第16回
「学習権」をめぐる対話〜森田真生・瀬戸昌宣
2021.04.29更新
2020年春。新型ウィルスの感染拡大により、全国の学校が一斉休校しました。学びが「不要不急」のように扱われる前代未聞の事態。この状況を前にして、独立研究者として長年「未来の学び」を考えてきた森田真生さんと、実際に未来の教育を実践している瀬戸昌宣さんが、「学校」という枠組みにとらわれない学びの可能性を探るべく、この「学びの未来」プロジェクトはスタートしました。(これまでの歩みの詳細はこちら)
そしてこの1年間、毎週のラジオ、月に1度の座談会で対話を重ねるなかで、学びの未来を拓くためのキーワードとして「学習権」が浮かび上がってきました。本日は3月28日に開催した「学びの未来座談会」より「学習権」、「学校という場が果たすべき働き」についての対話の一部を掲載いたします。
気候変動や新型ウィルスの感染拡大など環境が大きく変化するなか、「学びの未来」に思いを巡らすことで、ひとりでも多くの人が「生きていてもいい」と感じ、いきいきと生きられる世界になることを願って。
来月の5月30日(日)には、学びの未来座談会を開催します。ビジョンと実践がまじりあうこの「学びの未来」の場にひとりでも多くの方にご参加いただけたら嬉しいです。ご縁ありましたらぜひ。(詳細、ご参加はこちら)
(構成:田渕洋二郎)
「頭を使い続ける環境を用意すること」が教育
森田 先日僕の知人がtwitterで、「小5の息子の宿題が多すぎる」とつぶやいていました。実際、クラスの3分の1の生徒が、宿題を終わらせられずに登校している状況で、息子や他の生徒が先生に抗議をしたところ、「そんなことを言うなら宿題をもっと出してやろうか」と脅されたというのです。三島さんのお子さんも、宿題のことで悩んでいて、三島さんが先日先生にお手紙を書かれたということでしたが、その後いかがでしたか?
三島 先生はとってもフレキシブルで「宿題は無理矢理しなくていいんだよ」と言ってくださったんです。それを聞いて、本人はいきいきとしはじめましたね。だから「宿題をやらなければいけない」というのが、とてもストレスになっていたのだなとすごくよくわかりました。特に日記を書くことがすごい嫌だったみたいなんですけど、先生からそのひとことをもらった翌週には、ちょっと書いてみたい、とも言っていて。家での表情も変わりましたね。
森田 なるほど。先生に問題提起をして、先生がそれに応えてくれて、息子さんの気持ちにも変化が起こり始めているというのは、とても前向きな話ですね。
一方で、先の息子さんの場合は、先生に対話を拒絶されてしまったということでした。瀬戸さんはこの「学びの未来 座談会」のなかで「学びの環境を子どもたちが選べる権利を、社会としてちゃんと保障しないといけない」とよくおっしゃっています。
先生に「この宿題の量はおかしいと思う」と言っても、対話にすら乗ってくれない場合、子どもの選択肢がただ「服従する」か、あるいは「不登校になる」か、という極端な二択しかないとすれば、子どもの立場があまりにも不利ですよね。「先生の言うことに納得できない。対話に応じてくれないのであれば、私はこれ以上ここで学び続けることはできない」と、子どもが主体的に選択できるためには、学校外に他の学びの選択肢がないといけないはずです。
こうした状況を考えていくにあたって、座談会を重ねる上で瀬戸さんが何度か出している「学習権」という概念が、一つ大事なキーワードなると思うんですね。2020年7月31日に開催した「学びの未来 座談会第3弾」の対話のなかで瀬戸さんは、
「頭を使い続ける環境を用意すること」が教育。
と非常に明確に「教育」を規定していらっしゃいました。
教育が「子どもがどういう選択をしたとしても、その子が頭を使い続けられるような環境を用意すること」だとしたら、学校があるというだけではこの条件は満たされません。学校の先生かどうかにかかわらず、社会全体が関与しながら、子どもたちが頭を使い続けられる環境をみんなで作っていかなければならない、ということになる。
たとえば三島さんの息子さんが学校に行かない、となったときに、i.Dareのような場所が京都にもあったり、あるいは、僕がどれだけ原稿が忙しくても、月曜日の午前中、学区の子たちは鹿谷庵に来てもいいですよ、とすることができたら、これは一つの学びの受け皿になる。そうやってみんなが少しずつでも子どもたちの居場所を作っていくことを学校の外でやっていかないことには、瀬戸さんが言っている「教育」の機会を社会として保障することにはならないでしょう。
「学校」という特別な箱がひとつだけあって、そこだけで教育が行われている 、ということになると、子どもたちが、「この箱の外に出る」という選択をした瞬間に、教育の機会を失ってしまう可能性が出てくる。だから、瀬戸さんの「教育」概念を真面目に受け取るとすると、僕たちはこの社会のあり方を根本から見直さなきゃいけないし、子どもが学ぶことを保証することに対して、いまよりもずっと真剣になっていかないといけないことになるはずですね。
瀬戸さんは、「学びの未来 座談会第2弾」で、次のように語っています。
文科省は不登校の子は学校に戻らなくてもいいという通知を出しています。でも、教育基本法、学校教育法などの法律や学校教育のガイドラインである学習指導要領では、「学校に行かなくてもいい」とは定められていません。学校は、本来は学習権によって「選択できるもの」であるべきです。憲法は、学校と学校外の多様な学びをひっくるめて「普通教育」と言っているのに、明瞭な法制度を伴っていない状態です。いまの学校は、共通のゴールがないはずの「教育」を全員に単一的なかたちで強いています。
ここで瀬戸さんはとても大事なことを言っていると思います。座談会の他の場面でも、「学習権」というものが、明確な定義がないまま使われていることの問題を瀬戸さんは何度も指摘されていますが、あらためて瀬戸さんの考える「学習権」とは何か、じっくり聞かせてもらってもいいですか?
瀬戸 僕は、この学習権については、憲法の言葉通りになっていればいい、というのが基本的な考え方ですね。憲法の「普通教育」というのはどういう意味かというと、「全国民共通の一般的基礎」なおかつ「国民全員が生きていく上で必要とする知識」のことです。それは職業的なもの、専門的なものではない教育のこと。日本国民として生きていくためのマインドセット的なもので、「憲法をちゃんと知っているか」とか、「学習権について知っている」とかです。このように、自分が日本国民としてどういう権利が付与されているのかを知っている状態にするのが普通教育です。
日本ではこれを施す義務を、僕らは社会人として負っていて、大人は「教育をする義務」があって、子どもたちは「学習をする権利」があるという構造になっている。
でも、それは非常に緩い関係性で、僕らは日本国民としての基礎知識を義務として施さなきゃいけないんだけど、受け取る子どもたちが「べつにいらないんで」と言ってきた場合には、この子たちは学ばなくてもいいということになる。
実は、今の日本の逆をやっているのが、オランダなんですよ。
「学習権」を拡張する
瀬戸 オランダは「教育の自由」がある一方で、子どもたちは「学校に行く義務」があります。ただ教育の自由を徹底的に守っているので、学校では何を教えてもいいし、公的に認定された教科書はない。宗教色や理念も押し出して大丈夫なので、ある種カルト化しやすい状態でもあるんです。
私が学びたいのはこういうことなんだけれども施してくれる学校がない、でも義務なので学校には行かねばならない。「じゃあ学校をつくろう」ということができるのがオランダなんですね。200人子どもを集めて、どういう理念でどういうプログラムをやるかということを政府に提出すれば、学校として認められる。そうすると、公立私立分け隔てなく、人数辺りのお金が国から必ず降りてくる。
森田 面白いですね。いまのお話しだと、日本のやり方には構造的なバグを抱えているようにも感じます。大人はとにかく普通教育を施す義務があるから、とりあえず子どもに「教育」を施さなければならない。だけど、子どもたちはあくまで学習する「権利」を保持しているだけなので、学校のやり方が気に入らなければ、学習しないことを選択することによって、学びから逃避することができる。結果として、教育は施されているのに、学びは起きない、という「バグ」が、いまの制度のもとでは起こり得てしまう。しかし、オランダではむしろ、「学ぶこと」を「義務」にして、「教育の自由」を「権利」にしている、と。
瀬戸 オランダにはいろんな学校があって、最も有名で、花が開いたのがドイツから入ってきたイエナプランですね。これが面白いのは、学習権をどんどん保証していって、とにかく選択肢を増やしていくんですよ。
また「教育の自由」のもとでは偏りすぎたことを教わっちゃう可能性があるわけですよね。だから保護者もすごいコミットしないといけない。いわばさっきの「頭を使い続けないといけない」状態に必然的に保護者も追い込まれるわけです。結果的に、学校の先生と常にコミュニケーションを取っているような状態にならないと子どもの学びは成立しないことになる。これは社会が凄いスピードで変革していくときにとても重要なわけですよ。
実は、今の日本のシステムでも、学習権をどんどん保証していけば、同じような形になるはずなんです。憲法を書き換えるのは大変なことなので、今の憲法は活かしつつ、「言葉で宣言している通り、ちゃんと学習する権利を付与しましょう」というのが、僕がこの5年間一貫して言っていることですね。
森田 オランダの話を最初に聞いたとき、「学ぶ義務」と「教育の自由」だと、誰も教育しなくなったら学ぶ義務はどうなってしまうのか、と疑問に感じたのですが、そうなったときには「学校を作る」ということですね。
日本のやり方とオランダのやり方では、学校というものの起源について、別のヴィジョンを提示しているようにも感じます。つまり、教育を与える側が学校を作るのか、それとも、学ばなければならない側が学校を立ち上げるのか。
瀬戸 まさにその通りです。
オランダは、原則200人子どもを集められなかったら、学校として成り立たなくなるんですね。だから教員としての仕事をしていくためには、その子たちの発達と発育に対して、先生たちも当然知識や技能をアップデートしていかないといけない。
そこで緩やかな競争原理が働くというか、教育を放棄できない状態にうまいことなってるんですよね。もちろんパーフェクトなシステムは当然ないので、オランダの教育にも問題点はある。それこそ、とんでもないことを教えていても「でもその学校を選んだのはあなたですよね」と、政府は絶対に助けてくれないんです。「教育の自由」には介入しないように出来ている。
森田 ちなみに、オランダで「学ぶ義務」を果たしてないと判断されるのは、どのようなときなんですか?
瀬戸 学校に個人的な理由で通学していないときです。学校への登録(所属)も、通学も義務です。体調不良や入院などの国から認められる理由がなく、個人的な理由で学校に数日行かないだけでも、罰金の対象になります。学校を休むのがかなり大変なんです。制度なので、どこかに締め付けは当然あります。
森田 すごく面白いですね。
ここであらためて「学習権」について考えてみたいのですが、冒頭の話に戻ると、小学校5年生の少年が、宿題が多すぎると先生に提起したにもかかわらず、対話に応答してもらえない状況というのは、瀬戸さんの理解に照らすと「学習権」が保証されていると言えるのでしょうか? 学校にはちゃんと行けていて、授業も受けているわけですが...。
瀬戸 その状態では学習権は保証されていないですね。「宿題をするしないを選ぶ権利」も学習権ですから。
森田 なるほど。瀬戸さんの考える学習権というのは、「自分で何を学ぶかを選択できる」ということまで含む概念なんですよね。
瀬戸 そうですね。
森田 これは重要なポイントですね。一般に、「学校に行けているんだから学習権は満たされているでしょ」と考えている人も少なくないと思う。
瀬戸 そうなんですよ。「学習権の定義はないのか?」と教育学者にも聞きましたけど、一人には鼻で笑われてしまいました。「そんな解釈なんて人と場所によって違うに決まってる」と。
でも、そんなに違っていいはずがないんですよ。解釈がそこまで変わるようなものだとしたら、社会でそれを保障することができるはずないですから。だから学習権の保持者である子どもたちは、自らの権利が保証されているのかどうかをその都度確認する必要があります。
例えば専門の先生が足りない教科だと、高校ですら、生物の先生が物理と化学と生物を全部教えているというようなことが、小規模な自治体では珍しい話ではありません。その状態って、いろんなレベルで学習権が保障されてないんですね。
そのような状況の中で先生方もどうにか教えてらっしゃいますが、やはり専門外を正確に教えるのはむずかしいこともあります。定期考査の時とかに、子どもたちがノートを持ってきて「分かんないんだけど」って相談されたときに見てみると、残念ながら板書や解説に小さな間違いがあったりします。学びたいものを十分に学べる環境にない。「学習権」が保障されてないんですね。
これに限らず、日本の英語教員で英語を喋れる人は非常に少なく、もうその時点で英語の学習権がないと言ってもいい。そういうときに、森田君や僕みたいな英語話者が教えることが選択肢としてあったら、子どもたちの学習権はより保障されるわけです。でも「教員免許持ってない人は教壇には立てません」と、そのような機会は制度に拒絶される。学校制度は学校の中での学習権さえ満たしていないにも関わらず、自らの領分を守るために学ぶ権利を否定しているところがあるんですよね。
「学びたいことを学びたいように学ぶ」という状態を達成するためにはどうすればいいかというところからスタートしなければいけない。だから学校教育では一定のクオリティコントロールをしなきゃいけないんです。学校教育は公教育の一部なので、国民からの税金を使って「良い教育」を保証しますと宣言して、年間何兆円もの予算が使われています。小学校から高校までの間で、児童・生徒一人当たりに毎年100万円の税金が使われています。学校での学習権が保証されていればまだしもですが、学びたいことを学びたいように学べない子どもたちからしたら、毎年自分に自動的に付与されている100万円の使い道を考えたくもなると思います。
いま、「教育改革」としてさまざまな取り組みがなされています。「教員の数を増やしましょう」「教員が尊敬される社会にしましょう」「何を教えるか」「どう教えるか」「大学入試改革」など教育する側の立場からの話が多いのですが、それをすることで子供たちが「学びたいように学べる」環境に近づくのかという観点を忘れてはいけないと思います。
森田 この「学習権」を瀬戸さんが言っているくらい大胆に広げていくと、オランダよりも子どもたちの学びの可能性がかえって広がる可能性もありますよね。オランダは「学ぶ義務」があって「教育の自由」があるから、大人が用意した選択肢が多様になっていく傾向があるけれど、そもそも大人が用意した選択肢のなかに、子どもたちが望んだ選択肢がない、という可能性もある。
一方で、子どもたちが「こういうことを学びたい、こういう仕方で学びたい」と言ったときに、社会は常にこれに応えなければいけないと瀬戸さんは言っていて、これはかなりラディカルな主張だと思うのですが、僕は心から賛同します。「こういうことを学びたい」と選択する権利を社会として子どもたちに本当に授けようとしたら、社会としてもっともっと投資していく必要があるでしょう。
瀬戸 その通りですね。「教育の義務」を社会に課して、「学習権」を子どもたちに付与したという日本のやり方には、森田くんの言うように一方で可能性も感じてるんです。日本の場合、学校という一定のクオリティコントロールされてるものが社会の中に存在しているので、自分で作った学習プログラムが崩壊したときに、学校に逃げ込めるんですよ。どんな状況にある子どもにとっても学校がセーフティネットになれる可能性があるというのがポイントです。
先生がすべきことは「生の肯定」
森田 そう考えると、やはりポイントは学習権の概念を広げつつ、「普通教育」が最低限何を目指すものなのかをはっきりさせることだと思うんですけど、それに関して、哲学者の永井均さんが『これがニーチェだ』という本に書いている言葉を紹介したいと思います。
子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。(『これがニーチェだ』p.23より)
生きていくために最低限必要なことって、これじゃないかと思うんですよね。「生きていていい」、「生きていたい」と思うこと。「自己の生が根源において肯定されるべきものである」と感じられること。これは論証できるようなことではないので、体で覚えこむしかない。すべての子どもたちがこういう感覚をもてるようにする義務を僕たちは負っているのではないでしょうか。
学校という場が果たすべき最低限の働きがあるとすれば、ここじゃないかなと思うんです。義務教育を受けて、「自分は生きていたい」しかも「自分は生きていてもいい」と思えたら、それでひとまずは成功と言っていいのではないか。
瀬戸 それを学校が担えたら、子どもたちのセーフティネットとして十分ではないでしょうか。教育を通して知識を伝え、技術を教えることも重要ですが、「あなたはあなたのままでいい」と人の尊厳をまずは守ることが社会のシステムの根底にあって欲しい。そういう思いから僕は社会には保育という教育よりも大きな観点が必要だと主張しています。保育というのは教育+養護です。養護とはまさしく「自分は生きていたい、自分は生きていてもいい」と感じる環境を整えることです。「保育」を最大化するには教育だけ大きくなってもダメで、教育と養護のバランスが重要です。
そのような社会をつくるには、現状、日本は失敗していると思います。国際的にみて日本の子どもたちは圧倒的に自己肯定感が低いんです。国立青少年教育振興機構の調べだと、日本の高校生の約8割が「自分はダメな人間」だと思っている。衝撃的な話です。
だから、i.Dareでは自尊感情の醸成を大切にしています。「子どもの自己肯定感をあげなければ」とは学校教育の課題としても言われているものの、自尊感情の醸成よりも教科学習に重きを置くアプローチが結局はとられています。それは世界が「マインドフル」や「ウェルビーイング」の思考が強いからではないかと思います。これらは「何かをすることによって辿り着くもの」なんですよね。でも自尊感情が上がるのは「何もしなくてもいい」と認められたとき。さっきのあの永井さんの言葉と非常に似てるんだけど、何もしなくても私は私だっていうことを受け入れられたときに自尊感情が醸成される。ところが、いまの「ウェルビーイング」「マインドフルネス」市場では、何もしないとお金にならないので無視されてしまうんです。
一方「ありのままで、自分のままでいなければならない」と苦しんでる人たちもたくさんいる。だから僕は「あなたの尊厳を守ります」とi.Dareではまず宣言するんです。宣言をしたから、あなたは何もしなくてもいいし、何かをしてもよくなる。
森田 冒頭の三島さんのお子さんの「宿題をしなくてよくなった」という話も、結果というよりは「自分の声を聞いてもらえた」ということが大事ですよね。僕の知人の息子さんの例でも、宿題が増えるか減るかという結果そのものより、違和感を感じた生徒が、先生に語りかけたのに拒絶されたという事実が重い。
語りかけた言葉が届くという経験が、さっきの永井さんの言葉でいう「自己の生が根源において肯定される」感覚を育むんだと思います。
瀬戸さんがいつもしているように、子どもたちが自分で考えて導き出した結論を尊重したり、ちゃんと耳を澄ましたり、そういうことをいつもしてもらえていると思える環境があれば、その子は自分が肯定されているという言葉にならない感覚を体得していくことができる。
瀬戸 森田くんが、「responsibility」という言葉のなかの「応答」ということを重要にしてることと、深く関わってくると思う。自分ではない何かのアクションに対して僕らが応答をすること。石のような無生物との対話だったら、例えば触るという応答がある。人との対話だったら、聴く、見る、頷くなどの応答をすることで関係が成り立つ。「ただそこにある」という他者の全身全霊のアクションに対してなんらかのかたちで応答する。そのくらいただ存在していることに対してまずは応答すれば良いのだと思う。
そして、自分自身も他者も変化し続けることを応答を通して実感し続けるとよいと思います。「持続可能性(サステイナビリティ)」という言葉が僕にはどうもしっくりきません。それは、生態系(エコシステム)と向き合っていると、もう次の瞬間には別のものに変わっているからなんです。生態系は大きな流れで見ると持続可能なはずがない。生態系での植生や動物の多様性は、人間が介入しなくても、ずっと変わり続けている。何かを持続させるという考え方自体が非常におこがましいんです。自身も他者も変化しているという事実に向き合っていない。変化に対して応答しながら僕らも変わっていくという「応答的可変性」こそが、自分ではない何かとともに生きていくresponsibilityでもあるんだよな、と思っています。関係構築の第一歩は「応答すること」なんですよね。
森田 この座談会でも、瀬戸さんがしゃべっているときだけでなく、たとえばただ頷くだけのときでも、「聞き方」それ自体が表現になっていると感じることがあります。子どもたちの前の瀬戸さんて、まさにそういう形でいろいろなことを伝えているんですよね。語るわけじゃなくても、子どもたちにじっと耳を澄ませる姿そのものが、彼らへの「応答」として、しっかり伝わっているのだと思います。
森田真生(もりた・まさお)
1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。全国で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」「数学ブックトーク」など、数学をテーマにしたライブ活動を行っている。2015年10月、デビュー作『数学する身体』(新潮社)で第15回小林秀雄賞を受賞。2016年に『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)、編著として数学者・岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)、2018年10月に絵本『アリになった数学者』(絵・脇阪克二/福音館書店)、2019年3月に初の随筆集『数学の贈り物』(ミシマ社)を刊行。2019年11月より、WEBマガジン「みんなのミシマガジン」にて、新連載「聴(ゆる)し合う神々」がスタート。2021年4月に『計算する生命』(新潮社)を刊行。
瀬戸昌宣(せと・まさのり)
1980年東京生まれ。農学博士(農業昆虫学)。米国コーネル大学にて博士号を取得後、同大学で博士研究員として研究と教育に従事。通算13年の米国生活を経て、2016年から土佐町役場に勤務し地域の教育に参加。2017年にNPO法人SOMAを設立し、4000人の町で全世代への教育を展開。林業を教育素材として総合的な学習に取り組める杣の学び舎の設立や、町内外誰でもが分け隔てなく「居る」ことができるprivate public space (私的公共空間)「あこ」など、環境を整える事業を展開する。高知県の起業支援事業 Kochi Startup Parkのコーディネーターとしてアントレプレナーシップ教育にも取り組む。2021年4月より、活動の拠点を福岡県福津市に移す。
編集部からのお知らせ
森田真生さんと瀬戸昌宣さんとともに思考し、実践する、週刊「学びの未来」(週1回)と「学びの未来 座談会」(月1回)。2021年5月の開催日程が決まりました! ご参加お待ちしております。