「ない」ようで「ある」

第32回

やっぱり、ないようであるかもしれない、に自分は導かれて(後編)

2022.06.05更新

 

大切だと思った3つのこと(つづき)

 3日半アーナーパーナ瞑想をして、4日目の夕方、ついにヴィパッサナー瞑想の指導が始まります。2時間ほど方法の説明を受けて、さて実践だとホールで全員で座り始めてすぐ、「今から1時間は体勢を変えない固い決意をしなさい」というニュアンスのことを言われました。指導は、ゴエンカ師という指導者の語りの録音を流して行われるので、こちらがまだ決意できていなくても「今、あなたは決意しました」と、音声は進んでいってしまいました。それまでもなるべく足を組み替えたり、体育座りすることは我慢していましたが、1時間体勢を変えないという約束をして我慢をするのは本当に辛いものでした。約束をすると、我慢せねばという意識が強くなるからかもしれません。それを、明日からは毎日3回、合計3時間は行うと言われた時の絶望感。今度こそ絶対無理、からだが固すぎるから例外的にむいていないのではないか、という逃げる口実のような考えが絶え間なく浮かんできて、からだの感覚の観察なんてほとんどできません。それでもやがて、永遠かと思われた1時間が終わり、股関節が痛すぎてしばらく動けないまま、隣の同志を横目で見たところ、やはり仁王立ちしていました。た、体勢を変えている・・・! そうだよな、絶対耐えられないよな、と分かち合いたい気持ちを抑えて聖なる沈黙を保ちました。
 とても厳しい4日目が終わり、5日目の朝。瞑想ホールに行くと同志がいません。朝は4時半からまず2時間、体勢を変えたり歩いたりしても良い瞑想の時間なので、もしかしたら自室で瞑想しているのかもしれませんが、それまでは比較的朝からホールにいた同志がいないのには少し違和感がありました。その日、昼の時間帯になっても同志は姿を現しませんでした。そして、夕方頃には、同志が座っていた座布団は片づけられていました。何かしらの理由で帰路についたということです。ヴィパッサナー瞑想が厳しすぎたのか、体調を崩してしまったのか、彼の身に何が起きたのだろう。同志を失った僕は、寂しく、心許ない気持ちになりながらその日の瞑想もなんとかやりきりました。その夜の講話は、「5日目が終わりました。最も辛い日のうちのひとつです。コースを中断せざるをえなかった人もいるでしょう」という内容の話から始まりました。そ、そうなんですよ、同志が・・・ ! とこころの中で叫びつつ、体勢を変えない1時間を3回初めて経験したその日は、やっぱり最も辛い日だったのかと納得しました。

 でも、考えてみれば、痛みの解決法は見つけられていないのだから、翌日以降も耐え難い苦行であることには変わりありませんでした。コースの中で、指導者は録音物の話者であるゴエンカ師ですが、ゴエンカ師はもう亡くなっていてその場にはいません。ホールには録音物を流したりして指導をしてくれる、ゴエンカ師のアシスタント指導者がいて、湧いた疑問をその人に質問できる時間が用意されていました。瞑想に関する質問をその人にすることは聖なる沈黙を破ることにはなりません。僕は、この痛みをどうしたらいいのか、解決法がわからず、先が見えない不安をアシスタント指導者に質問しに行きました。返事は、痛みという大きな感覚を、平静さを保って観察し続けましょう、という内容でした。これは、ゴエンカ師の指導でもたびたび出てくることでしたが、頭でわかっていても、痛すぎてそれができないのです。でも、それをまた伝えても、返事は同じでした。今考えれば、確かにそれしか方法はないので焦っても無駄だったのですが、この時は絶望感が大きくなったのを覚えています。

 先ほどから書いているように、ヴィパッサナー瞑想では感覚のすべてに気づくために自分のからだに意識を集中して観察し続けます。その中で生じる、痛みやかゆみなども、感覚のひとつにすぎないと指導されます。ここちよく細胞が振動するような微細な感覚も、痛みのような強烈で粗大な感覚も、同じ感覚だと繰り返し言われます。痛みの感覚は、たまたま「痛み」という名前がすでについているけど、もとは粗大な感覚でしかない、ということだと僕は理解しています。その粗大な感覚に対して、「うわ、痛みだ、嫌だ、取り除きたい!」と嫌悪が生じると、その感覚を放っておけず、執着することになります。不快なので、嫌悪してしまうのは当然な気がしますが、執着するほどに、もともとからだが感じる以上に感覚がどんどん増幅してしまい、堪え難いものになるというのです。不快な感覚を嫌悪するこころの癖が、結果として痛みを大きく増幅させているということです。だから、強い痛みに思える粗大な感覚も、ひとつの感覚として、嫌悪することなく、「あるなぁ」みたいな感じで平静さを保って観察することができれば、増幅した分の痛みはいずれ去っていくと説明されるのです。

 それを聞くたびに、よしやってみよう、と取り組むのですが、はっきり言って全然無理。頭の中は、痛ってぇ〜〜、嫌だ〜〜、という言葉に支配されるようになり、平静さなんて到底保つことはできません。僕は特に痛かった右の股関節に対して強い怒りを感じて憎むというのを繰り返していました。でも、股関節は自分の一部だし、むしろ修行で一番辛い思いをしているからだの部位です。痛みに翻弄されて余裕がなくなり、自分の股関節に向かって、なんでお前はそんなに痛いんだ! と怒るという意味不明で滑稽な現象が頻繁に生じていたのです。平静さを保っていないと、こころは簡単に、本末転倒な思いや行動を引き起こすというわけです。このこころの癖は、すぐに変えられるものではないけど、修行を続けると平静さを保てるようになり、いずれ変えられるという話が、指導でも講話でも続きました。
 仕方なくさらに続けましたが、やはり変わらず、今度は話をするゴエンカ師や、ヴィパッサナー瞑想を発見したブッダに対しても怒りの感情が湧いてくる時間もありました。冷静な今は、それがデタラメなことだとツッコミを入れることができますが、それくらい余裕なく混乱していたのです。そして、自分は特殊な例で、この瞑想法は自分にだけはむいていないのかもしれないという考えもまた湧いてきました。思い返せば、そんな時間を何時間も、数日かけて繰り返していましたが、余裕がなさすぎたのか、細かい記憶がありません。その数日は、嵐のような雨が続き、気持ちの暗さに拍車をかけていました。

 そして8日目。嵐が去り、空は気持ちの良い快晴になりました。その日の夕方、急に平静さを保つという感覚が掴めたような感覚が湧いてきて、最後の1時間の瞑想の時に、ついに痛みがスッと消えていくことを体感しました。え、なんだこれ、本当に消えていくんだ、と戸惑いながらもその現象を噛み締めようとしていると、また痛みこと、粗大な感覚はやってきて、さらに観察しているとまた消えていきました。あまりにも新感覚! 平静さを保って、痛くても焦らずに観察していると、いずれ変化を繰り返すのです。多分、それまでは痛いと思ったら、少しでも和らぐように対処を尽くすのが当たり前だったので、ものすごく辛くても何もせず観察していると変化をする、というのは初めての体感だったのだと思います。
 8日目最後の1時間の瞑想が終わって、新感覚の実感がまだはっきりしないままトイレに行くために外に出ると、嵐の翌日だったからか、夜空がとても澄んでいて、たくさんの星と三日月がはっきりと見えました。少し季節外れな気がするオリオン座、北斗七星、アルデバラン。天候まで、新感覚にたどり着いた自分を祝福してくれている・・・、とないようであるかもしれない関連づけをして、感動しながら空に見とれました。周りを見渡すと、他の参加者の人たちも同じように空を見ていました。最後の講話では、「そろそろ痛みが消えていくことを体感した人もいるでしょう」と話していて、またもや、そうなんですそうなんです、と大きく相槌を打つとともに、とても多くの修行者を指導してきたゴエンカ師だからこそ、物事の流れを把握しているのだなぁと信頼感を強くしました。

 翌日からの僕は、それまでと真逆。粗大な感覚をむしろ求め、早くあの過ぎ去っていくやつやって! という気持ちで瞑想しました。でも、何度かやるうちに、過ぎ去らないことが起こるようになりました。それどころか、これまで経験していないほど大きな痛みが居座るようなことがあり、期待した過ぎ去りが実現されないことに深く落胆して、余裕が全くなくなる時間がありました。この日の指導および講話では、嫌悪とともに注意すべきは、渇望というこころの癖であると話されました。僕は、痛みが過ぎ去り、全身が細かい振動のような感覚に包まれるここちよさを、サウナの後の水風呂のように渇望していたのです。渇望が強ければ強いほど、それが叶わない時のショックは大きく、それは新たな嫌悪につながりかねません。でも、そもそも毎回の瞑想がすべて同じ流れになるなんて全く約束されていないし、実際にそのようなことはないのです。うまくいく時もあれば、ものすごく苦しい時もあり毎回違います。そして、どんな回だったとしても、今はこんな感じなんだなぁと平静さを保って観察していると、必ず状況は変化していきます。

 この気づきや学びは、瞑想に限ったことではありません。人生の全般に通底することとして、辛いことも、ここちよいことも、ずっとそのまま同じというのはあり得ないのだと思います。辛さに焦って対処しようとしたり、ここちよさを握りしめて保ち続けようとするのは自然の摂理に矛盾することなので、挑んでみても叶わないことがあるのは当然です。それを理解していないと、うまくいかない時にすぐに平静さを保てなくなり、不安、イライラ、ゆううつな気持ちなどが大きくなって、余裕がどんどん減るという悪循環が生じてしまうのだと思います。
 瞑想の指導の中で、物事は無常である、という意味の「アニッチャ」という言葉を、「アニッチャ、アニッチャ」と何度も言われます。僕はだんだん、鳥も「アニッチャ」と鳴いて励ましてくれているような気持ちにさえなりました。鳥の鳴き声が「アニッチャ」に聞こえたのは僕だけだったみたいですが、繰り返し瞑想して、いろいろな回を体験するうちに、アニッチャを体感できたのは、とても貴重で得難い経験だったと思います。

 ヴィパッサナー瞑想を自分にたたき込むように修行するというのは、からだの感覚のすべてに気づくための観察を徹底することです。それを通して、何が起きても嫌悪せず、渇望もせず、平静さを保っていることがとても大切なことだと知ります。なぜなら、物事は無常で移り変わっていくので、執着しても思い通りにならず辛さが増えていくだけからです。この徹底的な観察と、平静さを保つことの大切さと、物事は無常であるという「アニッチャ」の体感が、11泊12日で得た、3つの貴重なことだと思っています。
 このことを、理屈で理解するのは、比較的簡単です。でも、座り続けることで、頭よりもからだで感じ、圧倒的な体感から理解に導かれたのは初めてだったと思います。体感するというのは、頭で理解するより強烈です。からだにたたき込む、刻み込むという感覚は、修行のように追い込まないとできないことなのかもしれません。

聖なる沈黙が解かれる

 10日目の後半には、聖なる沈黙が解かれます。孤独な10日間の修行をともにした人たちと、いろいろな話をする時間です。これも、外の世界に戻るために必要なことです。晴れた空、山に囲まれた広大な緑の土地、飛び回るミツバチ、好き好きに鳴き続ける鳥。そんな環境で、「お疲れさまでした〜」なんて言いながら、体験を共有できるのは、とても嬉しい時間でした。実質12日弱の日程を確保しなければならないからか、仕事や生活の変化の時期にある人、こもって自分の興味を追求する人、時々浄化をする意味でコースに参加している人など、それぞれに違う理由や事情を持ちながらコースに集まっていました。
 参加前の僕のように、申し込みがなかなかできなかった人も多く、同じ日程に集えたことが運命的に思えたり、10日間が過酷だっただけに、それを乗り越えた仲間という実感が持てて、連絡先を交換してまた会うことを約束しました。
 11日目は、朝の瞑想をした後、片づけと、ホールや宿舎の掃除を皆でしてそれぞれに帰りました。

瞑想後

 帰ってきてから1ヶ月と少し経ちます。最後の指導で、毎日朝と晩に1時間ずつ瞑想しなさいと言われます。2時間これまでより使える時間が減るけど、その分集中できるようになるから良いですよ、と。でもやはり、2時間を毎日瞑想にあてるのは相当難しく、僕は1日も朝晩1時間の瞑想はしていません。でも、1時間ではなく30分とか、1時間を1回だけとか、できるだけ取り組むようにしています。
 人と会って、ヴィパッサナー瞑想をしてきました、と言うと、行った理由と、内容を聞かれます。理由は、最初の方に書いた通り自分の中にも明確なものはなかったので、あまり詳しく話しようがないのですが、内容は10日分、ぎっしりしたものがあります。でも、膨大な経験のメインは体感なので、自分の中でいちいち言葉にしておらず、話すのが難しいです。しかも、日々の日記などメモを禁じられていたので、思い出しながら話さないといけない。どこを省略して、どこを盛り上げて話せばいいのかなかなか掴めませんでした。何度か話すうちに、なんとなく話の持っていき方が見えてきているのですが、それでも長くなってしまうのと、「感覚を観察する」「平静さを保つ」「物事は無常だ、つまりアニッチャ」とか、言葉が独特すぎて、話した人に響いているのか不安です。やはり体験しないとうまく共有できないものなのかもしれません。

 しばらくして、コースの終わりに連絡先を交換した何人かの人と会うことになりました。6人程いたので良さそうな店が見つからず、フリースペースを借りて話をしようということになりました。それぞれ買いたいものを買い、集まって部屋に入って、さて久々に話そうかとなった時、誰からともなく自然に「10分くらい座りますか」とみなで瞑想することになりました。この光景を想像してみてください・・・。怪しいでしょう。十分にハードコアだと思います。ヴィパッサナー瞑想に宗教的な要素はなく、ゴエンカ師も生涯在家の人で出家はしていませんでした。寄付は自由にできますが、参加費は無料で、全てボランティアで運営されています。コースに参加してみれば、怪しくないのは誰でも感じられると思いますが、少なくとも普段生活している当たり前とは違う当たり前がそこにはあります。

 どんな効果があったのか、と聞かれることも多いです。僕も行く前は、もしかして神通力のような力が備わったりしたらどうしよう、嬉しいなぁなんて考えていなかったわけではありませんが、当然そんなことはありません。それどころか、説明しやすくわかりやすい変化はありませんでした。でも、なんだか焦りにくくなり、余裕が無くなりそうな局面でも、少し観察してみよう、と平静さを保てるようになったのは間違いありません。

『ムーたち』はやはり偉大

 そして、いかなる時も平静さを保つということを瞑想で実践するうちに、これは『ムーたち』に出てくる「セカンド自分」なのではないかと考えるようになりました。『ムーたち』のことを僕は書きすぎているかもしれませんが、「セカンド自分」の他にも、歯医者にいく回で、意識の仕方によって痛みが移動する話も出てきます。この「ないようである」という連載が本になった時、『ムーたち』の作者、榎本俊二さんとオンラインでトークイベントをさせてもらい、先日はついにお会いできる機会がありました。そこでも、瞑想で得られた体感と、榎本さんの漫画で感じられるものが重なるという話を一方的にしました。その流れで、『ムーたち』や他の作品のもとになったアイデアの話、今後表現したい発想などを、榎本さんとすれば当たり前のようにお話されていましたが、僕からするとその内容は全く当たり前のものではなく、何かしら目覚めのような状態にないと思いつけないアメイジングなものでした。感動しました。榎本さんはもしかして、ブッダに近い発想の人なのか・・・。ブッダとは、「目覚めた人」という意味で、瞑想をして解脱、目覚める状態になるとブッダと呼ばれるので、ブッダはひとりではなく多くいると講話で聞きました。榎本さんもすでに目覚めている人なのかもしれません。

これから

 自分の経験の中で、とんでもない長文の原稿になったヴィパッサナー瞑想の体験とその連想。これらがこれからの自分にどんな影響をもたらすのかはわかりません。でも、少しだけ焦らなくなったという変化は、実はとても大きな変化につながるのではないかと思っています。焦って自分を急かすというのは、自分で自分をいじめるようなものです。それが減っていくことは、自分を少しずついたわることができることで、それが重なると余裕も少しずつ増えて、自分以外の人のためにできることが多くなる気がします。時間をかけて自分や自分がかかわる人に、絶大な豊かさをもたらしてくれるような予感がするのです。ただ、時間がかかるので、変化がないようであるかもしれない、とも思えます。この、時間をかけて、じわじわと豊かに変化するというイメージは、僕が惹かれている東洋医学にも、オープンダイアローグにも共通することです。やっぱり、ないようであるかもしれない、に自分は導かれているのかなぁと、改めて思います。この文章も、焦らなくなった影響か、文字数も、締め切りも、これまでの原稿の3倍ほどオーバーしました。圧倒的なオーバー。でも、いずれにしても、これまでの自分の中では生じなかったことが生じた、ということは嬉しく楽しみなことと捉えることにします。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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編集部からのお知らせ

この連載が本になりました!

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 本連載をもとにした『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月に発刊されました!
 刊行を記念して、装画を担当された榎本俊二さんや、人類学者の磯野真穂さんとの対談イベントがおこなわれ、その一部が文章としてミシマガに掲載されています! ぜひご覧ください。

【榎本俊二×星野概念 『ムーたち』ラブな精神科医と榎本俊二の妄言対談】

ミシマガ記事はこちら

【磯野真穂×星野概念 「病む」と「治る」ってなんだろう。~精神臨床と医療人類学の話から~】

ミシマガ記事はこちら

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