第21回
ソテツの門
2026.10.13更新
『玉城村前川誌』には、集落の高台にあるお宮の前で撮影された、一枚の集合写真が載っている(1)。
一見して目を引くのは、居並ぶ人びとの頭上にひるがえる、二旒の幟旗だ。その上半分は写っていないけれど、大きく「武運長久」と墨書されていることが見てとれる。
最前列には、「大日本国防婦人会」と書かれた襷を斜めがけにした割烹着姿の女性たちが、膝をついてずらりと並んでいる。何人かの女性のそばには、小さな子どもの姿もある。
その背後には、背広や着物姿の男性たちが三列に並んでいる。目を凝らしてみると、後ろから二列目の制帽をかぶった少年が掲げている旗には、「前川青年分団」という文字と、団の紋章が染め抜かれているのがわかる。
最後列の中央、お宮と幟旗を背にして軍帽をかぶり、肩から襷をかけて直立している二人の若者が、これから出征していく当事者なのだろう。字誌の説明には、それぞれ「
この写真が撮影されたのは、一九三七年。勲さんと湧上さんが生まれた年の二年後のことだ。この年の七月には日中戦争が開戦している。お宮での祈願ののち、二人の若者は日本軍の一兵卒として大陸へと赴いたのだろうか。
それから約四年後に太平洋戦争が開戦した後、出征する叔父のために家族で御嶽をめぐり、首里の神社にまで参詣したときのことを、勲さんはつぎのように語っている(3)。
――〔前川の〕お宮は、戦時中にあそこで武運長久のお祈りをされてたんですよね。
勲さん うん、御嶽はぜんぶ拝みよった。うちもあの、叔父さんとか親戚の方々が兵隊に行くと、召集令状が来て〔戦地に〕行く前に、村々の御嶽も拝んで、それと首里城も拝んで、斎場御嶽もぜんぶ拝みよった。
うちも憶えているんですよ、うちの叔父さんが現役で兵隊に行ったもんだから。あのときは、うちも何歳ぐらいになりよったかな......六歳か。親に連れられて、おばあたちと一緒に、首里まで歩いていったんですよ。〔...〕――〔那覇の〕波之上宮には行かれなかったですか。
勲さん あそこはまた、行かなかったな。〔...〕
湧上さん 地域によっては、波之上〔宮〕まで行った人もおるみたいですね。兵隊を送るということで。それ以外にまた、もっと遠い、〔宜野湾の〕普天間宮まで行ったという人もいますよ。このへんではあんまりいないけど。
勲さん 遠いからね、普天間とかはまた。〔...〕
――勲さんが行かれたのはどこだったんですか。
勲さん 私たちはもう、波之上〔宮〕までも行ったことはないし。首里の坂下にある観音堂は何回も行った。首里城の中にも拝むところはあって......それぐらいかな(4)。
――じゃあ兵隊にとられるとなったら、それぞれの御嶽を拝んで、
知 念 之 殿 にも拝みに行って。勲さん うん、もう「無事に帰られるように」とね。兵隊はもう
戦 場 に行くんだから、みんな生きて帰るというのは、あまり当てにしてないから。やっぱり命は、戦争であれ何であれ、兵隊であれ、一番大事だから。「生きて帰れますように」というお祈りをしたんでしょうね、おばあたちが。――写真が残ってますよね。知念之殿で、国防婦人会の襷をかけた女の人たちが前にいて、後ろに男の人たちが「武運長久」の旗を立てて......。
勲さん あれは軍国主義の、あのときはもう朝から晩まで、「〽勝ってくるぞと勇ましく」といって、われわれ子どもながら、しょっちゅうそれを歌っていたよ。
――表向きは「武運長久」とか言っているけれど、内心は「生きて帰ってきて」と。
勲さん そうですよ。親たちは、「生きて帰りなさいよ」と言うよ。〔...〕うちは、おばあたちは、うん。
ぬちるでーたからどぅ ぬちるでーいちやくとぅやー
たとぅいへーたいやてぃん いちちけーりょー(5)そんなことを言いよったよ。〔...〕
湧上さん 「命は宝だよ。だから生きて帰りなさいよ」ということです。
――外では言えなかったですよね。
勲さん 大げさには、こういうことは言えなかったね。〔...〕外でそんなこと言ったら、「あんた反国主義だよ」と〔言われる〕。
太平洋戦争が開戦し、息子の一人が徴兵されたとき、勲さんの祖母は息子に向かって「生きて帰れ」という本心を伝えていた。そんな彼女も、近所の人びとと一緒に息子を送り出すときには、国防婦人会の襷をかけて「万歳」と唱えざるを得なかったのだろうか。
前川の集落から出征していく若者と、それを見送る人たちの姿を、勲さんはこんな風に回想している。
湧上さん 前川は、兵隊に行っている人はけっこうおられるね。〔...〕
勲さん 多かったよ。
東 フメーというところで、〔出征する〕兵隊さんはここに来て。それで、部落民がぜんぶ集まって、ここでみんな「ばんざーい」して送り出したんですよ。〔...〕
またあの、ソテツ門を作ってね。ソテツの葉を切ってきて、あれで門を作って。割 取 といって県道がある。そこに大きなソテツ門を作って、青年団が。そこでみんな、ムラの人たちが集まって、万歳三唱して送りよった。これはもう、鮮明に憶えてますね。――その門にはどんな意味があったんでしょうか。
勲さん 意味はわからんけど、綺麗ですよ、あれは。〔...〕ソテツの葉を、藁で門を束ねて、それに挿すんですよ、ぜんぶ。だからもう、ソテツ〔そのもの〕みたい。〔...〕ソテツで覆われて。あれは見事ですよ。戦後はあんなのは見たことがない。
――兵隊さんはその門を通って出征するわけですか。
勲さん そうそう、そこから行くわけですよ。襷をかけてね、こっちに。
切り通しの県道に設置された手作りのソテツ門をくぐって、徒歩で遠ざかっていく青年の背中が目に浮かぶ。
その姿が小さくなり、やがて見えなくなって、見送りの人びとがそれぞれに帰途についても、母親だけは襷がけの格好のまま、路傍に立ち尽くしていたに違いない。心の中でくりかえし、擦り切れるまで同じ言葉を念じながら。
ぬちるでーたからどぅ
ぬちるでーいちやくとぅやー
たとぅいへーたいやてぃん
いちちけーりょー いちちけーりょー いちちけーりょー
(1)玉城村前川誌編集委員会(一九八六:四二一)、新垣(二〇二二)参照。
(2)湧上洋さんによれば、この写真に写っている二人の青年は、仲村渠(中村)万徳さんと知念(八幡)正榮さんである。二人は日中戦争と沖縄戦を生き延び、戦後はブラジルに移住した。玉城村前川誌編集委員会(一九八六:三六四-三六五)参照。
(3)本章に登場する大城勲さんと湧上洋さんの語りは、二〇二六年七月二十二日に南城市玉城前川にて行った聞き取りに基づいている。
(4)一九二五(大正十四)年に首里城の正殿を拝殿とする沖縄神社が設立され、翌年に内務省から「県社」として承認された。なお、一九四二年以降、県の嘱託となった民俗学者の鳥越憲三郎を中心に、沖縄各地の御嶽を神社化する計画が進められた。この流れの中で一九四三年頃、鳥越と元知念村長の新垣孫一、時の村長だった親川栄蔵らが「斎場神社設立奉賛会」を立ち上げて斎場御嶽の神社化を構想したが、戦局の悪化によってこの計画は頓挫した(大城 一九九二:一一−一二、新垣 二〇二二参照)。
(5)「命は宝だよ。命が第一だからね。たとえ兵隊であっても生きて帰りなさいよ」。
参照文献
新垣瑛士 二〇二二「斎場御嶽が神社に? ~村社計画鳥瞰図~」『なんじょうデジタルアーカイブ』(二〇二六年八月二十一日閲覧)。
大城直樹 一九九二「村落景観の社会性――沖縄本島北部村落の祭祀施設の場合」『歴史地理学』一五九号、二−二〇頁。
玉城村前川誌編集委員会 一九八六『玉城村前川誌』玉城村前川誌編集委員会。




