犬のうんちとわかりあう

第23回

麦茶の輪廻

2025.05.13更新

 小さい頃、家ではごはんのときに冷蔵庫の麦茶を飲んでたなっていうのがあるんですけど、いつのまにか私も家で麦茶をつくるようになりました。麦茶に対しては好きでも嫌いでもなくて、そういう感情よりも、実家でいつもお母さんは麦茶を常備していたな、という郷愁のような思いが先にたちます。だから、実家を出たあとはもう自分の好きな市販のお茶が飲めるんだ、という喜びはかなり大きく、伊右衛門やら生茶やら爽健美茶やらの2Lペットを数日おきに今回は何にしようかなとスーパーで選び放題だったとき、棚の前で小さな自由を謳歌していた自分からしてみれば、麦茶を家でつくるようになったというのはとても不可解な習慣だろうなと思います。

 どうして好きでも嫌いでもない麦茶を常備するようになったのかというと、それはやっぱり、子どもに初めて飲ませるべきお茶は薄めた麦茶だったからで、保育園に持っていく水筒のお茶も当然麦茶だったからで、カフェインゼロということであれば爽健美茶だってカフェインは入ってないんですけど、自分の子どもにだけ爽健美茶を持たせるのは意味のない抵抗すぎて気が引けました。最初のうちは自分たちだけは生茶を買い、子どもには麦茶を、としていましたがお茶2種に気を配るのも億劫で、そのときから、私の中で家で飲むお茶を選ぶ選択肢が狭まっていき、伊藤園の「健康ミネラル麦茶」かサントリーの「やさしい麦茶」の2Lペット二択ということになりました。ただ家族3人、食卓で消費するお茶の量から考えると2Lペットを数日おきに買うのは明らかにコスパが悪く、当然の流れと言えますが私は麦茶を家でつくるようになりました。1L用麦茶のティーバッグは54袋入りで2Lペット1本とほぼ同じ値段ということにやっと気がつき、ペットボトルのゴミも出ないことから複数の家族がいるのであればお茶は作ったほうが良いのかも、という結論に落ち着きました。

 ただ、実家を出てやっと得ることができた「お茶の自由」を手放してしまった悲しみは大きく、その悲しみの中で、私はしばしば麦茶をつくることを忘れました。うちのお母さんも実家の麦茶を常備し始めるときはこういう思いをいだいていたんだろうか、と思いました。でも、調べてみるとペットボトル飲料が台頭してきたのは1990年代頃からだったのでそんなことはないか、とも思いました。お母さんは、私が産まれる前には家でどんなお茶を飲んでいたんだろう、ということを初めて思ってみたりしました。

 保育園から子どもが帰ってきて、晩ご飯のときに「お茶がない!」となり、私はあわてて電気ケトルで湯を沸かし、麦茶のパックを容器にいれます。ただすぐには飲めないので氷で薄めるか、冷めるのを待つかする必要がある......。しかしそこで、一連の私の行動を見ていた夫がスッと500mlペットの「やさしい麦茶」を差し出してきたのです。こんなこともあろうかと予備の麦茶を買っておいた、とのたまいました。私は、そんな夫を瞬間的に非常に憎らしく思いました。ありがとう助かる、とは思いませんでした。なんていうか、軽い考えでペットボトルを買ってこないでほしい、と思いました。私は今「お茶の自由」界から「家の麦茶」界へ移行してる途中でした。だから、本当のやさしさは、夫も私と一緒に「家の麦茶」界にしっかり移行してもらうことだと思いました。日頃から「家の麦茶」界の一員であるという自覚を持って、麦茶をつくることに着手してほしい。麦茶を作り忘れたときは自分の責任でもあるのだと、もっとしっかり焦ってほしい。お茶に対して広い選択肢があった自分へは戻れない悲しみの解決は、「家の麦茶」を生活に定着させることでしかありませんでした。夫が買ってきた500mlペットはかつての自分への架け橋のようで、受け入れてしまうと、背徳の中、「お茶の自由」界にいる自分へ戻っていってしまいそうな気配がありました。

 私は夫を説得し、もう今では冷蔵庫の中に、麦茶をかかすことはありません。3歳の子どもがいつなんどき「おちゃ」と要求してきても「はいお茶ね!」と速攻差し出す準備があります。うちのお茶。冷蔵庫のドアポケットに入った、白い蓋のポットの麦茶。

 子どもは遠からず、この、うちの麦茶のことを好きでも嫌いでもない感情を持ちながら、冷たい目で見るようになるでしょう。どうしていつもうちのお茶は麦茶なのという、うっすらとした不満を抱くでしょう。そして一人の生活を送るようになったとき、世界にはもっとたくさんの市販のお茶があることを知るのです。子どものその喜びの下には選ぶ喜びを失った私の悲しみがあり、さらにその下には(たぶん)私の母の悲しみがあります。母と呼ばれる役割になることで飲み物に限らずいろんな選択肢が狭まること、すべてを悲しみと言い切ることはできませんが、そのひとつひとつをつぶさに記してやりたいなと思います。

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三好 愛

三好 愛
(みよし・あい)

1986年東京都生まれ。 イラストレーター。ことばから着想を得る不思議な世界観のイラストが人気を集め、装画や挿画を数多く担当するほか、クリープハイプや関取花のツアーグッズなども手がける。著書に、エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)、『怪談未満』(柏書房)がある。ミシマ社が刊行する雑誌『ちゃぶ台』8号、9号、10号に「絵と言葉」を寄稿。

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