第18回
王国の稲(1)
2026.07.20更新
なぜ、一九四四年の新嘗祭に米を献上するための献穀田のひとつとして、百名の田んぼが選ばれたのか。この土地と稲作とのかかわりを辿ってみると、その背景が浮かんでくる。
この年の二月に百名で行われた献穀田田植式の式場となったのは、「百名の中心的な御嶽であるザジュン山の北麓」だった。ザジュン、またはジャジュンとも呼ばれるこの場所は、字の中心部にある丘陵で、そこにはいくつもの拝所がある。このザジュン山に限らず、百名には、琉球の
伝承によれば、はるか昔、海の彼方のニライカナイからやってきた創世神であるアマミキヨ(アマミク)が降り立ったのは、百名の浜にあるヤハラヅカサと呼ばれる場所だった。この神は海岸からほど近い浜川御嶽に仮住まいをしたのち、ミントンと呼ばれる場所に城を築いて住まわったとされる。また、百名の森の中にある「受水」と「走水」と呼ばれる一対の湧水池は、琉球で初めて稲の苗が植えられた場所といわれる。この湧き水が流れ込む御穂田(三穂田)と親田はともに神田とされ、旧正月の初午の日には、百名の分村である仲村渠の人びとによって、「親田御願」と呼ばれる田植えの祭祀が行われてきた(1)。記録に残るかつての祭祀の様子は、つぎのようなものだ。
御願の当日になると、仲村渠の人びとはこぞって神田に集まり、神酒や花米などを
〔御願の〕道ジュネー(道中)では、受水走水からミントンまで大人がクェーナを謡い、子どもたちが「イェイヤーハローチーヘイ」と囃しことばをはさみ、素朴ながらも賑やかな道ジュネーをつくった。ムラに着くと屋号クラムトゥの庭で、稲束を中央に積み上げた円形の「稲マジン」の周囲を「中盛らちたぼうれ、拝だんどうスライ、サーユカローユカロー」(盛り盛りと賜れ、拝みましたよスライ、サー豊かに豊かに)と豊年を祈りながら回ってミントンに向かい、細やかに神々を拝み、礼拝を終えることになる(3)。
この祭祀で謡われた古謡のひとつである「天親田の歌」(4)には、当時、人びとの暮らしていた親しみ深い世界――集落の土地と水源、季節と農事の移り変わり、稲の生長と実り――が織り込まれている。「幻視的叙事歌謡」とも称されるその全体は、つぎのようなものだ。
あまみちゅが くぬみぬ〔アマミツ神様が企てられた(稲作りのことです)〕
浦田原 みぐやい〔浦田原を廻って〕
泉口 さとぅやい〔泉口を探し当て〕
あぶし型 造やい〔畦型を造って〕
ちぬだかん かにうるち〔角高(牛)も田に囲み降ろして〕
くんちゃくんうきてぃ〔細かい土をこねて〕
夏水に ちきやい〔(種籾は)夏水に浸けて〕
冬水に うるち〔冬水に(田に)降ろして〕
ももと十日 なりば〔百十日になると〕
西田原 みぐやい〔北の田原を廻って〕
ましぬ型 さし植てぃ〔枡型の田に差し植えて〕
三月に なりわる〔三月になれば〕
ゆらい草 かちほうてぃ〔寄り合い草を掻き放って〕
北風ぬ ふかわる〔北風が吹けば〕
南ぬあぶし まくら〔(稲穂は)南の畦を枕にして〕
南風ぬ 押しわる〔南風が押し吹けば〕
北ぬあぶし まくら〔北の畦を枕にして〕
あんしめーが くぬみぬ〔この家の奥様がお考えで〕
あまみ酒 たりうるち〔甘味酒を作り降ろして〕
大やくみが くぬみぬ〔大役思いがお考えで〕
しかまん人ん やとぅやい〔作業人も雇って〕
あかちちや 刈はってぃ〔暁には稲を刈り放って〕
ゆさんりや むちんぢゃち〔夕方には田から持ち出して〕
ふしさらし さらし〔干し晒し晒し〕
大まぢん 積むあまち〔大真積みも積み余して〕
やまたうからん 積むあまち〔ヤマトーからも積み余して〕
あさぎぬ椽迄 積むあまち〔離れの椽まで積み余して〕
なかむらち たぼり〔(杯の)中を盛らして(神酒を)下さって〕
ふへーさびだんじ すーらい〔果報いたしました スーライ〕(5)
それぞれの節の合間には、「エイヤァ アマーウェーダヨー 米ぬ沸き上ゆい!」という子どもたちの合いの手が入った。太い声で儀礼歌を謡う大人たちに混じって、真剣なまなざしで、生き生きと甲高い声を張り上げていた子どもたちの姿が目に浮かぶ。
天親田の歌では、神々への祈りの中に農事が詠み込まれているというより、一連の農作業を順番に経て、刈り取った稲を高々と積み上げるまでの、その全プロセスを謡い上げることそのものが祈りになっている。
この歌詞をみたときに私の頭に浮かんだのは、クロード・レヴィ=ストロースの有名な論文、「象徴的効果」に出てくる中米のシャマンの儀礼歌だ。
これは長い呪いであって、原住民によるその叙述は〔...〕インディアン、クナ族のギレルモ・アヤによって、情報提供者である彼の部族の一老人から蒐集されたものである。〔...〕
この歌謡の目的は、難産を助けることであり、比較的まれにしか用いられない。〔...〕歌はまず、産婆の当惑したさまを描写することからはじまり、彼女がシャーマンを訪うところを述べている(6)。
一九四七年にN・ホーマーとH・ワッセンによって紹介されたクナ族の儀礼歌について、レヴィ=ストロースはその由来と目的をこう説明している。
この治療儀礼では、難産に苦しむ妊婦の傍らでシャマンが儀礼歌を謡う。そこで謡われるのは、目にみえない守護霊たちが妊婦の膣から産道を通って子宮まで辿り着き、そこで妊婦の魂を捕えている悪霊ムウと戦ったのち、再び産道を通って外の世界に出てくるまでの一連の道のりである。
したがって、歌の主旨はまったく捜索、失われたプルバ〔妊婦の魂〕の捜索にあり、これは障碍物の破壊、猛獣の征服、果てはシャーマンとその守護霊たちがムウとその娘たちに向って、彼らがその重さに耐えることのできない呪術の帽子を武器として大勝負を交えるといった有為転変の末とり戻される。〔...〕分娩は起り、歌は最後に、ムウが彼を訪れた人たちのあとについて逃げてしまわないために守らねばならぬ注意事項を述べることによって終る(7)。
レヴィ=ストロースによれば、この儀礼歌のもつ効果とは、謡われる神話的な出来事を患者自身に「生きさせ、微細にわたるまで心の内で知覚させ」(8)ることによって、彼女の経験をある秩序へと方向づけることだ。
豊作を祈願する百名の古謡と、難産を助けるクナ族の儀礼歌。謡われていた地域も目的もまったく異なっているけれど、この二つの歌はよく似た構造をもっている。来たるべき出来事と進むべき道程を歌によって想像的に辿り、実演することでそれらへの構えをつくりだすとともに、期待される未来を現実のものとして呼び寄せようとする――それは、そうした呪術的な効果を伴う儀礼歌の典型的な形である。これらの歌は、謡われる出来事や行為と結びついた具体的なイメージをつぎつぎに喚起することで、ものごとが辿るべき道筋の中に人びとを誘う。
百名の神田における豊作祈願の祭祀は、船越の上山で行われてきた稲穂祭などと同じように、集落の土地と水源、そこにおわす神々や伝承と深く結びつき、人びとの暮らしや日々の労働と不可分なものとして執り行われてきた。
だが実のところ、これらの神田や祭祀は、百名と仲村渠という地域の共同体だけに閉じたものではなかった。それは十五世紀以降の琉球王国がつくりあげた中央集権体制の中でも、重要な位置を占めていたのである。
(つづく)
(1)根国ひゃくな編集委員会(二〇〇七:三八、四二、四四)、南城市史編集委員会(二〇一〇:五九−六〇、一四〇−四十一、二二九−二三一)参照。仲村渠の親田御願は戦後長らく簡素化されていたが、一九八九年に戦前に近い形で復活された。現在の親田御願については、なんじょうデジタルアーカイブ(n.d.)参照。
(2)湧上(一九八三)参照。クェーナについては比嘉 b(一九八三)参照。
(3)南城市史編集委員会(二〇一〇:二三〇)。
(4)天親田(アマウェーダ)は村の神田での田植えや播種の儀礼のことであり、アマウェーダの歌はその折に豊作を予祝して謡われた歌謡を指す。湧上(一九八三)、比嘉 a(一九八三)参照。
(5)ここに掲載した歌詞と訳については、玉城文化協会のあゆみ 編集委員会(二〇一七:六六−六七)と玉城村史編集委員会(二〇〇六:一五三−一五五)を主に参照した。部分的に異なる歌詞をもつアマウェーダの歌として、玉城村字仲村渠祭祀委員会(一九九〇:五六)参照。
(6)レヴィ=ストロース(一九七二:二〇五−二〇六)。
(7)レヴィ=ストロース(一九七二:二〇六)。
(8)レヴィ=ストロース(一九七二:二一三)。
参照文献
玉城村史編集委員会 二〇〇六『玉城村史 第八巻 上 文献資料編』南城市役所。
玉城村字仲村渠祭祀委員会 一九九〇『ミントン 仲村渠祭祀資料 No.1』玉城村字仲村渠。
玉城文化協会のあゆみ 編集委員会 二〇一七『くむこ玉城――玉城文化協会のあゆみ』玉城文化協会。
南城市史編集委員会 二〇一〇『南城市史 総合版(通史)』南城市教育委員会。
なんじょうデジタルアーカイブ n.d.「親田御願と親田祭」(二〇二六年七月一日閲覧)。
根国ひゃくな編集委員会 二〇〇七『根国ひゃくな』南城市玉城字百名。
比嘉実 a 一九八三「アマウェーダの歌」沖繩大百科事典刊行事務局編『沖繩大百科事典 上巻 ア−ク』沖繩タイムス社、七四−七五頁。
比嘉実 b 一九八三「クェーナ」沖繩大百科事典刊行事務局編『沖繩大百科事典 上巻 ア−ク』沖繩タイムス社、九三四頁。
レヴィ=ストロース、クロード 一九七二『構造人類学』荒川幾男ほか訳、みすず書房。
湧上元雄 一九八三「アマウェーダ」沖繩大百科事典刊行事務局編『沖繩大百科事典 上巻 ア−ク』、沖繩タイムス社、七四頁。




