自分の地図をかきなおせ

第21回

顔面の住人について

2021.10.11更新

 花粉のせいか、黄砂のせいか、季節の変わり目で気温が安定しないせいか、あるいは単に疲れているからなのかわからないのだけど、鼻の調子が悪い。時間帯や体調によるが、一日に三回くらい鼻水とくしゃみが止まらないスペシャルな時間が訪れる。僕は昔から鼻が弱い。長年悩まされている。それどころか、かつて僕はこの鼻を憎んでいた。この鼻さえ・・・この鼻さえ頑丈なら、集中力を損なわずに長い時間書き物に専念できたり、絵を描くときも一分に一度鼻をかんだりしなくて済むのにと、そう思っていた。

 この相棒はめちゃくちゃ病弱で、僕が強固な意思で物事に臨んでいるときも、それとは無関係にくしゃみをして僕を邪魔してくる。最も酷いときの傍若無人ぶりは、本当に自分の鼻なのかと疑ってしまうほどだ。顔の真ん中に他人が家を建てて住んでいるかのように、鼻水をどんどん垂らしてくる。しかし僕はこの鼻と三十三年間を共に過ごしてきた。僕は大してものを知らないし、スゴい文章も書けないし、年収はたぶん平均の半分以下だし、そのくせ酒も煙草もやめられない化石のような人間で、浮き沈みの激しいどうしようもないポンコツだが、この鼻に関してだけは世界的な第一人者であると言っていい。そして僕は今までもこれからも、病める時も健やかなる時も、幸せな時も困難な時も、中学校の体育館でクラス全員の前で放屁した時も、フラれた腹いせに酒を飲みすぎて駅のトイレで吐いたまま死にそうになった時も、死が二人を分かつまで共に生きていく。共に生きていかなくてはいけない。なぜなら自分の鼻だから。

 厄介な相手ではあるが、それでも長年連れ添っているうちに僕は彼をすこしずつ理解できるようになってきた。最近はむしろ、この弱さは彼の長所なのではないかと思えてきた。ちょっと付き合っただけでは到底わからないのだが、彼はある種の役割を果たしてくれているのだ。それはセンサー機能である。彼は体のどの部位よりも真っ先に、僕の体調の変化に反応する。寝不足だったり、疲れていたり、ビタミンAが足りなかったり、ビタミンBが足りなかったり、ビタミンDが足りなかったり、思い通りのものが書けずにいらいらしていたり、抱えている作業がキャパシティを超えたときなどに、水を垂らすことで僕に知らせてくれる。恐るべきことに、最近便秘気味ですよと教えてくれることもある。鼻と腸の相関関係が科学的にどの程度解明されているのかは分からないけれど、これは事実だ。僕は自分が疲れていること、栄養が足りていないことを、彼が垂らす水を通して自覚する。床に落ちた水の跡で家の雨漏りを知るのと同じように。

 それは非常に迅速な反応なので、僕は本格的に体調が悪くなる前に先手を打つことができる。早く寝る、酒を飲むのをやめる、人との約束を先送りにするなどの対応ができる。しかも最新の私的な研究によると、僕の体の不調具合によって、彼は微妙に症状の出し方を変えている。疲れて体の免疫力が少し下がっている程度のとき、彼はそれとなく鼻水を垂らす。自分でも垂れていることに気がつかないくらい、さりげなく。これ以上頑張ると取り返しのつかないことになるぞ!というくらい体が弱っているとき、彼は僕に向かって作業の中断を命令するかのようにくしゃみを連発させる。容赦ない連発だ。時間にして五秒に一度くらいの頻度で、二十発も三十発も繰り出される。そうなると僕はなにもできなくなり、布団で横にならざるを得ない。僕が横になれば、彼はすぐにくしゃみを止める。嘘みたいにぴったり止まる。その変わりようには毎度驚かされる。

 こんな具合で、最初はただの気分屋だと思っていた自分の鼻が、実は炭鉱のカナリアのような存在だったことが分かってきた。ただし、これが厄介なのだけど、体調に関わらず鼻水が出ることがある。ずっと原因がわからなかったのだけど、一昨年初めて受診した耳鼻咽喉科の検査によって、花粉によるアレルギー反応であることがわかった。医者に西洋医学的な薬を飲めば改善すると言われた。初めはそれを飲んでいた。でもそうすると鼻のセンサーが働かなくなってしまうことがわかった。それはまるで、彼にドラッグを与えて感覚を麻痺させているかのようで、僕は申し訳なく思った。彼がトリップしてしまうと、僕は体調の変化に鈍くなってしまう。なので本当に辛い時だけ飲むようにしている。この良い塩梅を未だに見つけられずにいる。

 僕はこれからも、この繊細な相棒との良い関係を探っていきたい。と、ここまで書いてから気がついたのだけど、さっきから鼻水が出ていない。自分のことを書いてくれているから大人しくしているのかもしれない。人間の体は不思議だ。

村上 慧

村上 慧
(むらかみ・さとし)

1988年生まれ。2011年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。2014年より自作した発泡スチロール製の家に住む「移住を生活する」プロジェクトを始める。著書に『家をせおって歩く』(福音館書店/2019年)、『家をせおって歩いた』(夕書房/2017年)などがある。

satoshimurakami

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