第1回
ハラミ出かける
2023.07.17更新
今月から、イラストレーターの三好愛さんによるエッセイ連載がはじまります。「自分と、自分以外の人間やものとの距離」を三好さんの視点で、文で、絵で、綴っていただく月に一度の企画です。三好さんには、ミシマ社が半年に一度刊行する雑誌『ちゃぶ台』(8号、9号、10号)にも、エッセイをご寄稿いただきました。ぜひこちらも合わせてお楽しみください。(編集部)
「今日はあついですね」と、お店の人に話しかけられたとき、なんだかいやな予感がしました。
子どもを産んでしばらくたって、保育園のおかげで前みたいにイラストの仕事ができるようになって、でも、母的な役割を一瞬念入りに放棄するため、一人で焼肉を食べにきていたのでした。ほかに、客はいませんでした。もうひとりのお店の人がサーブしてくれたキャベツのサラダみたいなものを食べ終えた私は、ランチセットのハラミ8枚とごはんの組み合わせを真剣に楽しみにしていて、だから死ぬほど人としゃべりたくなくて、しかし、カウンターの中にいるお店の人は客と仲良くなることをモットーにしているみたいで、「今日はあついですね」という一言から、私との会話をはじめようとしていました。
その日は真夏日で、確かにこの店に来るまでは、私もすごくあつかったんです。ただ、今は冷房の効いた店内で快適で、これからあつあつのハラミを頬張ることにすっかり心を奪われていました。私の本音は冷房とお肉にはさまれていて、お店の人には、そうですね、とわずかな同意を絞り出すのが精一杯でした。テンション低め語尾が聞こえないくらい、小さな声での同意です。無愛想な客だと思われてしまうかもしれませんが、これで会話は終わるだろうと、一枚目の肉をじゅうと網にのせると、店主は思わぬ方向から話を膨らませてきました。
「僕ね、以前、熊谷の近くに住んでいたんです。そのときの夏は、もっとあつかったですね。」
焦った私は、二枚目の肉をじゅうと網にのせました。
熊谷、確かにあついだろうな、と思いました。でも、熊谷ではなくてその近くなのか、と思い、この人は社交辞令的な話からなんでわざわざ個人の体験に話を飛ばしてしまったんだ、と思い、この会話はいったいあと何ターン続くんだ、と絶望的な気持ちになって、のせたばかりの肉を何回もひっくり返しました。
ひっくり返しながら、「熊谷の近くなんて、ほんとに、あつそうですね」という同意を行って、肉を引き上げるタイミングがいよいよわからなくなって、肉は、私の手元でどんどん焼かれていきました。
薄い関係性の人との天気の話、同意でしか答えられないからそもそもあんまり好きじゃないんですけど、それにしてもちぐはぐでした。ただ肉を食べたい客と、客としゃべりたいお店の人のちぐはぐ。二人ともきっと、あつさについての話をしたいわけではないのにしている、ちぐはぐ。それをさらに助長していたのが、ハラミだったと思います。
私とお店の人は、「あつい」という単語を繰り返してはいましたが、その場で一番あついのはたぶん、網の上で焼かれているハラミでした。ハラミは、私の手によって焦げるまで焼かれていて、とても、あつそうでした。ハラミがいま網の上を離れ、もし熊谷まで出かけていったら「あ〜涼しいくらいだよ〜」と、言い出しそうだなと思いました。お店の人の話を聞いて、火で焼かれることにくらべたら、熊谷くらい、なんだよ、と思っていそうな可能性がありました。そんなハラミを思うと、お店の人との会話に対して、余計に気がそがれました。
でも、そういう心持ちに私がおちいっているのを、ハラミは知りませんでした。お店の人も、知りませんでした。私だって、ハラミやお店の人が、本当のところはなにを考えているのか全然わかりませんでした。私とお店の人は、あんまり意味のない会話を交わしている二人の人間で、ハラミは、私に焼かれているただの肉でした。
その場には、ハラミも、私も、お店の人も、お互い本当のところは何もわからないまま存在していて、何もわからないのに微妙に関わりあっていました。世界は、人間も人間でないものもないまぜになっていて、なかなかわかりあえることなんてなくて、でも、あえてわかりあおうとする必要もなくて、それでも少しずつ毎日は進んでいくんだ、と真夏の焼肉屋で思いました。