島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第17回

玉の苗(2)

2026.06.19更新

「玉の苗(1)」はこちら

 「神」と「農」と「経済」を循環の中で結びつける新穀感謝祭の機能について、第二次近衛内閣で農林大臣を務めた石黒忠篤は、一九四〇年の新嘗祭前日にラジオで放送された「農と祭」と題する講演で、勝間田らとはやや違った角度から論を展開している。この講演で石黒は、民俗学の知識を生かして日本やドイツをはじめとする世界各地の収穫祭を紹介したのちに、天照大神の神話に遡りつつ、新嘗祭の内容と意義をつぎのように語っている(1)

 そして爾来歴代の天皇陛下は御代の始め毎に行わせらるゝ、御一世御一度の大嘗祭と毎年出来秋に行わせらるゝ新嘗祭で、最も敬虔に稲を神より御承けになり、先ず之を神に奉られて後御〔みずか〕ら召上り、其稲に籠る神恩を感謝せられ霊徳を御体得になり、更にそれを御一身に止めさせ給わず、之を人民にも分ち給う大御心を継がれて、百官に給うのであります(2)

 つづいて彼は、神話的過去に起源を辿りうる新嘗祭の「深い意義」への感慨を述べたのち、その新嘗祭に準じつつ、農村と都市を結びつける新穀感謝祭の意義を説く。

 此の如く我大嘗及新嘗の祭は到底何れの国の収穫祭も思い及ぼし得ぬ深い意義ある貴い御祭りである。そして陛下が天つ神、国つ神を広く御親祭相成って親らも召上る事及び其の召上る献穀が広く各地方の農民の生産にも及ぼされて居る事は如何に我が国統治の御精神が宏遠であるかが深く考えられ民族の誇りを感ぜらる次第であります。
 新穀に対する感謝は其の生産に従事する者が、其の収穫を神に謝する事の外に、食物を食し之を消費する者が、食物と其の生産者とに対する感謝が無くてはならぬと思います。此の意味に於て、先年から新に、新嘗祭を期して全国に行われる様になった新穀感謝祭は広いものであり度いと思います。現に各大都市の商業会議所等に於ても進んで之に参加せられて居ります(3)

 こうした言葉遣いだけをみると、農業振興に主眼をおく勝間田らとは違って、石黒はあくまで神事としての新嘗祭の神聖性を重視し、それを拡張するものとして新穀感謝祭の意義を説いているようにみえる。だが、この講演の内容と当時の社会状況を重ね合わせてみるとき、より複雑な事情が浮かび上がってくる。

 吉田茂の発議によって一九三五年に始まった新穀感謝祭は、年とともに全国各地に普及していったが、一九四一年からは新体制運動の一環として大政翼賛会の主催で行われることになった(4)。これ以降、この祭典は地方における食糧増産と都市部における節米運動をいっそう徹底させるためのものとなっていくが、その背景にあったのは一九三九年以降の米の需給をめぐる劇的な変化である。
 一九三七年に始まった日中戦争が長期化する中で、日本は米の供給の一部を植民地である朝鮮と台湾からの移入に依存していた。ところが、一九三九年の夏に西日本と朝鮮を襲った大旱魃によって、朝鮮からの米の移入が激減する。これによって生じた「内地」(5)の深刻な米不足を受けて、翌年の十月には米穀管理規則が定められ、政府の管理と統制による米の供出と配給制度が始まった。また、この年から一九四三年にかけては、国内の米不足を補うために仏印(フランス領インドシナ)、タイ、ビルマなどからの外米の輸入が急増した(6)

 時の農林大臣だった石黒が、新嘗祭と新穀感謝祭の意義についてラジオで講演を行ったのは一九四〇年十一月二十二日。植民地からの米の移入が減少するのみならず、国内産米の減収も確定的となり、いよいよ米の供給が逼迫してきた時期である。
 この講演に先立つ九月中旬、石黒は国民に向けて、さまざまな対策にもかかわらず次年度の米の供給には「容易に楽観を許さゞるものが」あるとし、政府米と管理米を確保するとともに消費の規制を「強化する必要が痛切に感ぜらる」ため、外米や雑穀からの「離脱を希望するが如きことなく益々節米を実践」するよう求めていた(7)
 つまり石黒は、国民に向けたラジオ講演では「陛下が〔...〕召上る献穀が広く各地方の農民の生産にも及ぼされて居る事は如何に我が国統治の御精神が宏遠であるかが深く考えられ民族の誇りを感ぜらる次第であります」などと述べる一方で、実務においては代用食の奨励や精米歩合の制限、外米の輸入促進などの米不足対策に傾注していたのである。
 だとすれば、この講演の真の趣旨は、単に国民に対して新嘗祭の神聖な意義と新穀への感謝を説くという以上に、天皇を中心とする「我が国」における米と神恩の循環と分配という、現実とは乖離した理想状態をあたかも不変の事実であるかのように語ることで、国民の不安や不満を払拭しようとすることだったのではないか。
 さらに、一九四一年十二月に太平洋戦争が開戦すると、仏印やビルマなどで生産される米までも「皇国の勢力圏内」の食糧であるという主張が喧伝され、外米の輸入は日本の食糧供給の中により深く組み込まれていく。だが、一九四四年頃になると戦局の悪化に伴って米の輸送自体が困難となり、外来米の輸入がほぼ途絶する中で、国内ではさらに大幅な節米と代用食への転換が図られることになった(8)

 一九四四年の二月に玉城村の百名で行われた献穀田田植式は、ちょうどこの頃、国内の米不足がいっそう深刻化するとともに食糧増産と節米の圧力が高まる中で実施されたものだ。沖縄では従来から県内の米の不足分を台湾米の移入で補っていたが、米穀管理規則が制定された一九四〇年から米は配給制となり、一九四二年にはイモや小麦粉も配給の対象となっていた(9)

今日は目出度や玉城村の
献穀田の御田植 ユリテク ユラテク
苗は蓬莱 玉の苗

 百名で催された田植式の際に、早乙女たちがそれに合わせて苗を植えたという『穀物田御田植式の歌』の一番には、「苗は蓬莱 玉の苗」という歌詞が出てくる。
 「蓬莱」は、日本統治下の台湾において、主に内地への移出用として栽培されるようになった米の銘柄通称である。蓬莱米と呼ばれるものの中には、内地から導入されたジャポニカ米の品種と、日本種同士や台湾の在来種との交雑によって生みだされた新品種の両方が含まれていたが、いずれも日本人の嗜好に合わせて生産・開発された品種だった(10)
 一九二二(大正十一)年以降、台湾からも新嘗祭のために新穀が献上されていたが、この蓬莱米の栽培の成功を受けて、一九二九年からは献納する米の種類を「蓬莱種晩二号〔嘉義晩二号〕」とすることが提唱された(11)。一方、同じ頃に沖縄では、蓬莱米の中でも「台中六五号」と呼ばれる改良品種が八重山諸島をはじめとする島々に導入され、在来米に代わる新品種として作付面積を伸ばしていった(12)

我等乙女の真心こめて
植れば稲は八束穂に ユリテク ユラテク
穂に穂が咲いて 黄金波

実り捧げて祝いまつらん
永久に栄ゆる大御代を ユリテク ユラテク
弥栄えませ 弥栄えませ

 大和風の装束を身につけてムンジュル笠を被った早乙女たちが、鳥居の下で献穀田に苗を植えていく。その苗は、内地の日本人の食用として植民地で品種改良された蓬莱米だ。育った米は、帝国の中心たる宮中に送られる――自分たちの食べる米も不足しているというのに。
 こうした経緯を知ったのちに、一九四四年に百名で行われた献穀田田植式の光景をあらためて想像してみるとき、それはその純・大和風の装いとは裏腹に、帝国のさまざまな目論見と欲望と矛盾とが縦横に織り込まれた、一枚のタペストリーのようにみえてくる。

 新嘗祭とそれにまつわる諸儀礼は、帝国の中心と周辺を象徴的に結びつけるしくみの一部であったと同時に、戦争の継続に不可欠な食糧供給のネットワークの拡張と強化を支え、その実効性を可視化するためのものでもあった。そして、戦局の悪化に伴って食糧の確保がいよいよ困難になってからも、これらの儀礼は中心と周辺の半永久的な贈与交換を演出しつづけ、そうすることであるべき理想の状態を現実にもたらそうとするという、呪術的な儀礼としての側面を強めていったのかもしれない。

 ではなぜ、この年に百名の田んぼが献穀田として選ばれたのだろうか。それは単に当時、そこに篤農家が存在していたというだけではないはずである。




(1)石黒忠篤と民俗学の関係については、和田(二〇一一)参照。
(2)石黒(一九五六:九四)。なお、このエッセイにおける石黒(一九五六)の引用文中の旧字体・旧仮名遣いは新字体・新仮名遣いに改めている。
(3)石黒(一九五六:九五−九六)。
(4)大原(一九八九:五七)、周(二〇一四:七七−七八)参照。
(5)敗戦前の日本における植民地主義に基づく領土の差別化を表す際に、このエッセイでは当時普及していた「内地」「外地」という用語を用いる。本来は、これらの語が登場するすべての箇所にカギカッコをつけるべきであるが、便宜上、以降はカギカッコを外して使用する。
(6)大豆生田(二〇一三:七七−八一、八九)参照。
(7)大豆生田(二〇一三:八四)参照。
(8)大豆生田(二〇一三:九〇−九三、九六−九七)参照。
(9)謝花(二〇二一:七九−八〇)参照。
(10)渡部(一九八四:六九―七一)、藤原(二〇一二:一一六−一一七)参照。
(11)周(二〇一四:七一、七六)参照。
(12)蓬莱米の沖縄への導入経緯としては、沖縄県農事試験場の八重山支場技手だった仲本賢貴が一九一五年に台湾から内地品種を持ち帰って試作し、一九二九年には台中六五号などの普及に至ったとされる。渡部(一九八四:六九、七一)、藤原(二〇一二:一五六−一五七)参照。

参照文献
 石黒忠篤 一九五六『農政落葉籠』岡書院。
 大原康男 一九八九「新嘗祭献穀の意義と歴史」『國學院大學日本文化研究所紀要』第六四巻、三〇−六九頁。
 大豆生田稔 二〇一三「戦時期の外米輸入――一九四〇〜四三年の大量輸入と備蓄米」『東洋大学文学部紀要・史学科篇』三九巻、七七−一二一頁。
 謝花直美 二〇二一「軍失策による飢餓――沖縄戦と占領初期の那覇市民の生存」『日本オーラル・ヒストリー研究』 第一七号、七七−九五頁。
 周俊宇 二〇一四「もう一つの新嘗祭――植民地台湾における祭日としての展開」『日本台湾学会報』第一六巻、五九−八三頁。
 藤原辰史 二〇一二『稲の大東亜共栄圏――帝国日本の〈緑の革命〉』吉川弘文館。
 渡部忠世 一九八四「八重山の稲の系譜――蓬莱米と在来稲」渡部忠世・生田滋編『南島の稲作文化――与那国島を中心に』法政大学出版局、六七−九一頁。
 和田健 二〇一一「石黒忠篤と民俗学周辺――郷土会での活動を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』一六五巻、一一七−一三九頁。

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

石井美保研究室

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

この記事のバックナンバー

06月19日
第17回 玉の苗(2) 石井美保
05月20日
第16回 玉の苗(1) 石井美保
04月29日
第15回 旗と歌 石井美保
03月24日
第14回 水の旅路(2) 石井美保
02月19日
第13回 水の旅路(1) 石井美保
01月20日
第12回 キジムナーの火 石井美保
12月18日
第11回 市場と港(2) 石井美保
11月20日
第10回 市場と港(1) 石井美保
10月21日
第9回 西の果て、黄泉の国(2) 石井美保
09月18日
第8回 西の果て、黄泉の国(1) 石井美保
08月20日
第7回 砂糖小屋のリズム(2) 石井美保
07月23日
第6回 砂糖小屋のリズム(1) 石井美保
06月20日
第5回 崖の上の歌(2) 石井美保
05月20日
第4回 崖の上の歌(1) 石井美保
04月22日
第3回 豚の息(2) 石井美保
03月20日
第2回 豚の息(1) 石井美保
01月20日
第1回 石畳の小径 石井美保
ページトップへ