理屈である。私は破れた下着すら買い換えられないレベルの貧乏人でありながら、七千円のバカ高い弁当箱を使っている。こうすることにより、中身がいかに適当であろうと、まるで毎日高級弁当を食べているかのような錯覚に陥ることができる。
 続けて、流儀その二。弁当の中身について、決して見栄を張ってはならない。
 それはかならず、そのときの生活水準にがっぷり繋がっている必要がある。おざなりな暮らしをしている分際で、煌びやかな弁当を食べてはならないのだ。
 たとえば給料日の直後は、浮かれたステーキや値の張る魚が入ることもあるが、週の半分くらいは、粗雑な焼きそばや炒飯をぶち込んだだけのアクロバティック弁当になる。
 そして最後に、弁当箱は、できれば四角いものが良い。
 角のある弁当は洗いにくいし、おかずを詰めるのもやりにくい。
それでも、やっぱり四角がいいと思う。
 生きていて出くわす四角い空間のほとんどは、たいてい孤独で、窮屈で、どうにもやりにくい場所ばかりである。
 たとえば、あまり馴染めなかったいつかの教室、何を書いているのか一つもわからなかった数学の黒板、保健室のベッド。使い方をいつまでも覚えられなかったバイト先の巨大な食洗機、夜中に買いに行かされた知らない煙草の箱、出たくても出られなかった家賃四万円のワンルーム。履歴書、どこかの休憩室、気まずくて使えなかった電子レンジ、などなど、さまざまな悲しい四角の思い出。
 だから、弁当箱も同じ四角にした。この四角の中でなら、自由に振る舞い、ただ自分の好きなように宇宙を作れる。そのことに、しみじみと嬉しさを感じる。
 箱だけ高く、中身は貧しく、恥ずかしい弁当なのだけれど、これは大切なオアシスである。うまくやれない一日を、ようやく半分乗り越えた昼どき、手元に小さく開ける別天地。
 そしてもう一つ、最近見つけた、新たな四角の喜びについて。
 今月から住み始めたアパートの部屋に、たいへん小ぶりではあるものの、一応、ベランダがある。
 スギ花粉のピークが過ぎて、かつ暑さを感じるにはまだ早い、貴重な春のある日。
 窓越しに爽やかな陽光を見ていて、そうだ、ベランダでピクニックをしようと思いついた。さっそくレジャーシートをひき、ちゃぶ台を出して陣地を作る。
 さてここでなにを食べようか、と思案して、真っ先に浮かんだのは、炊きたての熱い米だった。
 これは素晴らしい名案に思われた。通常、出先で食す行楽弁当だと、どうしたって冷めた食事にならざるを得ない。それが今回は自宅であるから、炊きたてあつあつの湯気が立つ米を、茶碗のままかきこめるというわけだ。ベランダピクニックでしかありえない贅沢。重ねて金もかからない。我ながら天才的なひらめきである。
 では米をどのように食べるか? これは大変悩ましかった。
 シンプルな塩むすびにして、ワンカップの日本酒と合わせれば僥倖に違いない。あるいは、冷蔵庫のあまりものでハムエッグを作って丼にのせ、炙ったソーセージも添えたりして、これをよく冷やしたハイボールでキュッと流し込んでも素晴らしいだろう。もしくは潔く卵かけごはんにして、ちゅるっと啜り込むのも素敵だ。白だし、塩昆布、すりごま、粉チーズあたりのトッピングもあれこれ想像しては舌なめずりする。
 しかして結局、心に決めたのは、懐かしの「恥飯」であった。
 これは、自分がまだ小学校にも上がらないくらい幼い時分、今は亡き祖母に教わったものである。
 炊きたての熱い米の中に、バターを一すくい埋める。そこへ醤油を垂らして食べる、というだけの、ごくシンプルな食べ方。
 祖母はこれを「恥飯(はじめし)」と呼んだ。「昔々から、どうしてもおかずがないときにこうして食べるんだ。あんまり貧しくて恥ずかしいから「恥飯」というのだけれど、本当はこれが一番おいしい」としみじみ言っていた。「こんなものをありがたがるなんて、恥ずかしくてかなわないから、よそでは絶対に言ってはいけない」と、しつこいくらい念押しされた。  
 その複雑な心境は、子どもの自分にはなかなか理解しがたく、それだけに強く印象に残ったものである。
 今ならなんとなくわかる気がする。贅沢な食事というのは、実のところ、それにかかる金額とは無関係なのかもしれない。
 だらしなくて、わびしくて、はたから見れば恥ずかしいような食べ方が、自分の実際の身の丈にぴったりとふさわしく、その完全な適合の上に感じる美味こそ至高。等身大で感じるありがたさ、まさにこれだけが、一番素直で、正直で、ピュアに感受できる幸福そのものではなかろうか。
 爽やかな4月のある日。
 スマートフォンの外枠が切り取る四角の中で、かつて「意地腐れ」だった昔なじみが、きらきらしい新婚旅行に出かけ、ありえないほど豪華なコース料理を食べている様子をSNSに投稿していた。
 それを眺めながらかきこむ恥飯の、たまらなくうまいこと。なんの嘘もなく、まっすぐ降り注ぐ清廉な陽光がバターを溶かす。それは熱い米と絡まり、驚安の殿堂ことドン・キホーテで買った醤油のふくよかな塩味をたっぷりまとって、するすると口の中に入ってくる。米、乳、塩、光、春。ベランダの狭い四角に溢れかえる喜び。
 本当は、別にもういいのだ。数多の意地腐れたちに奪われたあれこれ、もうきっと戻ってこないものもあるけれど、まあ、そんなことはもうどうでもいい。
 奪われないものを知っている。好きに耕せる四角をいくつか持っている。恥飯を食べて元気になれる。そういうことがわかっているから、たぶんこれから先も、魑魅魍魎の世界にあって、なんとか戦っていけるような気がする。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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