犬のうんちとわかりあう

第4回

おならとふたり

2023.10.17更新

 昼下がりの電車内、向かいに座っている高校生が不意にこちらをじっと見つめ、私は思わず見返します。彼は「ぶう」とおならをしました。

 気づくと彼は、ふたたび視線を伏せていました。おならはそれなりの音だったので、その車両全体に放たれてはいましたが、直前に目を合わせた私は、彼のおならをしっかりと受け止めた心持ちになりました。

 振り返ってみると、彼から私へと送られた真剣なまなざしは、これから大きなおならをする人のものとはとても思えないものでした。人は電車内でおならをするとき、しかもそのおならが止められないとわかっているとき、せめて、もっと申し訳ないような目つきをすると思います。もしくは、そもそも人と目を合わせないと思います。

 どうして、と動揺しながら私がふたたび見つめても、スマホのゲームかなにかをしているようで、自分がおならをしたことに対して顔色ひとつ変えていませんでした。大物だ、と思いました。

 けれど、私はそこで理解します。高校生は、ワイヤレスのイヤホンをしていました。

 私の経験上ですが、イヤホンで大きな音を聞きながらおならをすると、自分がどんな音のおならを出しているのかよくわかりません。耳の穴から取り入れる音にかき消され、おしりの穴から出ていく音の正体がつかみづらいんだと思います。ただ、空気がおしりの穴を進んでいる感覚だけは、よくわかります。

 あの高校生は、それだったんじゃないか、と思いました。

 これからおならが出るぞ、という予兆はあったんだと思います。予兆はあったから、思わず顔をあげ、目の前にいる私を見た。出る、そろそろ出る。自分では規模の把握が出来ていない、おならが、出る。

 自分だけスッキリしたんだ、と私は思いました。もう出してしまったおならの音を、彼は、自分では確認することができません。ひょっとしたら、音のないおならを出したと勘違いしているかもしれません。でも私は、きちんと聞いていました。なんなら、脳内でもう一度再生できるくらい、そのおならは深く私に刷り込まれていました。

 手にいれてしまったこのおなら、どうしよう、と思いました。返すことはできないけれど、忘れることもできませんでした。こんなようなおならは、世の中のあちこちにあるような気もしました。私だって、いろんなところに野放しにしてるかもしれませんでした。本人は責任をとらずに、受け止めたひとが困ってしまう、あてのないおなら。おしりの穴からだけとも限らず、おならとも限らず、体の中から頭の中から、いろんなものを放っている可能性もあるかもしれない、と思いました。今までの人生が、急に不安になりました。

 高校生はスッと席を立ちました。降りる駅が来たようです。私は、ハッとして、私とおならを置いてきぼりにするつもりか、と少しうらめしく思いました。

 しかし、気づけばそこは終点で、私もあわてて、まとわりつくおならをふりほどき、いそいで席を立ちました。

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三好 愛

三好 愛
(みよし・あい)

1986年東京都生まれ。 イラストレーター。ことばから着想を得る不思議な世界観のイラストが人気を集め、装画や挿画を数多く担当するほか、クリープハイプや関取花のツアーグッズなども手がける。著書に、エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)、『怪談未満』(柏書房)がある。ミシマ社が刊行する雑誌『ちゃぶ台』8号、9号、10号に「絵と言葉」を寄稿。

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