島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第20回

お宮と殿

2026.09.29更新

 海に面した丘陵に位置する前川集落の、見晴らしのよい高台の頂上付近には「お宮」と呼ばれている場所がある。そこは一見したところ、神社のようにもみえるし、よく手入れされた小さな公園のようでもある。
 敷地の中央には、雑木林を背景にして一棟の祠が立っている。階段の上に鎮座する、玉垣に囲まれた切妻屋根の建造物。その姿は、まさにお宮と呼ぶにふさわしい。開口部の前には、石の香炉(ウコール)がいくつも並べられている。仄暗い祠の奥に祀られている御神体は、自然のままの岩石のようだ。
 その前方に、左右対称に立っている石の灯籠に近づいて、そこに彫られた文字を指でなぞってみる。
 「玉(〔たま)城(ぐすく)按(あ)司(じ〕)御上國付御供前川村百名」「嘉慶二十五年庚辰九月吉日」。
 これらの灯籠は嘉慶二十五年、つまり一八二〇年に、玉城按司の一行がこの場所を参拝した折に奉納されたものであるらしい。ただしその頃は、この場所はまだ「お宮」とは呼ばれていなかったはずである。

 祠の西側には年古りて、黴と苔に覆われた石碑が立っている。その背面の右端には、こう刻まれている――「御宮新築労力寄附者」。
 その左側には「在郷軍人/青年団/処女団」と記され、下段には人名が並んでいる。
 「大工 大城平(〔へい)松(まつ〕)/仲村渠(〔なかんだかり〕)助五 大城貞己/仲村渠千光 新垣松七」。
 石碑の側面には「大正十三年八月十五日 竣工」とあり、正面に回り込むと、ひときわ大きく銘刻された一列の文字が目に入る。

  皇 太 子 殿 下 御 成 婚 記 念 碑

 この石碑の向かって右手には、戦時中に損壊した祠が戦後に再建されたときの「村興運動記念碑」が立っている。かたや左手には、これも戦後に建てられた、岩で造られた大きな「慰霊碑」が鎮座している。そして、一般道からお宮の境内に続く長い階段の途中にはコンクリート製の立派な鳥居が立っており、その上部中央には「知(〔ち)念(ねん)之(ぬ)殿(とぅん〕)」と彫られた銘板がはめ込まれている(1)。鳥居のあるお宮が、「殿(とぅん)」?
 この場所はまるで、この集落の経てきた祈念の様式の変遷が陳列された広場のようだ。それはでも、その由来をよく知らない者にとっては、とまどいを感じさせるものでもある。
 そもそも殿というのは、ムラの血縁共同体の祭祀場のことではなかったか。その殿がなぜ、集落の「お宮」として祀られているのだろうか。
 前川出身の大城勲さんによれば、その経緯には、彼の祖父も少なからずかかわっていた。

勲さん 〔戦前に〕皇太子殿下が沖縄めぐりするということで、それを記念にお宮を建てようという話が出て、前川集落の中で。そのときに大工さんが、うちの祖父なんですよ。棟梁だったから。うちの祖父が中心になって〔建てた〕。戦前、立派な瓦(かーら)屋(やー)のお宮があったんですよ。

湧上さん できていたんですよね。

勲さん すぐ目の前が太平洋ですから、最初にお宮がやられて。お宮がもう艦砲一発で(2)。

 勲さんの祖父こそ、石碑にその名の刻まれている大工の棟梁、大城平松だったのだ。

 いまは「お宮」として知られている知念之殿の前史は、前川集落の形成史と不可分である。十八世紀の半ば頃まで糸数の山麓にあったという前川の元の集落は、「古(ふる)島(じま)」と呼ばれている。一七一三年に完成した『琉球国由来記』によれば、この集落には当時、五つの殿があったらしい。尚敬王の治世にあたる一七三六年、前川は現在の所在地である仲(なか)地(ち)原(ばる)に移転したが、その際に古島にあったいくつかの殿も移された。これらの殿は、のちに仲地原にあった知念之殿に合祀され、そのためにこの殿は前川で中心的な位置を占めることになった(3)。

 時代は下って一九二一(大正十)年三月六日、後の昭和天皇である皇太子裕仁親王が、欧州への旅の途中で沖縄に立ち寄った。石碑に刻まれた皇太子の結婚は、その三年後のことだ。
 石碑の記録と勲さんの話を考えあわせると、「御宮」の新築はおそらく一九二一年頃に発案されて、一九二四年に完成をみたのではないだろうか。この計画の中心を担ったのは、石碑にあるように在郷軍人と青年団、ならびに処女団と呼ばれる組織のメンバーだった。
 そういえば、船越の井泉である大川(ウッカー)を案内してもらったとき、湧上さんは昔、青年団の人たちがここでウナギを獲っていたと話していた。青年団という組織はいったい、それぞれの地域でどんな役割を果たしていたのだろうか。そして、前川の青年団はなぜ、「御宮」の建設にかかわることになったのか。
 その背景をみていくと、当時の沖縄における同化政策や社会教育と結びついた、「本土化」の動きがみえてくる。

 日露戦争の終結から五年後の一九一〇(明治四十三)年十一月、沖縄県に在郷軍人会の支部が結成された。同年の七月には、沖縄県知事が全国に先駆けて「青年会婦女会設置標準」を定め、以後、県内の各地に多くの青年会(青年団)と処女会(処女団)がつくられていく。
 当時、日本各地の農村では、明治天皇の名で一九〇八年に発布された「戊申詔書」を契機として、さまざまな社会教育や地方改良運動が進められていた。さらに、関東大震災の起こった一九二三年には、大正天皇の名で「国民精神作興に関する詔書」が発布されている。

 沖縄における青年団の活動は、こうした全国的な地方改良運動の一部であったと同時に、同化政策の一環としての意味合いをもつものでもあった。そこでは、たとえば男女の親睦の場だった毛(もー)遊(あし)びなどの慣行を禁じる「風俗の改善」から、石橋や道路の整備に至るまで、地域での勤労や啓蒙活動を通して青年たちを「公民」へと訓育するとともに、農村の生活を「向上」させることが目的とされていた。その一環として、青年団が地元の祭祀施設に鳥居や灯籠などを設置することもあったという(4)。一方で処女会は、青年団に対応する女子の修養機関であり、「公民の妻」を養成する社会教育の場として位置づけられていた(5)。

 そうした時流の中で、前川の青年団(一九一九年に「青年会」から改称。青年分団とも呼ばれた)は目覚ましい活動を展開していたようだ。「御宮」落成の翌年にあたる一九二五年二月には、大城十郎を団長とする前川青年団はその功績を県知事に認められ、「優良青年団」として表彰されている。 

表 彰 状

玉城村字前川青年分団長
大城十郎殿      

 和衷協力相戒メテ団体的訓練ニ努メ文庫ノ開設、補習教育ノ奨励、講演会ノ開催、基金ノ増殖、貯金ノ実行奉仕事業等諸般ノ施設宜シキヲ得、其ノ成績顕著ナルモノアリ仍テ茲ニ金五拾円ヲ表彰ス

大正十四年二月十一日 
沖縄県知事亀井光政(6)

 集落における中心的な祭祀場である知念之殿を「御宮」へと刷新するというプロジェクトは、この表彰状に列挙されているような、青年団のさまざまな事業のひとつとして考案されたものだろう。具体的な経緯は不明だけれど、それは単に、本土への同化を求める上からの圧力に従ったというよりも、「国民精神の作興」を求める国の呼びかけに応え、そのことが地域の発展に資すると信じた若者たちの、「やる気」の発露でもあったのではないだろうか。

 さらに、県知事による表彰を受けてから三ヶ月後、皇太子の弟にあたる秩父宮雍仁親王が沖縄に立ち寄ったさいに首里で開催された古武術大会に、この青年団は県代表として出場している。いまも残る当時の写真には、蝶ネクタイ姿の村長を囲んで、棒術に使う棍(こん)を手にして直立し、あるいは地面に座した精悍な顔つきの若者たちが写っている。その後列右端には、当時、前川の副区長を務めていた大城平松の姿もある(7)。

 一九四四年に百名で行われた献穀田田植式にみられたように、神聖性や権威を表す象徴を別のものに置き換えることは、それによって喚起されるイメージの変容を導く。同じように、象徴性を帯びた場所や建物の様式を変更することは、たとえその「中身」が同じであったとしても、その社会的な位置づけや機能の変化を促す。
 これ以降、知念之殿は前川の人びとにとっての「殿」であることを止めることなく、しかし同時に、日本という国家の一隅における「神社」としての機能をも果たすようになる。なかでも顕著であったのは、集落から出征する兵士のために、武運長久を祈願する場所としての役割だった。




(1)村興運動記念碑は一九五四年、慰霊碑と鳥居は一九八六年に建立されている。一九八六年は、前川集落が一七三六年に古島から移転してから二五〇周年にあたり、記念事業として『玉城村前川誌』の発刊や慰霊碑の建立が行われた。なお、鳥居の建立は字の事業ではなく、字出身者からの寄贈によるものだったという。
(2)二〇二五年三月一九日、南城市玉城字前川にて行った大城勲さんと湧上洋さんへの聞き取りによる。
(3)玉城村前川誌編集委員会(一九八六:三二一−三二六)、遠藤編(二〇〇二:二〇一ー三)参照。
(4)大城(一九九二、二〇二三)、真栄城(一九九三)、納富(n.d.)参照。
(5)渡邊(一九九六)参照。
(6)玉城村前川誌編集委員会(一九八六:二二〇)。
(7)玉城村前川誌編集委員会(一九八六:二二四−二二五)、なんじょうデジタルアーカイブ(二〇二三)参照。

参照文献
 遠藤庄治編 二〇〇二『たまぐすくの民話』玉城教育委員会。
 大城直樹 一九九二「村落景観の社会性――沖縄本島北部村落の祭祀施設の場合」『歴史地理学』一五九号、二−二〇頁。
 大城直樹 二〇二三「御嶽と神社のあいだ――民俗と社会教育の関係性について」人文地理学会大会研究発表要旨。
 玉城村前川誌編集委員会 一九八六『玉城村前川誌』玉城村前川誌編集委員会。
 なんじょうデジタルアーカイブ 二〇二三「棒術」(二〇二六年八月十九日閲覧)。
 納富香織 n.d.「新聞記事から、近代沖縄の世相を知る楽しみ――風俗改良運動から生活改善・生活更新運動を例として(上)」琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ(二〇二六年八月十九日閲覧)。
 真栄城勉 一九九三「明治期の沖縄県における社会体育史――青年会と体育会の活動を中心に」『琉球大学教育学部紀要』第四三集Ⅱ、三七七−三八六頁。
 渡邊洋子 一九九六「処女会の全国組織化とその指導思想――地方処女会の動向と中央組織の設立」『日本教育政策学会年報』三巻、一九六−二二〇頁。

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

石井美保研究室

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

この記事のバックナンバー

09月29日
第20回 お宮と殿 石井美保
08月13日
第19回 王国の稲(2) 石井美保
07月20日
第18回 王国の稲(1) 石井美保
06月19日
第17回 玉の苗(2) 石井美保
05月20日
第16回 玉の苗(1) 石井美保
04月29日
第15回 旗と歌 石井美保
03月24日
第14回 水の旅路(2) 石井美保
02月19日
第13回 水の旅路(1) 石井美保
01月20日
第12回 キジムナーの火 石井美保
12月18日
第11回 市場と港(2) 石井美保
11月20日
第10回 市場と港(1) 石井美保
10月21日
第9回 西の果て、黄泉の国(2) 石井美保
09月18日
第8回 西の果て、黄泉の国(1) 石井美保
08月20日
第7回 砂糖小屋のリズム(2) 石井美保
07月23日
第6回 砂糖小屋のリズム(1) 石井美保
06月20日
第5回 崖の上の歌(2) 石井美保
05月20日
第4回 崖の上の歌(1) 石井美保
04月22日
第3回 豚の息(2) 石井美保
03月20日
第2回 豚の息(1) 石井美保
01月20日
第1回 石畳の小径 石井美保
ページトップへ