犬のうんちとわかりあう

第12回

ふところにおじさんを

2024.06.18更新

 コンビニで、ワインの瓶を割ったおじさんを見ました。夫と駅前のコンビニに入ったら、芳醇な香りとともに足元に赤黒い水たまりがながれてきて、どうやら客のおじさんが、ワインの瓶を割ったようでした。会計済みのものを床に落としてしまったらしく、モップで片付ける店員をおろおろと見守りながら、おじさんはものすごく申し訳なさそうでした。自分の買い物は終わったけれど、このおじさんの申し訳なさはいったいどう昇華されていくのか気になって、少し離れた場所から見守ったところ、おじさんは割ったワインのかわりに、新品のワインを店員の人から受け取っていました。今世界一申し訳ないおじさんは、申し訳なさすぎて消え入りそうでした。その場に居合わせたお客さんは、見るともなしにおじさんのことを見ていて、おじさんのことを迷惑だなあと思っている人はいなさそうでしたが、おじさんのようになりたくないなあとは、みんな思っていそうでした。

 翌月、私はスーパーで生卵を割りました。そんなことが自分の身に起こるなんて、思ってもみませんでした。保育園の帰りに子どもがお菓子をねだるいつものスーパーで、アンパンマンのペロペロチョコと一緒に卵パックを買い、保育園のリュックにねじこもうとしたところ床に落としてしまったのでした。卵の殻が割れる、ぐしゃっという嫌な音がしました。どうかせめてパックの中だけで破損がおさまっていて欲しい、と床に手を伸ばすまでの瞬間にものすごい密度で切望した願いもむなしく、白身がでろりと床にこぼれていました。夕方、混雑している小さなスーパーで、2人の人員が私の卵の処理に割かれ、私は2歳の子どもと手をつなぎ、何もできないまま謝罪の言葉を連呼しました。レジに並んでいる人たちから、なにか起こったみたいだからとりあえず見ておくか、という視線を感じました。事態を聞きつけた責任感の強そうな人が裏からバンッと登場し「今卵割れましたよね?」とやさしく確認しながら、新しい卵パックを丁寧にレジ袋に入れ直して渡してくれました。私はこれ以上自分がみじめになりたくない恐怖から「いいです、新しく買います」と訴えましたが、その店員の人はやさしさで新品の卵を渡してくれたのではなく、店のシステムとして、過失で商品を破損した客に代替品を渡してくれているだけで、これを断ろうとすると逆にめんどい客になってしまう、ということに気づき、すみませんありがとうございます! とスーパーから逃げるように立ち去りました。あのときのおじさんも、こんな気持ちだったんだ、と思いました。数ヶ月前にコンビニでワインの瓶をわったおじさんだけが、今の私の心の支えでした。今の私には、あのときのおじさんの気持ちが理解できるし、あのときのおじさんなら、今の私の気持ちを理解してくれるに違いないと思いました。
 家に帰って夫に今起きた出来事を話し、もうあのスーパーには二度と行けないと伝えましたが、「そんなの気にしなくていいよ、次いったときは店員さんのシフトも変わっているだろうし大丈夫だよ」とあっさり返されたため、こいつは何もわかっていない、どう思いますか、と心の中のおじさんに呼びかけました。

 翌々月、そんな夫が駅前の大きなスーパーでビールの瓶を割って帰ってきました。ひどく落ち込んだ様子で玄関に現れた夫は、あのスーパーには二度と行けない、と打ちひしがれていました。夫によると、ビールの瓶をエコバッグごと取り落とし、床で砕け散るやいなや、複数の店員さんがわーっと集まってきて、現場は買い物かごを積み重ね囲われて手際良く処理され、夫は罪悪感から手伝うそぶりこそすれど、もちろんなにをすることもできず、ごめんなさいと謝りながら、新品をもらって帰ってきたそうです。

 瓶のガラスが泡の中で粉々になっている状況を想像した私は、つらいよね...と同調しました。スーパーで物を壊した当事者として、同じ気持ちを知っていました。必要なものを選んでお金で買うということが効率よくできるよう整えられた空間で、明るくて白い照明がこうこうと輝くあの空間で、取り返しのつかない失敗をしてしまうと、ひどく孤独な気持ちになります。今まで、たくさんのお客さんの中の一人として馴染んでいたはずの自分が、商品を壊す、という派手なふるまいをしたことによって、みんなの外にはみ出して、違う側に来てしまいます。その存在を気にしてもいなかった他のお客さんたちが、急に人間としてせまってきて、どの人も、お店でものを割ったことなどない、ひどく立派な人たちに見えます。その人たちからやむを得ず視線を浴びることにより、心の底から軽蔑されているような錯覚を覚えます。
 ついさっきしでかしてしまった夫にとって、私の同調はむしろ逆効果なようでした。ビールの瓶を割った立場からすると、卵パックを割った私のほうがお店にかけた迷惑は少ないので、自分より立派な人間に見えているみたいです。商品の差で人間の差をはかるくらい、夫は卑屈になっていました。

 そこで私はふところから、ワインの瓶のおじさんを取り出して、夫にそっと手渡しました。思い出してごらん、セブンの床に広がった赤黒い水たまりを。あの場でおじさんが浴びていたたくさんの視線を。

 夫は、すぐこちら側に戻ってくるにはいたりませんでしたが、ワインの瓶のおじさんを思い出すことで少し落ち着きを取り戻したようでした。あのときは、壊した人を見る側だった自分を思い出し、その自分はおじさんを迷惑だとは思っていなかったことを思い出し、そもそもあちら側とこちら側は行き来自由で、今回はたまたま自分があのおじさんになってしまっただけなのだと、みんな誰でもうっかりをしてしまう可能性はあるのだと、自分だけではないのだと、おじさんによって元気付けられていました。

 あのとき、ワインを割ったおじさんは、相当つらかったと思いますが、おじさんが起こした出来事で、そのあと救われた人間が、少なくとも二人います。私が卵パックを割ったときに居合わせた人たちや、夫がビールの瓶を割ったときに居合わせた人たちの中にも、これから先の人生において、お店で物を壊してしまうことがひょっとしたらあるかもしれません。そしたら、今回のことを思い出してもらえればと思います。みんな、ひとりじゃないんです。

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三好 愛

三好 愛
(みよし・あい)

1986年東京都生まれ。 イラストレーター。ことばから着想を得る不思議な世界観のイラストが人気を集め、装画や挿画を数多く担当するほか、クリープハイプや関取花のツアーグッズなども手がける。著書に、エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)、『怪談未満』(柏書房)がある。ミシマ社が刊行する雑誌『ちゃぶ台』8号、9号、10号に「絵と言葉」を寄稿。

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