第20回
選手が怪我をしないためには?
2025.06.18更新
梅雨入りしてから、なんだか気分がズーンと沈むことが多い・・・。険しい顔をした自分が鏡に映ると、ハッとする毎日です。みなさんは、気持ちが晴れないとき、どのように気分転換をしていますか? 10年ほど前の私なら、外でおいしいものをお腹いっぱい苦しくなるまで食べ、とにかく予定を詰め込むという選択をしていたと思います。そう、ピラティスに出会うまでは。今では、ピラティスをすることが、一番の心身リフレッシュ方法です。すっかり自分の仕事の中心にもなりつつありますが、今回はそのピラティスとの出会い、仕事になるまで追究しようと思った理由などをお話します。
きっかけは、自身が腰痛を患ったことです。阪神タイガースのリポーターを担うようになってから、毎晩の日課は試合チェック。仕事で球場に行かない日は、自宅で必ず確認していました。
とある日、背中のコリをほぐそうと、フォームローラーに寝転がりながら試合を見ていたところ、「ゴン!」。ローラーから滑り落ち、音が聞こえるほど、腰を強打しました。「いったぁー」と思うと同時に、左足首まで電気が走るようにビリビリとした痺れを感じました。ゆっくりベッドに移動し、痛みを忘れて寝たのですが、翌朝はとても起きられるような状態ではありませんでした。そんな中で、早朝番組の出演があり、なんとか局に到着したものの、自分で衣装に着替えられる状態ではなく、共演者に着替えを手伝ってもらう始末。屈む姿勢になると、痛みが走るので、靴下や靴を履くのがとても辛かった・・・。しかもそのあとは、甲子園に移動して、高校野球の取材です。スタンドの階段を、一段一段椅子に手をつきながら昇降していると、一回りほど上の記者の先輩が肩を貸してくれました(情けない)。
結局、整形外科を受診したところ、骨や椎間板に異常はなく、衝撃で仙腸関節にズレが生じたことによる腰痛ではないかとのことでした。処方されたのはコルセットのみで、正直着用していても、何の変化も感じられませんでした(正しく巻けばそんなことはないと思います)。
日に日に痺れは減っていきましたが、違和感は残ったまま。「手術で楽になるなら、メスを入れてほしい!」と "腰痛 手術" と検索するほど、腰痛が日々のストレスになっていました。なんとか元の身体に戻りたいと、身体の柔軟性低下を改善するために、以前から興味のあったホットヨガに通い始めました。大量の汗をかき、深い呼吸をして、心はとても穏やかになりました。身体も少しは柔らかくなったような気も。ただ、腰のわずかな違和感は完全には消えませんでした。
そのことを、メンターのような存在のお姉さんに相談。そのお姉さんは、施術家であり、トレーナーであり、美容家という、多岐にわたって活躍されている方で、施術を受けに行くたびに、思考や知識を教授して下さる方でした。「ピラティスいいよ!腰痛はとくによくなると思う」。名前は聞いたことがあったけれど、ヨガより少しきついものという勝手なイメージしか持っていなかったピラティスを勧められました。多忙なお姉さんが、わざわざ片道一時間かけて通っているスタジオがあるとのことで、そんなにいいなら一度行ってみようと、初めてピラティスを体験することになったのです。
いざ、体験をしてみると、ヨガとはまた違ったキツさ! 障害発生の原因となりうる、姿勢や歩き方などの癖を改善するために、身体の正しい使い方を学ぶということでした。体験中も意識することが多く、頭もすごく使いました。まさに、運動学習で、それを習得することで痛みの原因を改善していくことになります。結果、私の腰痛はどうなったかというと、たった1回のレッスンで、驚くほどスッキリ痛みがなくなりました。ただ、癖はすぐに治るものではありません。腰痛の原因をしっかり解消していこうと、通うことにしました。
ペースは週に1、2回。スタジオに足を運ぶようになると、あることに気づきました。それまで、ピラティスは芸能関係の方が通うおしゃれな習い事、というイメージを持っていたのですが、そのスタジオには、プロゴルファーやJリーガーなど、プロアスリートも通っていたのです。コンディショニングやトレーニングの一環として通っていることを聞き、自身の腰痛が改善した経験からも、野球選手の怪我にも役立てるのではないかと思いました。
さっそく、取材で甲子園を訪れた際に選手に勧めてみると「ティラミス? なにそのデザート」と、聞く耳すら持ってもらえませんでした。今でこそ、ピラティスに取り組む野球選手も珍しくなくなりましたが、当時はピラティスというワード自体が浸透していませんでした。ただ、取材をしていると、腰痛に悩む選手が非常に多く、中にはナイトゲームが終わってから他府県まで治療に行き、翌朝また甲子園で練習して試合に臨むという選手もいました。年間143試合。不調が全くない状態でシーズンを過ごすことは難しいかもしれませんが、大けがにつながったり、離脱したりする前に、予防することができるかもしれないと思いました。
パフォーマンスアップのために取り組んでいるトレーニングや技術論の話は選手からも聞いていましたが、怪我については、起ってからじゃないと話題にあがりません。「怪我をしないため」のお話は、ほとんど聞いたことがありませんでした。
ドラフト上位指名で入団したにもかかわらず、怪我に泣かされてあっという間に戦力外通告を受けるという選手もみてきました。大好きな野球を最高の形で仕事にできた人達が、このような形で球界を去っていくのは非常に悲しい。それは、本人だけでなく、家族や応援しているファンのみなさんにとっても同じだと思います。私の人生は、間違いなく、野球のおかげでとても楽しいものになりました。野球がなければ、何のいろどりもなく、モノクロの日々だったんじゃないかと思うほどです。大きな怪我無く、健康な身体で、野球を楽しみながら、長い間たくさんの人を喜ばせてほしい。その想いから、自らがピラティスを学び、野球界に還元したいという気持ちが強くなりました。
といっても、大学は法学部卒。身体の勉強はしたことがありません。ひとまず、ピラティスの資格自体は4日間の養成講座を受けた後に試験に合格すれば、取得はそれほど難しくないと聞き、すぐに申し込みました(団体がたくさんあり、それぞれ取得条件は異なります)。朝の番組を終えてから養成講座に通い、試験までは、仕事の合間にテキストを復習。取得自体は困難ではありませんでした。ただ、それで自信を持って指導できるかというとそうではありません。資格取得に必要な解剖学は、本当に基本的なもので、石橋をたたいて渡るタイプの私は、それだけの知識で、人にとっての一番の財産であり、資本である身体を診ることは怖いなと感じました。もちろん、経験値がものをいう部分もありますので、経験していけば知識も技術も身につくところはあると思います。ただ、自身もピラティスの効果を感覚的に良いと感じただけで、確固たるエビデンスについては不明なところも多くありました。特に、野球選手に対する効果というのは、文献を検索してもヒットするものはなく、これまで研究があまりなされていない分野だということもわかりました。
「それならば、私が研究すればいい!」。ちょうど、リスキリングしたいという気持ちも同時に湧いていた時期だったので、野球選手の障害について研究できる大学院を探し始めました。
初めは、関西圏で探していたものの、ピンとくるところがありませんでした。この頃は、ありがたいことに、月曜日~金曜日までは毎日関西の放送局でのレギュラー番組があり、金曜日の生放送終わりで東京へ移動。土曜日と日曜日はNHKのBS1でワースポ×MLBという野球番組のキャスターを務めていたため、大阪と東京の二重生活を送っていました。行ったり来たりしているうちに、東京という場所がすごく近く感じるようになり、関東圏の大学院にも視野を広げました。
その中で、候補にいくつか挙がったうちの1つが、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科でした。単純に早稲田という名前に憧れていたところもありましたが、野球のバイオメカニクスの研究室や、脊椎専門の整形外科医が教授の研究室など、私の興味のある分野を学べる研究室があったのが一番の理由です。近年、著名な方が早稲田のスポーツ科学研究科を修了されていますが、それは社会人修士の一年制度のもので、授業は主に平日の夜と土曜日。スポーツビジネスが中心です。私が学ぼうとしていたスポーツ医学系になると、二年制で、平日も朝から夕方まで授業になります。入学するとなれば、完全に拠点を東京に移すことになるので、これまでのように仕事はできません。それでも、学びたいというワクワクした気持ちが勝り、早稲田大学大学院進学を視野に動き始めました。
ここでも、ご縁をつないでくれたのは野球です。早大野球部OBのスポニチの方が、早大で職員として働いていた方(非常に早稲田愛が強い方なので、大隈さんとお呼びします)を紹介して下さり、受験するにあたり、各研究室のことを詳細に教えて下さいました。それが2020年8月ごろだったと思います。早稲田のキャンパスツアーをしてもらった時の写真を見返すと、驚くほど楽しそうで、充実した表情をしている自分が写っていました。もうこの表情から、気持ちは早稲田に向いています。
あとは、研究室を決めて、願書とともに提出する研究計画書などの書類の準備に取り掛からなくてはいけません。そのための最終打ち合わせを大隈さんと行うことになりました。場所は明治神宮野球場の目の前にある日本青年館ホテル。その日に行われる早慶戦を眺めながらのランチタイムです。なんとも大隈さんらしい設定なのですが、このホテルでのランチが、私の大学院生活のはじまり、そして野球ピラティスの道へ導いてくれたのでした。
次回は約15年ぶりの受験生活、運命のランチタイム、そして35歳の学生生活について綴ります。