35歳大学院生

第16回

実況はすべてのスキルが詰まっている

2025.02.18更新

 今年も楽しい2月がやってきました。毎日朝から夕方まで、インターネット中継でプロ野球キャンプを楽しんでいます。2022年から、ピラティス講師として阪神タイガースの春季キャンプにお邪魔していますが、昨年は妊婦のために行くことができず、とても複雑な心境でキャンプ中継を見ていました。今年は復帰させていただき、第1クールを沖縄で過ごしました。中堅以上の選手からすれば、元々はリポーターとして球場に来ていた私が、今はピラティスの講師として一緒に身体を動かしているので、とても不思議だと思います。私もたまに「この世界線はなんだろう?!」と思うことがあります。ピラティスの世界に足を深く踏み入れたのも、リポーターとして選手の取材をしていたことがきっかけだったので、スポーツアナウンサーとしての時間がなければ今の私は存在しません。今日はそのスポーツアナウンサーとしてのスタートとなる実況研修についてです。

 テレビ朝日系列の各地方局は、夏の甲子園出場をかけた地方大会の中継があるために、野球中継に必ずと言っていいほど触れることになります。そのための実況研修が、毎年選抜高校野球が開催される3月に大阪の朝日放送で行われます。当時は、主に入社3年目くらいまでの若手男性アナウンサーが参加していましたが、そこに紅一点で乗り込みました。2012年のことです。今でこそ、女性アナウンサーがスポーツ中継に関わることも珍しくなくなりましたが、当時はまだまだ男性アナウンサーの仕事。とても目立ちました。

 研修では基礎となるラジオ中継の実況からはじまります。声で映像が見えるように、必要な情報・状況を的確に表現しなければなりません。お天気が良ければ実際に甲子園球場へ行って、銀傘の下で、目の前の高校球児の熱戦を実況する練習をするのですが、この日はあいにくの雨。朝日放送内で、過去の試合映像を見ながらの研修となりました。"いろは"教えてもらう前に、まずは1人ずつ、1打席を順に実況してくださいと言われました。私は後ろの方に座っていたので、もう実況デビューしているんじゃないかと思うほど上手な描写を聞くにつれて、心臓音が大きくなっていきました。

「では次」。目の前のスクリーンに花巻東の投手が、大阪桐蔭の打者に投げる映像が映し出されていました。とにかく速いストレートに食らいつく打者。2ストライクと追い込まれた後に、打者がファウルした瞬間を私は「バッターなんとか当てました!」と実況しました。
 あっという間にその打席が終わると、講師から「追い込まれた後、なぜ"当てました"と表現したのか?」と聞かれました。私は自身のソフトボールの経験から、追い込まれたあとに速球に対して"打ちに行く"というより、なんとか当ててファウルで粘って、簡単に凡退したくないという打者心理から"当てた"という表現を使ったつもりでした。だって花巻東の投手はものすごいボールを投げていたんですもの。その旨を伝えると「君はスポーツアナウンサーとして頑張っていきなさい」と伝えられました。「あの場面で打ちましたではなく、当てましたと言えるのはセンス。」最高の誉め言葉をいただき、場違いだと思っていた研修により一層身が入りました。
 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、その速球を投げていたのは、あの大谷翔平選手です。実況しているときはそれすら気づかないほど緊張していましたが、フィードバックをいただいている時に気づきました。そりゃ驚くストレートを投げているわけです。もしこれが毎年数人いるプロ注目投手であれば、私はもしかすると"当てた"という表現を使わなかったかもしれません。そう思うと、私は大谷翔平選手の投球にスポーツアナウンサーとしての道を創ってもらったんじゃないかと思います。世界の大谷翔平、サンキュー!です。

 翌日以降は甲子園球場で試合を観ながら実況練習。本番ではマイクが声を拾ってくれますが、それでも声をはらなければ球場のスタンドに設置される実況席では放送になりません。研修では銀傘の上段に座り、スタンドに詰めかけた高校野球ファンに下手な実況を聞いてもらいながら、大きな声で練習しました。恥じらいがあると絶対にうまくなりません。恥を捨て、とにかく目に見えるいろいろなものを口にしていきました。最初は視野が狭く、ピッチャーとキャッチャーの間(PC間)にしか目がいかず、ひたすらボールカウントを繰り返すばかり。そこから徐々にダイヤモンド、外野、そして観客席、風などの気候。試合を取り巻く様々な情報を伝えられるようになっていきました。最初は投手が投球モーションに入るときには一度しゃべり終えるという基礎すら知らなかった私ですが、4日ほどの研修でいろはの"い"は身についたように思います。

 アナウンサーという仕事は話すイメージが強いかもしれませんが、それだけではありません。研修の最初にこう言われました。「実況はアナウンサーに必要なすべてのスキルが詰まっている」。目の前で起こっていることの描写、挿入される映像や他球場の情報を的確に伝える(原稿読み)、そして解説者の話を引き出すインタビューの要素。野球中継は、台本のない約3時間の生放送でこれらをこなさなければなりません。できるようになればアナウンサーとして一気に成長する。そう思いました。これまでは台本が用意されたロケや、スタジオでの原稿読みが主な仕事だった私にとってはどれもチャレンジングな要素でした。
 研修を終えて山口県に戻ってからは、車を運転するときも、歩く時も、目に映るものをすべて描写する生活を始めました。「右手に白髪のおじいさんが見えました。茶色のパンツにベージュのトップスを身に着けています。横断歩道の信号が青に変わるのを待っているのでしょうか。今信号が青に変わりました。ゆっくりと私の右手から左手に向けて横断歩道を渡っていきます」。1人でブツブツ口ずさむ姿は、とても怪しく思われたかもしれませんが、この練習のおかげで描写への苦手意識はなくなっていきました。実況で使うフレーズの引き出しを増やすためには、上司の実況を1試合分すべて一言一句ノートに書きだしました。三振ひとつとっても、「三振です」「三振にしとめました」「三振に切って取りました」。人によって表現は様々で、素敵だなと思った表現を吸収するようにしました。

 夏前には、朝日新聞の山口県版で私の実況デビューを記事にしてくださいました。それをみた各校の指導者の方から「スケジュール表を送るから、うちの練習試合で実況練習してよ~」と連絡をいただき、実際にグラウンドにお邪魔して、コーチに解説者役を務めてもらって実況練習をしたことも。応援してくださる皆さんのおかげで、だんだん放送に乗せられる形になっていきました。組み合わせ抽選会後に担当試合が決まると、監督の野球観を把握するために、隣に座らせてもらって試合をみたり、主将をはじめとした選手にも直接話を聞いて、資料作り。中には学校にお邪魔すると、内野分しかグラウンドがなく、外野手は定位置での守備練習ができない、打撃練習はゲージの中でしかできないというところもありました。「試合だけでは伝わらない、彼らの2年4か月の想いを伝えたい」という一心で準備をし、開幕1週間前は毎日深夜2時ごろまで会社にいたと思います。準備をしても不安で不安で仕方なかったです。

 上司、社内の人、高校野球関係者。女性アナウンサーの実況に多くの人が注目し、ものすごいプレッシャーがかかる中で放送席に座りました。さぁいよいよ実況デビュー。とんでもない珍実況?! 次回は、ある意味記憶に残るスポーツアナウンサーとしての第一歩をご紹介します。

市川 いずみ

市川 いずみ
(いちかわ・いずみ)

京都府出身。職業は、アナウンサー/ライター/ピラティストレーナー/研究者/広報(どれも本業)。2010年に山口朝日放送に入社し、アナウンサーとして5年間、野球実況やJリーグ取材などを務めた後、フリーアナウンサーに転身。現在は株式会社オフィスキイワード所属。ピラティストレーナーとして、プロ野球選手や大学・高校野球部の指導も行う。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了(スポーツ医学専攻)。スポーツ紙やウェブにて野球コラムを執筆中。アスリートのセカンドキャリア支援事業で広報も担い、多方面からアスリートをサポートしている。阪神タイガースをこよなく愛す。

Twitter:@ichy_izumiru

Instagram:@izumichikawa

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