第16回
若者たち
2026.10.27更新
地元で10月というと太鼓祭りだ。学校も仕事も祭りの期間は休みになり、男たちは普段の何倍も生き生きとしてくる。
電信柱より高くて、3トン近くある山車のタイヤを外し、100人以上の男性達の力で担ぎあげる勇壮な祭りが地域の誇りでもあった。錦糸で刺繍された飛び出してきそうな昇龍や、源平合戦の飾幕を、太鼓に近づいてじっくりと見上げるのが好きな子供時代だった。
でも、それはよその地区のが家の前を通りかかった時に見上げていただけで、私の地区には太鼓台がなかった。祖父の若い頃にはあったそうだけど、昭和の中期に壊れてしまって以降、新調されることはなかった。
すでに過疎で人数の少ない地区だったため、作ることも担ぐことも難しかったのだろうと思う。
なぜ自分の地域には太鼓がないのか。祭りの度に父に尋ねた。
幼少期は母に手伝ってもらって、近所の子たちとダンボールに木の棒をつけて、クレヨンで昇龍を描き、運動会のポンポンを四隅につけて、お手製の太鼓台を担いで近所を練り歩いた。賑やかだった時代を知っているお祖父さん達は目を細めて喜んで、中にはお花(ご祝儀)をくれる人もいた。
そんなある日、愛護班のとあるお母さんが、よその地域の子供太鼓が新調するらしくて古いのを格安で売ってもらえるよ! と家に知らせにきた。みるみる間に話は盛り上がり、子供太鼓が集会所にやってきた。思っていたよりボロくない!
私は小学5年生で、地域ではリーダーだったので「よし、みんなやろうやろう!」と誘って、15人くらいの子供が集まった。私は、指揮をすることになった。指揮者は、太鼓台のかき棒の上に立って笛を吹き、全体の統制をはかる重要な役だった。また、もらったご祝儀に「お花の御礼」を高らかに謡う役だ。
うちのおじいちゃんは、私に「お花の御礼」の口上を何度も教えてくれた。それは今でも空で言える。「東西東西、只今くださいました御花、賞金で一千万両、右はご当地木村様より、○○太鼓台にくださる。高こうはございますが、これにて花の御礼」
文字で綴ると平坦だが、ここに抑揚をつけて、まるで歌うように読み上げるので、とんでもなく格好いいビートなのである。私は祖父から教わった口上を毎日練習して、自分流の抑揚で誰にも負けないお花の御礼ができるようになった。
お祭りの3日間、私たちは古いけど、でもまっさらの自分たちの太鼓を押して近隣の地域を練り歩いた。嬉しかったのは、私たち子供より大人の方だったんじゃないかと思う。明らかに子供の人数より、お祖父さんの人数の方が多い子供太鼓台だった。
自分の地域だけでなく、近隣の地区まで練り歩いていくと、驚くほどにみんなお花をくれ、よかったねと喜んでくれた。あげることはあっても、もらうことはなかったので、近隣の地域の人からの数十年分の御礼の意味があったのだろうと思う。
その度に山車を止め、私はお花の御礼の口上を詠った。本当に気持ちの良い、今思っても奇跡みたいな三日間だった。
お祭りが終わって、学校へ行くと、男子たちがニヤニヤしながらやってきた。
「お前、きったない太鼓かつぎよったなー。あんなんで恥ずかしくないんか」
口々にそう言われ、目が覚めた。確かに、きらきらのあんたらの子供太鼓に比べたらボロいわ。そらお古を安く買ったんやからボロいに決まっとるわ。
そんなん気にするもんかと私は思ったけど、やっぱり傷ついた。
6年生になっても私は太鼓台の運行を続け、私の卒業とともに、「ボロいから恥ずかしい」の意見が高まり、どこかへ売りに出されたそうだ。
それから数年後、多分、私たちの子供太鼓で男達の太鼓熱が爆発してしまったのだろう。恐ろしい金額をかけて、大人の太鼓台を新調したのだ。
この人数で・・・血迷っている。いやあ、今思うと、本当に血迷っている。が、みんな血迷っているから誰も気づかない。
ついに、ピッカピカの太鼓台が出来上がった。でも、女の私は担げない。
「ああ、私も男に生まれていたら」
と思った。
大人の太鼓台を作ってみて分かったのは、女性の大変さだった。
朝から大量のおにぎりとか唐揚げをして、休憩地に持って行かないといけなかった(多分、今は仕出しで、していないと思うけど)。
何より、圧倒的に人が足りない。タイヤを外して担ぎ上げることなんて100人はいるので絶対無理で、押して坂道を登るのでさえ危険だろうと思うほどだった。
となると、自分の地域の男性の倍の男性を借りてくることになり、その人達の食事、法被のクリーニング、そういうことも女性の仕事だった。
そのあたりから、私は興醒めして太鼓から遠ざかってしまった。何事も外から見ているのと、内部まで知ることとは違う。縁の下の力持ちは女性達だったのだ。その後、上京して20年近く太鼓台を見に帰ることはなかった。
新調から10年が経つ頃、静かに私たちのピカピカの太鼓台は幕を引いたらしい。そして、解体された太鼓は長らく集会所に眠っていたが、昨年、どこか遠くの地域に売りに出されたと父から聞いた。父も太鼓新調の中心で動いていたわけで、苦渋の決断だったようだ。
しかし、それは近所の子供達を深く傷つけていた。
「今は人がいないから担げていないだけ。僕たちの代になったらやるんだ」と、近所の小学生はよく私に話してくれた。私のところへ、太鼓を作りたいから手伝ってと頼みにくる子らもいて、あの日の自分を見ているようで、じゃあ作ろうかと、長い木材にダンボールとポンポンをつけて太鼓台を作った年もあった。
夢を絶たれた子供達はものすごく怒っていた。
でもな、大人達が悪いわけでもない。外から見とるのと、中に入って現実を見るのとでは見える景色が全然違うのだよ。
じゃあ作らなければ良かったのかと言われたら、そんなこともない。確かに大金をはたいたし、大変なこともたくさんあったと思うけれど、何にも変えられない10年だったはずだ。
時代は流れるんだ、そして、時代は自分で作っていくしかないんだ。
昨年、自分の校区だけの小さな太鼓寄せを見に行っていると、大人太鼓に混ざって、あの時の私たちの子供太鼓くらいオンボロの小さな太鼓がいるのを見つけた。驚いて、
「あれはなに? どこの地域?」
と姉に聞くと
「あれはな、梅若と言って、高校生の有志でやりよるらしいんよ」
「は? 高校生だけの太鼓なん?」
私の中に、ボンと火が点いた。きっとそれは、あの日私たちの子供太鼓を見た父達のようだったろう。
走って、梅若の太鼓を近くで見てみる。昇竜も飾り幕もなく、いわゆる座布団太鼓だ。これならまだ私たちの子供太鼓の方が綺麗かもしれない。
そこで担いでいるのは、高校生達だった。すでにファンがついているようで、どこの太鼓台よりも人だかりが大きかった。
姉の話では、彼らは、土居、新居浜、三島と、校区も町も飛び越えてインディペンデントで新しいチームを立ち上げていたのだ。
この発想はなかったなあ。地区をまたいで担がせてもらったとしても、高校生は大人の太鼓を担ぐことになる。大人の背中を見て育つと言うことでもあるし、大人の仕切ることに従わなくてはいけないという窮屈さでもあった。
彼らは、自分たちで新しい祭りを立ち上げたのだ。しかも自分の手に負える範囲で。うちの地域にもこういう若者たちがいることに私は感動したのだった。
そして、今年の10月。梅若の太鼓が今年も来ていた。驚いたことに、昇竜も四枚の飾り幕も出来上がっている。待て待て、小さいとしてもこれを石川県などの職人に作ってもらうとしたらすごいお金がかかるよ。
歩いて8枚全ての幕を見ていくと、一枚だけまだ未完成で、錦糸が縫われてないところがあった。一番難関だったろう戦国武者の顔の部分が、縫う予定の線が引かれた白い布のままだった。
これ、もしかして自分で縫ったのかな?
リーダーの子にお花を渡すと高らかと花の御礼を読みあげてくれた。休憩になったので彼に話しかけてみたところ、この昇竜たちはやはり一年をかけて自分たちで刺繍したのだそうだ。「武将の顔の部分が間に合わなかったんです」とはにかんだ。
確かに自分たちで刺繍する地域はあるが、凹凸もかなり激しく、さらに飛び出た眼や牙を埋め込むので大変な技術が必要で、一年ではとても間に合わない。凄すぎるよ。学校も行きながら、みんなで一枚ずつ縫ったなんて。
「この顔も、来年には完成させたらいいですね」
と言うと彼は耳を疑うようなことを返してきた。
「来年は僕たちは卒業なので、今年で終わりにしようと思っています」
「え!? えええ? 待って待って。やっとここまで形になったのに下の子らに引き継がんの? もったいないよ」
「はい。下で引き継ぎたいという声もないですし、自分で縫った幕を一枚ずつ持ち帰って、部屋に飾って、成人式でまた出せたらいいなと思っています」
彼の覚悟は決まっているようだった。
彼らは三日間の祭りのうちの初日だけ、それも土居町のとある校区の畑の中で行われる小さな寄せにだけ現れて、颯爽と帰る幻の集団だった。大きな寄せには来ないので、他の校区の人は梅若をみんな知らなかった。
誰に見せるわけでなく、大人になる前に、自分たちのための祭りをしたかったんだなと思った。
その日の夜、大人達も集まって、地域の人に見守られながら何度も何度も差し上げをして、梅若は解散したのだった。
周囲で見ている人は
「このくらいの大きさにしたら、差し上げも軽々とできるのにのう」
「過疎に合わせて、太鼓を小さくするのもええかもしれん」
と、小さな声で話していた。
大きく、豪華絢爛で強くあるのが男だというこれまでの太鼓祭とは180度違う彼らの祭り。伝統は続けていくことが美徳だったところへ、彗星の如く現れ、2年で終わった梅若のことが、今年の三日間の祭りで私は一番心に刻まれた。
きっと周りの大人達もそうだったんじゃないか。
金髪も茶髪もいない高校生の集団は、太鼓台の前で集合写真を撮り、地域の大人達に深々と頭を下げ、手製の昇竜の髭を揺らしながら、帰っていった。




