第7回
おじさんのだし
2024.01.19更新
近所に、おいしいパスタを出すお店があります。
どこがおいしいかを具体的にのべるのは難しいのですが、日によってソースや具が変わっても、一口目を食べたときに、独特のハッとするような味わいがあって、ときどき無性に食べたくなります。
その日もお店は混んでいて、どのテーブルも食事を楽しむ人たちでいっぱいでしたが、あいているカウンター席に座ることができました。初めて座ったその席からは、店主のおじさんがパスタをつくっている様子がよく見えます。仕切りもあんまりないオープンなキッチンで、注文が入ったパスタを次々とつくっていく手際のよさに目を惹きつけられました。おじさんは、体の動きを一瞬たりとも止めることなく、ソースをつくりながらパスタを茹で、味の調整と麺の硬さの確認に余念がありませんでした。フライパンのふちにおたまを当てるカーン、調味料が入るパチャッ、合間に台をふくシュッ、ソースを味見するペロ、麺を味見するツルッ、カーンパチャッシュッペロツルッという音の連鎖が、にぎやかに響いていました。カーンパチャッシュッペロツルッは、つねにセットで、どれが欠けてもいけないみたいでした。カーンパチャッシュッペロツルッは、一連の動きがせいぜい5秒くらいで、たくさんのオーダーが入っても味に対しての妥協を許さなそうなおじさんは、何回も何回もカーンパチャッシュッペロツルッを繰り返していました。最初は、これぞ完璧な料理人のリズムなんだ、とありがたく見学していたのですが、なんだかだんだん、変な気がしてきて、というのは、味見が、ずいぶん多いんです。こんなに味見って、するもんなんだっけ。私は、おじさんが本当に何回も味見をしたくてしているのか、リズムに身をまかせているうちに何回も味見をしちゃっているのか、わからなくなってきました。回数が気になったのは、おじさんの味見がけっこうワイルドだったという事実のせいで、最適なアルデンテをさぐるため、熱さも厭わず麺を素手でこまめにすくってはすするおじさんを見ていると、麺と一緒におじさんの指もゆでられているような気がしてきました。
そして気づけば私の目の前には、そんなおじさんがつくったパスタが運ばれてきたのです。何回も食べたことがあるパスタなのに、つくる様子を見ていたせいで少しだけ不安がよぎります。しかしいざ、口にいれてみると、そこにはいつも通りのゆるぎないおいしさがありました。やや動揺していた私を、どっしりと包みこんでくれる確実な味でした。ゆるぎないおいしさの前で、私の感覚がゆらぎました。
寡黙で少し日に焼けたおじさんは、とてもいいだしがでそうだな、と思いました。外国で、本格的に料理を学んできたというおじさん。白い砂浜で日光浴をしながら、だしとしての自分を高めるおじさん。料理人仲間と、お互いの風味を競い合うおじさん。満を辞して帰国し、このお店独自の味を確立させたおじさん。
ありがとう、おじさん。こんなにおいしいパスタをつくってくれて。
「ごちそうさまでした。」と私は厨房に呼びかけ、お金を払い、さっそうと店をあとにしました。おじさんがつくったパスタはおじさんの一部だけど、おじさん自身もまた、パスタの一部なんだ、というような気づきを得て、お店のドアを開けると、外の世界がいつもよりすこし、親密なものに感じられました。