第11回
祖母がころころ
2024.05.20更新
歯医者での施術中、目の上にタオルをふわっとかけられて、死んだ祖母のことを思い出しました。おばあちゃんも死んだあと顔に布をかけられていたな、と思いました。鼻の穴に綿も入っていた。歯医者にウィーンとやられているあいだ、何を考えれば良いかわからなくなって、祖母の思い出をいくつか頭の中でころがしました。
死ぬ間際の朦朧とした意識の中でホテルニューグランドのアップルパイが食べたいと妙にはっきり言ったこと、祖父のお葬式でお坊さんのお経に思わず吹き出してしまっていたこと、家族で中華街に向かう途中、あまりの強風にセットしたはずの前髪が逆立っていたこと、トイレットペーパーの先っちょが、どんなときでも三角形にきちんと折ってあったこと。
私は大人になってから、あまり祖母に会いに行きませんでした。電車で1時間の距離だったのに、忙しさを理由に何年かに一度しか会いに行かなくなってしまい、祖母が死ぬときになって初めてそれを後悔しました。なんというかそれは、かなり自業自得感が強い後悔で、申し訳ないと片付けてしまうにはずいぶんひとりよがりな、手をつけづらい気持ちでした。後悔の相手が死んでしまうと挽回はきかないものなんだ、と思いました。
祖母が死んだあと、衣服や食器をいくつかわけてもらいました。寂しさや悲しさがすぎさったあとも、思い出として活用していこう、と思ったのですが、寂しいや悲しいという気持ちは、小さな後悔が鎮座していると、なかなかその横を通り抜けられません。詰まっちゃうんです。寂しくて悲しいような気もするけどもっと会いに行けばよかったよな〜、というところで私の感情はいつも停滞してしまいます。
死んだ祖母の皿の上に、私の子どもが元気にドーナツをのせて食べていたりすると、目の前の景色が全体的に死んでいるのか生きているかわからなくなり、祖母に関する記憶がころころと自由にころがりはじめます。孫にはあまり会えなかったが穏やかに死んでいった祖母が寂しさをかかえていたか、という疑問は本人にしかわからないことなので割愛させていただきますが、私の頭の中の感情も、ころころころがる祖母との記憶の周辺をぐるぐる巡っているばかりで、どこにもたどりつきません。たどりつかずに、ずっとそこにあり続けます。ときに私の記憶違いによる改変も加えられながら、祖母との記憶はずっとその辺をころころしており、そうなると、忘れてしまう、ということもなかなか難しいもので、寂しい、悲しい、後悔、の感情と連れ立って、私が死ぬまで、私の中を、祖母はころころしているんだろうなあ、と思います。