一晩でなんとかなりすぎる

第23回

土蛍、今度は区民になる

2026.03.30更新

 上京して2年、東京都町田市で暮らした。
 そして、自然のなりゆきというか然るべきタイミングというか、ともかくそういう時期になったので、ここも離れることにした。
 すでに大方の段ボール箱を新居へ運び終え、残るはちゃぶ台と座布団、せんべい布団と紙コップ、ティーポット、捨てそびれたレモン半分。せっかくなので贅沢にレモンティーなど作ってみて、空っぽの部屋でこれを書く。町田で過ごす最後の夜である。
 今朝、新住所の区役所に赴いて、転入届をしてきた。これでいよいよ23区の住人というわけだ。更新したマイナンバーカードを受け取り、ふと見ると、住所欄がとうとう埋まりかけている。来し方を振り返れば、これで市民・町民・村民・区民のすべてをコンプリートすることになる。だからどうということもないけれど。
 未来に期待を持たないように気をつけて生きているので、引っ越しは常に不吉なイベントである。どこからどこへ行くにしろ、必ず「行きたくねぇなぁ」と思う。次の町でもありとあらゆる嫌なことばかりが起こるに違いないと確信しており、そうすることによって、実際に嫌なことが起きたときのダメージを軽減するというもくろみ。しかしこのネガティブな自己催眠にやすやすと負けてしまって、いまも本当に気が重い。これが毎度のことである。そのくせどうしてまたしても引っ越しをしようとしているのか、自分でもわけがわからない。
 これまで暮らした浄法寺、二戸、滝沢、京都、盛岡ですべからくそうだったように、町田でも実にさまざまなことがあった。
 太宰治著「津軽」を読んでいて、「大人とは、裏切られた青年の姿である」という言葉に行きあたる。「人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である」。なるほどと思う。
 この2年のあいだに、少し世界を諦めた。それは厭世的な意味合いではなくて、あくまで年齢相応な精神の成熟として。
 かつての自分が思っていたより、自分はずっと凡庸で、あるかぎり身をふりしぼって喜怒哀楽を生んでも、それらすべてがありきたり。ほかの誰かがとっくに考えたようなことを考えて、誰もが思うようなことを思うだけ。
 とるにたらない人生を、それでも健気に続けることの、くだらなさ、意味のなさ。
 たとえばいつも暗いところでごそごそしているうじ虫が、自分を蛍と思いたがって、どうにか好かれよう、綺麗に光ってみようと頑張るような、しみじみと不憫なまでの愚かさ。やわらかく温かい泥の中で眠っているあいだだけ、安堵して楽しい夢を見る、貧しさ、臆病さ。そんなことをしたってうじ虫は宿命的に一生うじ虫、無論自分が一番よくわかっているのに、なぜか希望を捨てきれずまた生き延びようとする浅ましさ。つくづくいやになる。我ながら呆れ返りたい気持ちになる。
 しかして、朝になれば日が昇ってくる以上、みすぼらしい土蛍とてその痴態を天の光に晒し、もちろん目を覚ますしかない。そして、目を覚ましてしまった以上は、またせっせと出勤し、一生懸命に生きるしかない。
 諦めて、生きるしかないのだ。
 それを受け入れたあとで知る、はじめての明るさがあった。無謀な期待を捨てた分のスペースに吹き込んでくる新しい風、その手ざわりや、さわやかな香りを知った。
 町田に暮らして学んだ感慨というものがたしかにあるに違いない。また一段、大人に近づいたと思う。

 どうせ4月からはまた東京で働くことが決まったので、この2月と3月は、故郷の岩手で過ごすことにした。
 10代当時、なんとしてでも地元を脱出したくてたまらず、その野心に苦しんでいたころをまだ覚えている。だからこそ、こんなことは言いたくないのだけれど、率直に申し述べれば、岩手での生活はつくづく素晴らしかった。
 生まれ育った土地へあらためて戻って、しみじみと実感した。ここにはなにも、本当になんにもないのだ。
 ただ、大いなる大地がはてしなく広がるだけの場所。見渡す限りなにもなく、おかげで「ない」という世界が「ある」のだ。
 心からありがたいと思った。なんていい場所なんだろう、これこそ、自分がたどりつきたかったユートピアそのものに違いないと毎日思った。
 楽しみの数は限られているが、その一つひとつに、きちんと土着のエネルギーが通っている感じがする。
 たとえば早起きして中津川沿いを散歩する。つつましく品の良い朝日を受けてしらしらと光る川面の美しさに目を奪われる。そのまま盛岡自慢のびっくりドンキー1号店「ベル」へ入ってモーニングを食べ、昼は映画館通りをぶらぶらして、よさそうな作品がかかっていたらふらっと入ってみるのも楽しい。シネコンもあるし名画座もあるので、劇場で選ぶのもまた小粋。あるいは、さわや書店で適当な本を何冊か買い、そこから少し足をのばして、仙北町のスーパー銭湯に赴き、一日中のんびり岩盤浴と読書を繰り返すのも素晴らしい。夜は大通りで酒を飲み、適当にカラオケにでも移って、せいぜい22時くらいが限度か、まだバスや電車がある時間に解散し、家に帰って静かに眠る。
 もうこれでいい。これだけでいい。この先の人生のすべての週末、同じようなパターンの休日を繰り返すので十分である。震えるくらいかたくそう思う。
 いかんせんもう何も選びたくない。頑張りたくない。競いたくない。
 東京はあまりに選択肢が多すぎて、努力次第の局面も多すぎて、土俵の数も、競争の機会も多すぎて、もう心底うんざりである。
 悲しいかな、10代のころと比べて、自分の価値感が見事なまでに反転している。
 岩手にはなにもないのが嫌で、東京にはなんでもあるから憧れていたのに。いまやすっかり逆である。なんでもあるところに疲れて、なにもない大地にうっとり熱いまなざしを向け、ありったけの感傷を膨らませて、これでもかというほど望郷してしまう。
 悔しすぎる。いくらなんでもテンプレート通りすぎる。典型的な地方出身者の心理的変遷をたどりすぎている。さすがに馬鹿すぎじゃないかと思う。ちくしょう、この野郎と自分が心底いやになる。なんだってこんなに陳腐な大人になり果ててしまったのか。
 さりとて、まあ、それはそれでしょうがないのだ、やっぱり。

 つかの間の帰省生活において、雄大にそびえる早春の岩手山に毎朝見惚れ、そのたび啄木の「ふるさとの山はありがたきかな」という句を思い出した。
 と同時に、都市生活中に幾度となく頭をよぎったかの歌「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」も、なお新鮮な感慨を伴ってよみがえる。
 所詮、誰かが先に行った同じ道をたどるだけのこと。
 枯れた田畑が茫漠と広がる農道を黙々歩いていると、とりとめもなくいろいろなことを考える。生きたってくだらないなぁという諦念と、いいや、それは本当につまらないことなのか? という疑念が同時に胸に浮かぶ。
 林芙美子の「放浪記」にも啄木の歌がよく出てくる。彼女の文中で引用されると、名句がよりいっそう気持ちのよいパワーを増して胸に響いてくるというか、また別の魅力を引き連れた形で再見することにより、あらためて新鮮な味わいがもたらされるような気がする。啄木が詠んだ貧しさ、悔しさ、反骨をたとえば荷台とするなら、そこに林芙美子当人ならではの憤り、ほとばしる熱、そしてどうしようもなく不屈の生命力が乗っかって、さらにハンドルやらエンジンやらマフラーやらをもりもり取り付け、ブンブンブリブリ、爆音を轟かせながら痛快に走っていくような、新しい勢いが生まれている感じがする。
 そういう見事さに感動するとき、やっぱり、つまらない人生ながら、それはそれなりに頑張って生きてみるのもちょっと面白いんだろうなあと思ってしまったりする。

 いずれすべてはままならない。また暗い気分で引っ越しをしようとしている。次の町に行こうとしている。なぜか行かざるを得ないのだ。どうしてなのかは不明。
 生きる場所、ひいては人生というものについて、いくらでも好きに選べるようで、実は全然選べないのではないかなぁとこのごろ思う。
 おら東京さ行ぐだ。行くしかないのだ。うらぶれて異土のかたいとなろうとも、古里は遠きにありて思うもの。
 風の吹くまま、なりゆきのまま、ずっと蛍にはなれない体で、それでもどうにか働いて、なんとかかんとか生きるしかない。
 どうせ永遠に泥の中の土蛍、今度はどういうわけか、区民になろうとしている。
 わけのわからぬまま、また春が来る。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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