犬のうんちとわかりあう

第21回

鼻の交換

2025.03.14更新

 最寄駅のホームに降りると、使用済みのマスクが落ちていました。本来はひらたく四角かったけれど、鼻に入ったワイヤーの部分が、誰かの鼻の形のふくらみにそってふくらんでいるマスクでした。とっさに、あ、私がこのマスクを落としたのかも、と思いました。恥ずかしい、という感情が駆け寄ってきました。数時間前にも私はこの駅のホームを歩いていて、そのときはマスクをしていて、でも今はなぜかマスクをしていないから、きっとあのとき落としたんだ、と思いました。落ちているマスクの鼻のふくらみは、見れば見るほど私の鼻の形をしているように思いました。自分の痕跡を残したものが、いろんな人がせわしなく行き交う場所でじっとしているのは、なんだかすごく恥ずかしい、と思いました。

 ただ、よく考えると私が数時間前に立っていたのは、今いるのとは反対側のホームでした。反対側のホームから下りの電車に乗って出かけ、今、上りの電車で最寄駅に帰ってきたのでした。コートのポケットにおもむろに手をいれると、そこには私のマスクがありました。指先で探ってみた私のマスクは、私の鼻のふくらみにそってふくらんでいるようでした。だから、ホームに落ちているのは、私のマスクではありませんでした。誰かの鼻のふくらみを保った、まるで知らないマスクでした。私の鼻のふくらみだと確信したはずの形は、知らない人の鼻のふくらみの形でした。私の鼻が入っていたはずのところは、実際は、誰か知らない人の鼻が入っていたところだったのでした。落ちているマスクが自分のものではないとわかり、私を囲っていた恥ずかしさは、そそくさと去っていきました。誰かの鼻と自分の鼻を勝手に交換しようとした、気まずい気持ちだけが、そこに残りました。

250314-1.jpg

三好 愛

三好 愛
(みよし・あい)

1986年東京都生まれ。 イラストレーター。ことばから着想を得る不思議な世界観のイラストが人気を集め、装画や挿画を数多く担当するほか、クリープハイプや関取花のツアーグッズなども手がける。著書に、エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)、『怪談未満』(柏書房)がある。ミシマ社が刊行する雑誌『ちゃぶ台』8号、9号、10号に「絵と言葉」を寄稿。

編集部からのお知らせ

三好愛さん初の絵本『ゆめがきました』を刊行しました!

yumegakimasitashoei.jpg

2024年11月18日に、三好愛さんによる初の絵本『ゆめがきました』をミシマ社より刊行しました。

とらえどころのない気持ちや経験を見事にイラストにし、エッセイにも注目が集まる三好愛さんが描く、初の絵本。おやすみ絵本に、あらたな傑作が誕生です。「よぞらでゼリーをたべるゆめ」「おかあさんがふえるゆめ」「ねことおんせんにいくゆめ」…、今日はどんなゆめがやってくる?

本書の刊行を記念して、2025年3月18日より代官山 蔦屋書店で『ゆめがきました』の原画展を開催いたします。期間中、三好愛さんのサイン会も予定しております。そして特別なグッズの販売も。ぜひお運びください。

詳細はこちら

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • 『建築と利他』発刊しました!

    『建築と利他』発刊しました!

    ミシマガ編集部

    昨日5月15日(木)、『建築と利他』が全国のリアル書店にて先行発売となりました! 建築家の堀部安嗣さんと、政治学者の中島岳志さんの対談をベースに、大幅な書き下ろしと、堀部さんによるスケッチが加わった、美しい佇まいの一冊になりました。装丁デザインは鈴木千佳子さんです。

  • 「まともであることには価値がある――トランプ氏の言動に振り回されないために」小山哲さんインタビュー(前編)

    「まともであることには価値がある――トランプ氏の言動に振り回されないために」小山哲さんインタビュー(前編)

    ミシマガ編集部

    アメリカ大統領にトランプ氏が就任して以来、ウクライナとロシアの「停戦交渉」をめぐる報道が続いています。トランプ氏とゼレンスキー氏の口論、軍事支援の停止・・・大国の動向にざわつく今、本当に目を向けるべきはなんなのか?

  • 羅針盤の10の象限。(前編)

    羅針盤の10の象限。(前編)

    上田 誠

    自分のことを語るよりは、やった仕事を記録していく航海日誌であろう。そのほうが具体的で面白いだろうし、どうせその中に自分語りも出てくるだろう。 そんな風に考えてこの連載を進めようとしているけど、やはり散らかって見えるなあ、とも思う。

  • 松村圭一郎さん推薦文「答えを出すのではなく、踏みとどまるために」

    松村圭一郎さん推薦文「答えを出すのではなく、踏みとどまるために」

    ミシマガ編集部

    2024年12月に刊行された、後藤正文さんと藤原辰史さんの共著『青い星、此処で僕らは何をしようか』。本書を読んだ、人類学者の松村圭一郎さんから、推薦コメントをいただきました。『うしろめたさの人類学』や『くらしのアナキズム』の著者であり、後藤さん・藤原さんと同世代である松村さんは、どんなことを思われたのでしょうか?

この記事のバックナンバー

06月17日
第24回 そのとき道にはいったいなにが落ちていたでしょうか? 三好 愛
05月13日
第23回 麦茶の輪廻 三好 愛
04月14日
第22回 大丈夫は貪欲に 三好 愛
03月14日
第21回 鼻の交換 三好 愛
02月17日
第20回 近所の早い店長 三好 愛
01月15日
第19回 転んだもっちりおばあさん 三好 愛
12月17日
第18回 うんちを落とす私たち 三好 愛
11月14日
第17回 贈るの苦手 三好 愛
10月14日
第16回 つぎのおそとにさようなら 三好 愛
09月16日
第15回 ありがとうどん 三好 愛
08月16日
第14回 なめらかなテレサ 三好 愛
07月17日
第13回 上司の獰猛なうんち 三好 愛
06月18日
第12回 ふところにおじさんを 三好 愛
05月20日
第11回 祖母がころころ 三好 愛
04月17日
第10回 こうして「母」を身につける 三好 愛
03月18日
第9回 私の私を 三好 愛
02月19日
第8回 うんちとの距離 三好 愛
01月19日
第7回 おじさんのだし 三好 愛
12月13日
第6回 ぷよぷよの扱い 三好 愛
11月21日
第5回 楽しみぞろぞろ 三好 愛
10月17日
第4回 おならとふたり 三好 愛
09月18日
第3回 うんちは世界を吸いこんで 三好 愛
08月17日
第2回 おすしのおしり 三好 愛
07月17日
第1回 ハラミ出かける 三好 愛
ページトップへ