第15回
時代と時代の綱渡り
2026.09.30更新
祖父母と過ごした時間は、幻だったんじゃないかと思えるくらい、どんどん遠くになっていく。子供の頃は家族構成が変容していくとは思ってなかった。7人の形がずっと続くもんだと思っていた。
もうその声も、顔のパーツもはっきりとは思い出せなくなって、それでも、自分のふとした選択とか、習慣の一つ一つに祖父を感じる時がある。農業をしながら、当時の祖父の言葉の意味を理解できるようにもなった。なるほど自分の中におじいちゃんは生きているのだなと実感する瞬間だ。
時代の違う人と生活を共にしてきたことは、わけのわからなさも含めて、私に大きな影響を与えたと思う。祖父母にとっては人生の終わりの方の時代、私にとっては始まりの時代、クロスしているのに、どちらにとっても「自分の時代」とはならないような、端っこと端っこ同士。年の差60歳の人と暮らすということは、今思うと強烈な体験だった。
その半分の30歳差の姪っ子とだって、宇宙人と交信してる感があるのに60年の差よ。
大正生まれの祖父からは香ばしい焼き立てのパンみたいな匂いがした。稲藁とそこに照る太陽の匂いだ。いつも外で農作業をしていたからだろう。ヤンマーの帽子に、灰色の作業着の上下。小さな体で、毎朝腕立て伏せを50回。冬も寒風摩擦と天衝運動を怠らなかった。筋肉隆々で、陽の当たらないお腹とか胸だけ真っ白だった。
私が農業をはじめて、夏は朝4時半に起きて山々を見上げるとき、祖父も同じ風景を見ていたのだなと思うと感慨深かった。
4時半起きは、実は今始まったことではない。高校生の頃、吹奏楽部に入っていたので朝練で毎日4時半には起きなくてはならなかったからだ。いつも目覚ましを3回くらい止めて寝てしまっていて、5時に布団を引っぺがしに来るのは祖父だった。その頃、母は朝と昼の弁当を作ってくれていて、二人の連携は見事だった。
もちろん美しい山々は目の前にあるのだが、そんなの1ミリも視界に入っておらず、半分眠りながら始発電車に飛び乗っていた。
祖父は山へ入り枝打ちをし、家の風呂の薪を調達していた。時々私も山へ一緒に行ったが、どんどんと山が荒れていっていることを嘆いていた。
外国産の木材が輸入されるようになったことに加えて、人々が薪の生活をやめたことで枝打ちをしなくなって光が入らなくなったことが原因だと言った。
「おじいが死んだらわからい(わかるよ)」
とよく言って、もうすぐ山の生態系が壊れるだろうとも言った。
あの頃祖父が予言した通りの未来になっていた。猿や猪が人里に降りてきて作物を荒らすようになったし、土砂災害も増えた。戦後に杉の木を植えすぎたこともよく話していた。
人の存在は、その人がいなくなって初めて分かる。そこから本当の意味で自分の人生が始まる。本当に、おじいが死んだ後に分かったことがたくさんあった。もう少し早く気づくべきだった。
祖父が亡くなって15年が経ち、今私のやっていることは祖父を追いかけたことばかりだと気づく。今なんて、レンガでかまどを作っているわけで、こんなの祖父の手にかかればあっという間だったろう。
石積みの重要性に気付いたのもここ5年くらいのこと。石積み学校で教えてもらって、自分の畑の石積みを修復しはじめた。ああ、もっと祖父に習っておけばよかった。山のことも、野生動物のことも、みかんの接木のことも、教えてくれる先生がすぐそばにいたのに、もっともっと習っておくべきだった。薪を縛る縄までも稲藁をこよって自分で作っていて、その作り方は子供の頃に教えてもらったので、今も正月のしめ縄飾りは私が作る。若い頃に習得した技術は消えないのだ。
ブランコや鉄棒など遊具も大体が祖父のお手製だった。
非常に子煩悩な人で、コマ回しとか、水鉄砲とか、竹蜻蛉、缶ポックリ、竹馬、幼少期の遊び道具の多くは祖父が作ってくれたものだった。
祖父の中で戦争はつい最近のできごとのようで、起床ラッパの真似をしながら私たち三姉妹を起こしに来るという、なかなかな時代錯誤感。今思うと戦争の片鱗がまだまだ家の中にあったということだ。
なかなか起きない私たちに、軍の隊長の真似をして、「号令!1、2、3」みたいな一人芝居をしていた。起床ラッパが鳴ったら一目散に起きて、布団をたたみ着替えて整列したそうだ。少しでも遅ければ革のブーツで殴られ、口の中が血まみれになったそうだ。「じいちゃんは殴られたことないけどな」といつも付け加えた。
だから殴られる時には「歯を食いしばれー!」と言われ、食いしばれば自分の歯で口を切ることもないそうだ。
時代の違う人と一緒に暮らすということは、過去と未来をいっぺんに見るような分厚さがあった。孫だから優しかったけど、これが直属の上司だったら怖いだろうなー。上司・・・。父にとっての上司が祖父に当たるとすれば、二人の微妙な関係性は説得力があった。
なんでも自作し、老人会の会長や自治会長などをずっと任される祖父に対し、戦後生まれでおとなしかった父は、ずっと祖父の影に隠れて生きてきたのだろうと思う。サラリーマンをしていたので、農業も定年退職するまでは殆どしてこなかった。
祖父は、よく父を叱っていた。それに対し父は何も言い返さず黙っていた。祖父のしていることに父が全く興味を示さなかったからだし、そういうものが時代から必要とされなくなって、使い捨ての時代に突入する真っ只中だった。
相互の価値観の違いは家の中での分断を生んだ。父は地元の企業に就職しその歯車の一つとなって会社と家の往復だけをしていた。子供の私からはそう見えていた。
祖父とは毎日のように遊んだが、そこに父はいない。
祖父が父をやじると「お義父さん、でもその会社の給料でみんな生活しているでしょう?」と母が言った。自分の生きてきた時代とまるっきり価値観が変わること。世の中的には、身につけた技術が必要とされなくなった祖父。いや、今になって時代が一周してやっと見直されているんだけどね。祖父も父も大変だったろうと思う。
起床ラッパで起こしにくる人がいる家を、やばいな、嫌だなと思ったりもするけど、生まれた時から祖父はこんな感じだったので、慣れてしまっていた。
友人の間でも名物じいさんで、今なら「やばいよね」ってなりそうだけど、友人も「おじいが来たー」と、みんな笑って祖父に付き合ってくれていた。
シベリアに抑留されていた母方の祖父にとっては、戦争の話は非常にデリケートなものだったのに対し、うちの祖父は野良クロの漫画を愛読していたし、近所のおじいさんとも玄関先で戦地での話をしているのをよく耳にした。数軒先では戦死した人もいる中で、なんというか非常にデリカシーがない世界やなとも思ったが、そんな時代だったんだろう。
祖父がそうやって話せているのは、本当には戦いの場に行くことなく終戦を迎えたからであって、もし戦地に行っていたらこうはならなかった。
祖父は、青年学校の先生をしていたときに広島へ徴用され、その後、赤紙が来たと聞いた。高知が沖縄と同じように地上戦になると予想され、それに備えて高知県の部隊に配属された。蛸壺隊という特攻の一人として、敵の戦車が上陸したら爆弾を抱えて地面に掘った豪に潜りこみ、そこで爆弾のスイッチを押して自分もろともに爆発させる部隊の一人だったようだ。爆弾を持って片腕でほふく前進し、穴に潜り込むのだと見せてくれた。今思うと、なかなかの話である。ことの重大さを分かっていたのだろうか。それはつまり死への前進なのだよ。ネジがぶっ飛んでいる節があったし、そうならざるを得なかったのだ。
70代とは思えない腕の筋肉や胸板の厚さは、やはり軍隊にいた時の習慣で朝に夕に筋トレをしていたからだったのかと思うと、祖父の戦争は終わっていなかったのかもしれない。
子供の頃は「蛸壺隊」って随分ふざけた名前だなと思っていたが、社会の授業で詳しく知ってマジかと寒気がした。
運良く高知に敵軍が上陸することなく終戦を迎え、それからは製材所で働きながら農業をしてきた。
一度は死ぬ覚悟をしていたからなのか、戦前青年学校の先生をしていて豚の解体なども教えていたからか、殆どのことに動じなかった。飼っていた鶏が全部イタチにやられた時も、人が死んでも、飼い犬が死んでも、驚かなかった。涙を流しているのを一度も見たことがなかった。ドラマを見て毎日泣いている父の老後とはまるで違う、どこまでも鋼のような心身だった。
祖母と鹿児島の知覧へ行ったり、沖縄へ行ったり、祖父は戦争がなんだったのかの答えをずっと探しているようにも見えた。帰ってきて、綺麗な珊瑚のブレスレットをくれながら、何を思っていただろう。祖父の兄は約6割が命を落としたビルマ戦線に配属され、生きて戻ってきていた。彼もよく家に遊びにきたけれど、戦争の話は一度もしなかった。
納屋の掃除をしていると古い箪笥から「行けレイテ島へ」などと寄せ書きが書かれた大きな日本国旗が出てきた。レイテ島は、激戦地となったフィリピンの島である。他にも、映画で見るような強烈な言葉が書かれていた。祖父が出征する時に、近所の人たちが持たせてくれたものらしい。
板チョコが折れるみたいに、戦中と戦後でまるきり思想を変えねばならなかった祖父たちの時代。そうできなくて自死してしまった人もいたと聞いた。祖父たち近所の老人会メンバーは、夜な夜な集会所で開かれる勉強会へも参加していた。そこでは、同和差別のこと、朝鮮人差別のことなどを、新しい考えとともに学び直していたようだ。
「どこへ行っとったん?」と聞くと、
「じいちゃんらの時代の考えはな、間違っていたところがあったんよ。それをもう一回勉強しとるからな、あんたらと同じ小学生じゃ」
と懐中電灯を照らしながら帰ってきて、私に言った。そして、みんな一緒、差別も戦争もいかんとよく言っていた。
とは言うても、私たちが凄まじい喧嘩をし始めると、軍隊の隊長に早変わりするわけだ。
「貴様ら! ここへ並べー! 歯を食いしばれー」
と、ビンタの真似事をして、私たちがびびって喧嘩は終わった。
その祖父に対し母は、「子供に悪い影響があったらどうしましょう」みたいなことはなかったんだろうか。
「いや、お父さんらが男兄弟だったろ。じゃけん、女の子の部屋に勝手に入るのは、高校からは注意したし、言うことは言うてきたよ。でも、一番忙しかった時代におじいちゃんがおってくれて本当に助かったわー」
そろばんのお迎えはいつも祖父が来てくれた。バックするとピーピーっと鳴る祖父の軽トラの音がしたら、帰りの準備をはじめた。私が軽トラを買う時、しぶとくスバルのサンバーで探したのも、祖父への憧れからである。祖父はずっとサンバーを愛用していた。
「先生、いつもお世話になります!」立て付けの悪い後ろの木戸を引いて祖父がハキハキと挨拶をすると、みんなが一斉に振り返る。他の子のお母さんは車で待ってるのに、ちょっと恥ずかしい。祖父は先生にまたお父さんと間違えられて嬉しそう。
祖父は、もともと音楽が好きでハーモニカや私のピアノもよく弾いていたのだが、私が中学生になるとついにずっと欲しかったアコーディオンとかキーボードを買った。そして、自分もそろそろ入っていい年だというのに、アコーディオンを持って老人ホームに慰問に行って歌っていた。
大学で徳島に出て、軽音部に入った時も、母や姉妹と一緒にライブハウスに見にきてくれたことがあったな。薪を割って、石積みを修復する昔ながらの生活を好みながらもハイカラなことが好きで、私がやろうとすることを止められたことはなかった。
バンドで上京するとなった時、母は反対した。学校の先生になるために大学へ行ったのに、何を考えてるんじゃと。母に反対されたのはあれだけだ。真っ当な意見よね。
一方、祖父は「今は海外へだって行かせる時代なんじゃから、東京くらい行かせてやったらええでないか」と言ったのだ。その祖父の後押しで、私は上京することになった。
ところが、後日母から電話があって「おじいちゃん、久美子はまだ帰ってこんのか? と言いよる」と。
どうやら数日したら帰ってくると思ったらしいのだ。まさか、東京に住むとは思ってなかったようで。いかにも祖父らしい。
「ええかい、汽車を待つ時は、先頭には立ったらいかんのぞな。後ろから押されたら大ごとじゃ」
久々に帰ってきた私に祖父は一万円札を渡しながらそう言った。
今もホームに立つ時、その言葉がチラついて、ちょっと後ろに並ぶようにしている。
あの頃の祖父との年齢差が20才弱になって、どんどん近づいていくが、追いつけない。体も心も基礎の太さがまるで違う。改めてものすごい時代を生き抜いた世代だなと思う。
農業だって、牛でやってきていたのに戦後どんどん農機具が入ってきたし、自動車に関してもリアカー手押しからのモータリゼーションだもの。「楽になったわ」と祖父は言った。いや、デフォルトがしんどすぎだから。父たちの世代を、甘っちょろく軟弱に感じていたんだろうな。私たち世代のことはどう見ていたんだろう。
母はいつも、「あんたらも食べているのだからおじいちゃんの手伝いをせないかん」と言って、稲刈りや里芋掘りなどの手伝いはしていた。でも祖父から手伝えと言われたことはない。しかも手伝った分お駄賃をくれた。甘い、孫にはすこぶる甘いわ。
畑から汗だくで戻ってきた祖父は汚れるから家には上がらず「久美子さんみかんジュースとって」と玄関で言った。急いで冷蔵庫からJ Aの缶ジュースを出して渡した。それを飲むと、また畑に戻った。
あの時代は男性が威張っていたかもしれないが、その代わり女性は守るものみたいな考えもあったと思う。「草刈機はお腹を振動させるから女の人は使ったらいかん」と言って母や祖母にも草刈機はさせなかった。姉もいまだに一度も草刈機を持ったことがなかった。それは、かつてのこの地域においては女性が男性から大切にされていることの象徴でもあった。石が飛んできて顔に傷が入ったりするからだとも思う。
今、私はバンバン草刈機を使っているが、そんなこと言ってくれる男性は誰もいないし、むしろ父からは催促される。
「いくら男女同権と言うても男と女では体の作りが違うんじゃからの」と祖父は言った。そんな時代だったのだと思う。その代償ももちろんあっただろうけれど。
私たち孫と祖父のやりとりをいつも遠巻きに見て、あまり子育てや家事に協力的でなかった祖母がある日ポツリと言った。
「どんな話をしたって、あんたらにはわからんよ」
昔の農業の大変さを祖父が説明しようとしていた時のことだった。
孫は可愛かったはずだ。でも、祖父のようには私たちの時代にめり込んでいこうとはしない祖母や、戦争体験を一切語らなかった母方の祖父のような存在がいたこともまた、砕けない岩として私の中に残り続けている。




