第19回
王国の稲(2)
2026.08.13更新
琉球の歴史において、百名の
尚真王の時代には、国王を中心とした集権的な支配構造の基盤をなすものとして、王族から選ばれた最高位の女神官である
王の一行による聖地巡礼と、神田からの稲穂の献上。それは、中央集権的な王権による地方の包摂を表すとともに、周辺と中心の霊的なつながりを創造し、実演する儀礼的行為でもあっただろう。
一九四四年の新嘗祭に米を献納する村のひとつとして玉城村が選ばれたとき、数ある字のなかでもなぜ、百名にある水田が献穀田として選ばれたのか。その選定の具体的な経緯を示す記録は、いまのところ見つけられていない。どこかに残されているかもしれないし、すでに失われてしまったのかもしれない。
ただ、百名と稲作の関係にまつわる歴史を辿ってみると、その明らかな特別さがみえてくる。この地域は、神話にも登場する稲作発祥の地とされ、神田での農耕祭祀が長く行われてきた。またそこは、かつて国王による巡礼地のひとつとされ、中央たる王府に稲穂を献上していたという歴史をもつ。
二十世紀の半ばに、時の「中央」からの指令によって献穀田の選定を迫られたとき、その決定を担った地方の役人や、在地の有力者や知識人の間で、こうした神話的な歴史や伝統が想起され、新たな儀礼の原型となりうるものとして想像されたのではないか。
伝承にある尚真王の時代の百名の神田と王府との関係と、明治以降の新たな「伝統」である新穀献上を通した地方の水田と宮中との関係は、相似た儀礼的な構造をもっている。いずれにおいても、周辺から中央に向かって米が移動し、中央から周辺に向かって権威の中心たる王、ないし天皇の恩寵が移動している。こうした双方向からの物質と力の移動を通して、中心と周辺の霊的で循環的なつながりが演出される。
このようにしてみると、献穀田を提供する地域として百名が選ばれたとき、すでにそこには、米という媒体を通して中央との関係を儀礼的に取り結ぶための素地があったといえるし、だからこそ百名が選ばれたと考えることもできる。
だがその実、想像的な部分も含めて伝えられてきた過去の祭祀と、新たな献穀田田植式の間には、その同型的な構造の内部において根本的な違いがあることに気がつく。
たとえば、百名の神田で行われてきた農耕祭祀や、受水・走水がその順路に含まれていた王の聖地巡礼において、最高神とされたのはアマミキヨであり、聖地とされていたのは斎場御嶽をはじめとする各地の拝所であった。また、豊作祈願の対象となり、王に献上されるのは在来種の稲穂であったし、親田御願のさいに神田に苗を植えつけるのは男性だった。そして、人びとが神に捧げる儀礼歌は、土地の言葉で謡われていた。
対して、献穀田田植式において崇めるべき「神」とされたのは――時の農林官僚だった石黒忠篤のラジオ講演にもあったように――天照大神とその霊徳を受け継ぐ天皇であり、「聖地」とされたのは宮中であった。また、豊作祈願の対象となり、天皇に献上されるのは品種改良された蓬莱米であり、献穀田に苗を植えつけるのはヤマト風の装束をつけた早乙女たちだった。そして、そこでは村や字の違いにかかわらず、同じ田植え歌が標準語で歌われた。
アマミキヨから天皇へ、在来米から蓬莱米へ、早男から早乙女へ、沖縄語から標準語へ。官製の農耕儀礼である献穀田田植式は、在来の農耕祭祀と相似た構造をもちながらも、そこで用いられる重要な象徴や、それらが指し示す対象は、ことごとく別のものに置き換えられている。そして、そうした置き換えによって、儀礼の効果もまたおのずから変質する。一連の儀礼と歌によって喚起されるイメージと、それらを通して人びとが
あまみちゅが くぬみぬ
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
泉口 さとぅやい
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
〔...〕
あかちちや 刈はってぃ
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
ゆさんりや むちんぢゃち
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
ふしさらし さらし
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
大まぢん 積むあまち
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
やまたうからん 積むあまち
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
あさぎぬ
(エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい)
なかむらち たぼり
ふへーさびだんじ すーらい
今日は目出度や玉城村の
献穀田の御田植 ユリテク ユラテク
苗は蓬莱 玉の苗
我等乙女の真心こめて
植れば稲は八束穂に ユリテク ユラテク
穂に穂が咲いて
実り捧げて祝いまつらん
永久に栄ゆる大御代を ユリテク ユラテク
百名の拝所の集まるザジュン山の麓は敷きならされて田植式の式場となり、献穀田の傍らには鳥居が設えられた。こうしたこともまた、権威の源や神聖性を表す記号と、それらが配置される空間をめぐる、異なる象徴体系の間のせめぎあいと置き換えの一端を示している。
それはでも、百名のみならず沖縄のあちこちで、沖縄のみならず日本の植民地となった土地のそこここで、すでに起こっていたことでもあった。
(1)聞得大君の下には大アムシラレと呼ばれる三人の高級女神官が配置され、各地の祝女は大アムシラレを介して中央とつながっていた。ノロとノロ制度について、詳しくは鳥越(一九四四:一五二−一六九)、比嘉(一九八三)、宮城(一九六七、一九八三)参照。
(2)根国ひゃくな編集委員会(二〇〇七:四二、四四)、南城市史編集委員会(二〇一〇:八七−八八、一三七)参照。『根国ひゃくな』によれば、御稲上げの儀礼は大正時代まで続けられたという。
参照文献
鳥越憲三郎 一九四四『琉球古代社会の研究――政治と宗教』三笠書房。
南城市史編集委員会 二〇一〇『南城市史 総合版(通史)』南城市教育委員会。
根国ひゃくな編集委員会 二〇〇七『根国ひゃくな』南城市玉城字百名。
比嘉政夫 一九八三「ノロ制度」沖繩大百科事典刊行事務局編『沖繩大百科事典 下巻 ナ−ン』沖繩タイムス社、一八二頁。
宮城栄昌 一九六七『沖縄女性史』沖縄タイムス社。
―― 一九八三「ノロ」沖繩大百科事典刊行事務局編『沖繩大百科事典 下巻 ナ−ン』沖繩タイムス社、一八一−一八二頁。




