第14回
なめらかなテレサ
2024.08.16更新
子ども2歳、ようやく私はベビーカーでの電車の乗り降りをスムーズにおこなえるようになりました。乗るときは前向き、降りるときは後ろ向きで、個体差がある電車とホームの隙間を見極め、体重のかけ方をびびらず調節できるようになりました。周囲に対して必要以上にへいこらしない姿勢も身につけました。
子育てをしてみると、あらかじめ思っていた予測と実感がかけはなれてしまうできごとが多々あり、私の中でかけはなれ率が一番高かったのが、ベビーカーの扱いでした。電車に乗って大きな画材を運ぶときに周囲のひんしゅくを買うことはよくあって、他人の邪魔になっているかもしれない、という気持ちについては経験済みでしたが、そこに、制御しにくくやわらかい生き物を安全に運ぶ責務が加わると、難易度が格段に上がりました。電車とホームの隙間を乗り越えるとき、子どもの下には幅数センチ深さ無限の暗闇が広がっていて、前輪を電車に乗り入れたあとホーム側の後輪を浮かせてグイッとベビーカーを押し込むたびに、今回もどうにかうまくやれたと自分で自分を励まします。励ましながら即座に車内を見まわし、こそこそと居場所を確保しますが、うまくやらないと社会から浮いてしまう恐怖感との付き合い方はいまだに見つけられません。
そんなときに、よく思い出すのがテレサのことです。テレサは、私が学生だったときに、ウィーンから車椅子で東京に留学してきて、少しのあいだ一緒に過ごした友達です。テレサが行きたい場所に、電車を使ってよく2人で移動をしていました。都内の広い駅(特に地下鉄)でエレベーターを探し出すことの困難さを自覚したのもこのときでした。私の英語がつたなすぎで話が続かないことも問題で、共通の話題をあれこれ探っていくうちに、村上春樹のことで一番盛り上がりました。
テレサは、見たいものがたくさんあって、物怖じせずに、どこどこへ行きたいのだといつも教えてくれました。彼女の車椅子は、ほぼテレサそのものみたいにテレサに馴染んでいて、たいていの場面で、彼女はうっとりするほどなめらかに移動をしていました。ただ、そんななめらかなテレサにまとわりつく日本の駅の雰囲気はなんだかちぐはぐで、改札を通り抜けようとすると、車椅子での電車の利用を事前に申告しましたかと、私が呼び止められました。私はテレサの友達でしたが、はたから見ると介助者なんだと知りました。その場で申告し、乗り降りするときはスロープで補助してもらうようにお願いしました。1人でするする動けるのに、電車に乗り降りするときにだけ、テレサはすごく丁重に扱われました。とは言え、電車とホームの隙間ぐらいは簡単に乗り越えられたので、数回利用するうちにスロープを待たずして、自分でグイッと降りるようになってしまい、降車駅でスロープを持ってこっちに近寄ってきていた駅員さんが慌てていました。テレサは、車椅子ユーザーと見れば自動的に親切が発生するこの国を、心底不思議に思っていました。
テレサが自分の力でグイッと電車を降りてみせたとき、待機していた駅員さんに申し訳ないながらも、自然とわいてきた痛快な気持ちを、私は今でも忘れません。ホームと電車のあいだに横たわる暗闇が怖くなったとき、社会から浮いてるかもとこそこそしたくなったとき、テレサが車輪をまわすあの、力強くしなやかな手つきを思います。