一晩でなんとかなりすぎる

第2回

おめでたいバカだと思われたくない

2024.05.30更新

 昨年の11月、『ビボう六』という小説を上梓した。面白いのでぜひ読んでください。
 京都文学賞を受賞したあと、約半年の空白期間を経て、ようやく出版にこぎつけたという経緯については前回も触れたところだが、この発刊が決まり、いよいよ具体的に動き出したころ、またしても新たなクライシスに見舞われる。
「おめでたいバカだと思われたくない」という、つまりは強すぎる自意識との戦いである。
 当時、いろいろあった末、25歳で実家暮らしのフリーターをしており、そのことを自分でとてつもなく引け目に感じていた。
 周囲の友人はみんな優秀なので、それぞれ、正社員として立派に働き、自立して、貯金もして、将来のキャリアやライフプランなどについても真剣に考え始めていた年代である。一方で同い年のはずの自分は、日がな一日、布団の中で金持ちのInstagramを眺め、『ちいかわ』の考察にいそしみ、夜になると父の運転でスーパーへ出かけ、いかにしてばれないように親の買い物かごに酒を忍び込ませるかというチャレンジに邁進するようなくだらなすぎる生活をしていたので、本当にみじめだという自覚があった。「自分はいつかすごい小説を書くんだ」というこの世でもっとも信用ならない類の夢を大義名分として、ろくに稼ぎもせず、社会で通用する職歴もスキルもなく、そのくせ頼もしい親の支援によってのうのうと生きることができてしまっていて、とにかく後ろめたいばかりの日々。絵に描いたようなでくの坊である己を自覚し、少しでも自己啓発を促すため、一人称を「でく」にしていた時期もある。(派生で、「穀潰し」からくる「ごく」というものもあった。)
 そんな中、ようやく小説を出版してデビューできるという話が現実味を帯びてきたわけだが、そもそもこの「デビュー」という言葉が、いくらなんでも自分に不似合いすぎて困った。アイドルじゃあるまいし・・・。まあ別に誰も私のことをアイドルとは思っていなかっただろうが、それにしたって気になった。「私、デビューします」と自己申告したとたん、「勘違い野郎」の烙印を押されて後ろ指をさされ、嘲笑されまくるに違いない・・・と想像しては青ざめていた。
 第一「デビュー」というのは、これから先も末永く活躍する予定の者に対して使われる言葉だが、自分が「デビュー」後、この華やかな響きに釣り合うくらいきちんと成功できるなんて思えない。というか、より厳密に言えば、うまくいくって信じている奴だと思われたくない。周りに。「デビュー」してもずっと鳴かず飛ばずだった場合に、「やっぱりね、なにが「デビュー」よ。調子に乗って威張っていたくせに、なんてお粗末な末路なのかしら(笑) いい気味ね。せいぜい陰気な引きこもりに逆戻りして、部屋でめそめそ泣いてるのがお似合いよ」とひそひそ笑われるのが本当に嫌すぎるのである。そんなキレのある悪口をわざわざ言いに来る人が実際にいるかどうかは別として。
 また、いよいよ刊行に向けた作業が始まった際、ぶつかったのが「ゲラ」という言葉。校正中の原稿の状態「ゲラ刷り」を短くしたものらしいが、そんな単語、誰からも教わったことがない。なのに、まだ第一作を出版する前の身分でありながら、そんな玄人っぽい言葉をいけしゃあしゃあと使っていいのだろうか? これもやはり巧妙に仕組まれた落とし穴で、「なんだこいつは? いままで「ゲラ」とは無縁の人生を送ってきたくせに、さりげなく当たり前みたいに使おうとしている。まさかもう作家気取りか?」と失笑される可能性だってないとは言い切れないのではないか。警戒心は際限なく膨らんで、なかなか「ゲラ」と言い出す勇気が出ず、この言葉を極力使わないようにメールの文面をひねり出すのには大変苦労した。
 そして、もっとも気まずかったワードの王様が「サイン」である。初版本を製本する際、150冊にはあらかじめサインをして売り出すことを提案してもらったのだが、「サイン」? 私の? いったい誰が欲しがるというのか。どこの馬の骨ともわからない分際で、おだてられてその気になって、150回もサインをする自分の滑稽な姿、考えるだけで鳥肌が立った。
 なんといっても、こちらは筋金入りの卑屈で、「サイン」は大昔からの天敵である。小学生のころの思い出だが、純粋無垢なクラスメイトたちが、休み時間などに「プロ野球選手になれたら」とか「モデルになれたら」とか「漫画家になれたら」とか言いながら、自由帳に思い思いのオリジナルサインを考案して練習する遊びをしている際にも、自分は決して参加せず、彼らを白い目で見ることを怠らなかった。「そうやって明るい妄想をして楽しんでおいて、うっかりクズな大人になってしまったら悲惨だよ」などと、嫌すぎることばかり考えている子どもであった。
 さらに、大学時代は演劇サークルに入っていたのだが、コミュニティの性質上、自信に満ち溢れたポジティブな性格の人が多くいた。自分の成功を信じて疑わない劇団員の一人が、「俺のサイン」といいながら大学生にもなって真剣に小一時間ほどサインの練習をしているのを目撃したときには、「なんておめでたいんだ、すがすがしいほどバカだ」と感動すら覚えたほどである。私はそのくらい「サイン」を、痛い行動の象徴だと認識し、徹底して距離を置くようにしてきた。
 それを、まさか自分が、乗り越えるべき壁として強いられる日が来ようとは。なんの懲罰なのか考えたが、思い当たる節があまりにも多い。
 やはり、総じて卑屈すぎるのだ。そのためにいつも勝手にがんじがらめになって、絶対に不必要なところばかりを気にし、夢の実現を自ら遠ざけている気がしてならない。
 本当はもっと、なりふり構わず、実際の実力はさておいて「デビューした人」然として振る舞うべきなのだろう。あえて自信がなさそうに見せたところで、新たなチャンスに恵まれるとも思えない。謙虚と卑屈は似て非なるもので、はき違えると、本当に応援してくれている周囲の親切な人たちに対しても失礼である。
 頭ではわかっているのだが、やっぱりどうしても、どうでもいいことに拘泥しては、足踏みばかりしてしまう。つくづく、バズる力と知名度重視の現代で、作家を志すには全然向かない性格に思われる。文章を書くことが好きで、本当に大好きで、いつか売れたいとも思っているし、ずっと長く書き続けたいと、真剣にそう夢見ているのに、「絶対におめでたいバカだと思われたくない」という余計な自意識の強さが巨大な障壁となって、自分が進みたい道を自分で妨害している。この構図を俯瞰で見るたび、心底呆れてしまう。
 だが、本当は、自分のそういう面倒くさすぎるところが、新しい小説を書きたい気持ちの土壌となっているということも知っている。あーあ、ここはどこまでも気色悪い畑だなあ、と思うけれども、たまにはいい作物がなるということを、これまでの経験で理解していて、どんなに卑屈になろうとも、その自信は根底では揺るがない。あらゆる自己嫌悪すら、とりあえず肥料に分類されることはわかっており、自分の失敗や痛さや未熟さも甘受できるから、まあ、畑を持っていてよかった。
 いつかこの先、『ビボう六』を「デビュー作」とすっきり言い切れる日は来るのだろうか。やっぱりどうしても自信がないので、くよくよ病みそうになりつつも、この土を耕すことだけは、とりあえず怠らずにいたいと思う。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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