「ない」ようで「ある」

第11回

人との和、輪、ワニ、を感じた月

2019.10.26更新

オペラ『白壁の街』

 2019年10月は、人との和、輪、ワニ、を感じた月でした。

 月の前半、印象的だったのは、オペラ『白壁の街』です。いきなりオペラなんて言われたら少し驚きますよね。僕も驚きました。9月に、敬愛する竹鶴酒造の石川達也杜氏から連絡を頂き、広島県西条で毎年行われる「酒まつり」の中で、このオペラが行われることを知りました。まだ全然意味は分からないと思います。むしろ、酒のまつりでなぜオペラを? という新たな疑問が生まれるかもしれません。実はこのオペラ、いくつもの酒蔵が存在する酒都、西条ならではの、酒造りをテーマにしたオペラなのです。江戸時代に完成した酒造りである「生酛造り」が行われる過程を、オペラで表現しています。まぁ、これで納得いくかというと、それにしてもなぜオペラなんだ、と言いたくなるかもしれませんが、この作品がさらに凄いのは、この酒造りのオペラが、酒を飲めない西条小学校の6年生全員によって演じられるというところです。

 石川達也杜氏は、微生物の存在さえ知られていなかった、つまり発酵という現象なんて想像すらされていなかった江戸時代に生酛造りを完成させた先人に思いを馳せ、自ら生酛造りを深め、その伝統を後世に伝えることを信条としています。その心を伝えるために、公演を1ヶ月前に控えた9月、『白壁の街』のキャストである西条小学校の6年生に話をしに行かれたそうです。それを聞いた僕としては、興味が膨らんで膨らんで仕方ありません。上演日を調べると、ちょうど病院も非番の日。これは行くしかあるまい、とすぐに飛行機の予約をしました。

 オペラ『白壁の街』の素晴らしさは期待していた以上でした。舞台の前に並ぶ演奏隊の木琴、グロッケン、アコーディオン、シンセサイザー、大太鼓、小太鼓などを見るだけで、小学生の頃を思い出して心が揺さぶられました。やがて開演して現れたのは、「酒」という法被を着た小学生たち。なんだか、酒を醸す小さな微生物たちのように見えてきて、かわいらしくて仕方ありません。でもオペラが始まってみると、演奏も歌も小学生とは思えないほど精度が高い。演奏隊は、観客席の真ん中で指揮をする凛とした女子指揮者を見つめながら、複雑なアンサンブルを奏でます。突然コードや曲の速さが変わるプログレッシブな展開の曲もあって、よくこんなにまとまって演奏できるなぁと感心しました。その演奏に合わせて、舞台上のキャストは歌い、踊ります。これがまた、ミュージカルのトレーニングを受けているのではないかというほど全体的にレベルが高い。特に、オーディションを勝ち抜いて選ばれたらしい杜氏役の男女2人は本当に伸びやかで強い歌声でした。

 終演後、舞台裏に行って校長先生や音楽の先生、そして石川杜氏が小学生にコメントをするのを見学しました。酒ゴジラとも言われる大きな石川杜氏の話を、目をキラキラさせながら聞く、「酒」法被を着た小さい人たち100人以上。酒まつりの始まりにこのオペラ『白壁の街』を観たからか、この日の酔いはとても心地よいものでした。

 石川杜氏に、小学生たちへどんな話をされたのか聞きました。キーワードは「和醸良酒」。和と祈りをもって、良い酒を醸すということを表現する、石川杜氏の言葉です。発酵という現象によって、酒を実際に醸すのは微生物です。杜氏や蔵人など酒造りに関わる人間は、微生物がより良く働くように環境を整えるということしかできません。つまり、酒造りの主役は微生物で、人間は整え役ということです。整え役である人間は、「自分はこうしたい」という我ではなく、自分を殺して、皆で微生物の環境づくりをすることを考えながら働きます。人間は和で環境をつくり、あとは微生物の働きを祈る気持ちで酒造りをするという話です。

 これを聞いて僕は、自分の携わる精神医療を連想しました。僕が常に意識しているのは、精神医療において主役は患者さんであるということです。医療者、支援者は、自分がこう思う、というのを押し付けるべきではなく、患者さんがこうしたいという思いがジワジワと形成されるのに伴走し、必要な時には環境を整えるという役割です。

 オペラを観に行って、自分の仕事の信念を連想することになるとは思いませんでしたが、それは恐らく、石川杜氏の話を聞いた小学生たちが、「和醸良酒」の精神で演じていたからだと思います。実際、終演後に酒まつりでお会いした、『白壁の街』の指導をされた音楽の先生によると、石川杜氏の話を聞くまではただ演奏をしているという印象だった小学生たちが、石川杜氏の話を聞いた後は「和をもってオペラを完成させる」という祈りを感じさせるパフォーマンスになったということでした。その音楽の先生は、着物を着て、竹の盃を持って酒まつりを堪能される、とても素敵な方でした。

輪になって、ワニ持って

 酒まつりの翌週、僕は岐阜県高山の就労継続支援B型事業所「ひるねこ」が主催するお話会に招かれていました。就労継続支援事業所とは、一般的な就労が現状は難しい人が、色々な作業をすることで生活の糧を稼いだり、居場所とすることを目的に通所する事業所です。A型とB型は、作業の種類や通所のペースが異なり、B型はA型よりもゆったりと通うことができます。

 僕は、このような福祉事業所がとても大切な場所だと考えています。ただ、今年の春にこのお話会のお誘いメールを頂いた時には、なぜ高山の事業所からお誘い頂いたのか全く分かりませんでした。でも、メールをやり取りしている中で、なんとなくとても感性が合うような気がして、それだけを理由に参加することにしました。こういう場合の、「ない」ようで「ある」確信に従って行動した時の選択で後悔したことはあまりないので、当日がとても楽しみでした。

 当日、かなり朝早くに新幹線に乗り、まずは名古屋へ。そこから、「ワイドビューひだ」という特急に乗り継ぎました。この特急がとても素晴らしく、ワイドビューというだけに窓がとても大きいのです。その窓から見える山や渓谷。特に木曽川が流れているのを見られたのは静かな絶景でした。民家がポツポツと見える風景もなんだか素敵で、初めて踏み入れた飛騨の地と自分の相性の良さを感じました。

 高山駅に着いて「ひるねこ」の方々と合流し、会場である真蓮寺に着きました。この寺がまた、心の重さが緩まるような感覚が得られる場所で、打ち合わせをしているだけで気持ちが軽くなりました。お話会の最後を歌の時間にしたいという「ひるねこ」さん達の意見を聞いてギターを持参していた僕は、なんだか気持ち良くなって、歌ったり弾いたりしながら会の開始を待ちました。

 この会は、事前に「ひるねこ」のスタッフさん達の中で話してみたいキーワードを付箋に書き、貼り集めた写真がチラシになっていました。そのチラシでは、「集団が苦手」「家にいますけど何か?」「才能の持ってきどころがわからない」「情報がありすぎて追いつかん」「忙しいってえらいの?」「幻聴ってどうなってるの?」「分かってもらえないなぁ」など、たくさんの、深く頷きたくなるつぶやきが付箋に書かれていました。

 会では、本堂にテーブルを4つ置いて、それぞれのテーブルのテーマを「コミュニケーション」「生きづらさ」「ジェンダー」「普通ってなに?」の4つに設定して、参加者はいつでもどこでも移動して、話したいことを話したり、それを聞いたりする時間から始まりました。4つのテーマは「ひるねこ」のスタッフさんが先ほどの無数の付箋から導き出したものたちでした。

 参加者がわらわらと本堂に入ってきて会が開始。それぞれのテーブルにファシリテーターがいるものの、はじめはなかなか話が出てきません。でも徐々に場に慣れてくるとそれぞれの場が盛り上がり始めます。なんだか、場が発酵しているみたいだなぁと思いながら、話の輪に入ったり、眺めたりしていました。次第に、「ジェンダー」の輪だったはずなのに気づけば「普通」についての話になっていたり、「普通ってなに?」の輪だったはずなのに「生きづらさ」の話になっていたり、仕組まれたわけではないのにそれぞれのテーマが自然に入れ替わるような現象が生まれました。それをみて、この会には全てのテーブルに通底する「孤独」とか「少数」などの、「ない」ようで「ある」テーマが存在するのだろうと思いました。これはきっと、就労継続支援B型事業所である「ひるねこ」さんが日々向き合っているテーマなのです。「ひるねこ」のスタッフさんは、皆さんが、ご家族に難しい精神疾患を抱える方がいらっしゃるという共通点があるそうで、それもこの通底したテーマに無関係ではなさそうでした。

 会は進み、4つのテーブルでの話がかなり盛り上がったところで次の段階。全員で輪になって、感想や思いついたことを言い合う時間です。僕は一応ゲストとして、きっかけになる話や、会に参加して思ったことをしばらく話しました。その後、話をする人がトーキングオブジェクトを持って話をしていくというスタイルになったのですが、トーキングオブジェクトとして、たまたま音楽の時間のために誰かが持ってきたワニの形のギロという打楽器が採用されました。ギロは、ギザギザを棒で撫でて音を鳴らす打楽器で、ワニのギロでは背びれのギザギザを撫でる仕組みになっていました。全く狙ったわけではありませんが、「輪になって、ワニ持って」、頭に浮かんだことを話して回る形になりました。あのワニのギロ、すごく欲しくなりました。この「輪にワニタイム」はとても素敵な時間で、色々な年齢層の人たちが、自分が大切だと思うことに会で気づいたとか、その気づきをこれから生かしたいとか、星野の「概念」は本名なのか、とか、色々な声でその輪は満たされました。高山という良い土地、真蓮寺の本堂という良い場所、という環境で、「ひるねこ」さんの感性が、「ない」ようで「ある」とても幸せでゆるい絆を紡いだように思えました。

 そして最後は音楽の時間。ワニギロの希望者はすぐに見つかりました。他にも色々な打楽器やアンデスという鍵盤楽器、マンドリンなどを思い思いに手にして演奏するのは、僕のオリジナル曲である「平熱大陸」。色々あるけど、人生の大半は情熱大陸ではなくて平熱大陸だから楽に生きたいものだなぁ、という自分のつぶやきを歌にした曲です。もちろん誰も知らないその曲ですが、なぜか打楽器を持った人たちによるリズムは曲ととても合い、マンドリンやアンデスの音は、曲のキーに合っていても時々外れても、絶妙なハーモニーを生み出しました。あの演奏はきっと、先ほどの「ない」ようで「ある」ゆるい絆が紡ぎだしたものです。

 オペラ『白壁の街』と「和醸良酒」の話も、「ひるねこ」さんのお話会が紡いだ最後の演奏も、自分に支えを与えてくれるような体験でした。自分が心に関わる仕事をしつつ、なんだかなんだ言いながら音楽を続けているということが、とても豊かなことのように思えたのです。「ひるねこ」さんが僕を招いてくれた1番最初のメールには、「著書やコラムを読んで依頼しました」と書いてあったのですが、打ち上げで聞いた真実は、メールの時点では著書もコラムも読んでおらず、「ミュージシャン、精神科」で検索したら出てきて、ピンときただけ、ということでした。これも嬉しい話で、色々な寄り道をしながら全然人生が前に進んでいない気がする自分に「それでいいのだ」と言ってくれているような気になりました。心や精神に向きあうことと音楽。この、自分の人生でインパクトの大きい2つの仕事の関連は今のところ「ない」ようで「ある」ような感じですが、その曖昧な関連性を、曖昧なまま大切にしていきたいです。

 最後に今回の写真について説明しておきます。『白壁の街』を演じた小学生たちが石川杜氏に宛てた手紙を見せてもらいました。全て読ませて頂いたのですが、小学生たちが「和醸良酒を意識してやります。自分は舞台には上がらないリコーダーですが全うします」とか「祈りという話を聞いて感動しました」とか胸が熱くなるような文章を書き連ねていました。その中で、酒や醗酵という字の「酉」は壺のようなものを意味しているのを知ったのも初めてだった、と書いている人がいて、白川静みたいなことを小学生が文章にしている! と驚いたのですが、その人がきっと気持ちが先走りすぎて、漢字を新しく造っているのを目撃して僕は感激しました。その新しい漢字は、まさに人と酒との関係を表すような漢字だったのです。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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