「ない」ようで「ある」

第25回

ただ、人間はプログラムされてその通りに行動できるようなものではないので、

2021.05.08更新

 4月から新年度になり、勤務先での業務が変わったり増えたりして、なんだかせわしなさが続いています。毎日勤務先の最寄駅から電車に乗って帰るのですが、ホームに立っていると色々な記憶が思い出される時があります。先日、突然思い出されたのは、友人家族と旅行に行った時のことでした。なぜ、こんな旅行が難しい時期に旅行のことを思い出したのか。いや、むしろそういう時期だからこそ、叶わぬ夢のような形で思い出したのもしれません。あとは、ホームに立ってその友人とメールで連絡を取り合うという当時と同じ状況が、想起のスイッチになった可能性もあります。

 あの日、僕の勤務は午前中だけで、終わり次第友人宅へ集合して友人の車で長野県の松本に向かう予定でした。仕事があったのは僕だけなので、午前中しっかり仕事をして、なるべく早く終わらせて向かいたいと考えていました。でもそんな時に限って長引くのが仕事というもの。結局残業をする形になり、電車の乗り継ぎがうまくいったとしても出発時間にギリギリ間に合うくらいの時間になってしまいました。待たせてしまったら申し訳ないと思いながら、とにかく急いで駅に向かうと、ちょうど1時間に1本程度しかない特急に乗れる時間が近いようでした。特急に乗れれば間に合います。これは残業のご褒美ではないか! やっぱり仕事は真面目に地道に取り組むに限るなと脳内でつぶやきながら特急券を購入しました。まぁ、今思えば、自分で特急券を買っているので、ご褒美というか、むしろ残業したために発生した支出と言えますが、その時は遅れてしまうかもしれないという不安が払拭されたことへの安心感もあり、急に気持ちが緩みました。ホームに立ち、ギリギリだけど特急に乗れるから間に合いそう、諦めなければ奇跡は起きる、という半分ふざけたようなメールを友人に送ります。僕がギリギリになりそうなことを気にしていた友人からすぐに、そんな戯言はちゃんと着いてから言え、というような返事が返ってきます。ホームで特急券を握りしめながら、そんなメールのやりとりを何ターンか繰り返すうちに、旅行へのワクワク感が高まります。

 ふと気がつくと、あれ、特急の時間が過ぎている・・・。気づかぬうちに5分ほどタイムスリップした感覚。おとぎ話の浦島太郎が浦島TAROならば、ほんの数分間の、浦島taro的な時間が飛んだ感覚です。手には握りしめた特急券、駅のずっと向こうに小さくなっていく特急。タイムスリップ説もかなり捨てがたいところですが、恐らく、友人とのメールで気の利いたことを言おうとするあまりメール画面に集中してしまって、前の駅から来て止まり、発車するまでの特急や、それを伝えるアナウンスを完全に無視してしまったのでしょう。時間に間に合う最後のチャンスを掴んだと思い油断した結果、チャンスを逃しました。チャンスの神様は前髪しかないと言いますが、僕はチャンスの神様の被っていた前髪の絵が描かれた帽子を掴んだようなものでした。それで油断して、本当の前髪を見逃してしまい、気づいた時には特急の後ろ姿しか見えませんでした。特急にはもちろん後ろ髪は生えていませんでした。そう、ちょうど赤ちゃんが、後頭部がかゆいからスリスリしているうちに後頭部の髪の毛だけ薄くなってしまうように。あれ、違うかな。
 なんだか、うまいたとえ話をしようとしてつまずいている感じがしますが、あの時夢中になっていたメールのやり取りも同じようでした。特急に乗ることを目前にして、うまい言い回しを考えることに集中してしまいました。特急を逃した僕は、自分の詰めの甘さに辟易としながら、後からきた急行に乗りました。この時だけでなく、僕は何度も乗る電車を間違えたり、逆方向に乗ったり、考え事をして降りるはずの駅ではないところで降りたりすることを経験しています。これは恐らく、僕の何かしらの特性が関連していることだと思います。そんなことが生じるたびに、自分に対する怒りというか、むしろ諦めのようなものが湧いてきて辛いです。星野概念が諦念を帯びる時です。

 遅れる連絡を友人にして、そら見たことか、というような返信を受けながら時間に遅れて到着すると、それはそれで面白いことだ、とか、そのまま特急に乗れていたら、行きの運転係をつとめる僕がもっと大きな間違いをしたかもしれないからむしろ安心できる、などみなが言ってくれました。みなは半分以上冗談のつもりで言っていたと思うのですが、僕は遅れてもなお否定的なことを言われなかったということが、思いの外嬉しく、自分でも驚くくらい安心できたのを今でも覚えています。

 この時、僕は旅行が楽しみだから早く合流したい、という気持ちに加えて、楽しみにしているみなを待たせてはならないということを強く考えていました。それは当然のことで、そのために尽力したり、工夫の限りをつくすことは大切なことだと思います。ただ、人間はプログラムされてその通りに行動できるようなものではないので、思い通りにいかなかったり、思わぬエラーやつまずきがあって実は当たり前です。尽力の結果、特急に乗れそうだったのに、うっかりが極まってまさかの特急無視という事態が発生することもあるのです。でも、僕はそんなことをしてしまう自分がなかなか受け入れられませんでした。なぜ俺はまた不注意を繰り返してしまうのだ、結局遅刻するなんて本当に落伍者だ、と、うまくできなかった自分に対して極端に否定的になっていました。もう、自分を置いて旅行に行ってください、こんな、ちゃんとすることができないダメな自分は留守番をしていますんで、と誰に得があるのか分からないような自虐に偏った気持ちで到着したところ、みなはそれを笑い飛ばしてくれ、さらに、むしろ良かったとすら言ってくれたことで、偏った自虐の呪いは解け、楽観的に事態を捉えることができました。車内では、なぜか特急を無視してしまったことが逆に面白いネタとなり、それをした自分も捨てたものではないなとすら思えたのは、みなが僕の失態を肯定的に受け止めてくれたからこそです。

 この時のことを考えていたら思い浮かんだことがあります。僕は大学病院で訪問看護・訪問診療を行う「精神科アウトリーチチーム」に所属しているのですが、チーム内の何人かからの発案で、訪問をする時に着ても着なくても良いけどチームで共有できるポロシャツをつくろうという話になりました。デザインもチーム内で考え、Fさんという毎回一緒に訪問に行く看護師さんが、桜並木の上に、エヴァンゲリオンに出てくる使徒のような謎のエンブレムのようなものを描いたスケッチを発案してくれました。そのエンブレムは実は大学のマークだったのですが、桜並木よりも大きなサイズで桜並木の上に浮かんでいるという構図だったので、使徒を感じたのかもしれません。Fさんは、強い思い入れのあるイラストだという説明をしてくれたので、その原案をもとに、僕が名刺づくりなどでお世話になっている広島県福山の鞆の浦にある福祉施設に通う作家さんに作画をお願いしました。

 Fさんの描いたイラストを、その作家さんは独特な視点で捉えていました。精神医学的に考えると発達の凸凹とされる特性がその作家さんにはあり、Fさんやチーム内の我々が考えていたのとは違う解釈でその絵は描かれていたのですが、一方で原案はもちろん踏襲されていて、我々の想像を超えすぎずに超えているという絶妙なさじ加減の裏切りが感じられる絵になっていました。チームのみなはそれをみて感動し、同じ施設の違う作家さんに、ポロシャツの肩のところににつけるワンポイントの絵もお願いすることになりました。

 僕が診療の時に着ているスクラブの肩のところには、アスクレピオスの杖という、杖にヘビが巻きついている医療・医術の象徴の絵が描いてあり、それに僕は守られているような感覚を持っています。それと同じように、訪問する時のポロシャツにも肩に何か象徴的なワンポイントを入れたいと思ったのです。話し合った結果、我々の大学病院を象徴する細菌学の偉人の絵を描いてもらうことになりました。インターネットでその偉人の写真を数点送り、あがってきた絵にまたびっくり。誰の似顔絵か分からない方向性にはなっているものの、非常に味わい深く、それまで我々の誰も着目していなかった、その偉人のほくろに着目した新しい視点の似顔絵が届きました。

 胸には、桜並木とエヴァの使徒の新解釈、肩のワンポイントには大学病院を象徴する偉人の新解釈。考えていた以上に素敵なポロシャツになりそうで、期待に胸を膨らませながら、ついに発注をする段階になりました。チーム内に、息子さんのバスケットボールチームのTシャツをつくったことがある看護師さんがいたので、このポロシャツへの印刷の発注もその業者にお願いすることになりました。我々ポロシャツ制作チームは、業者から送られてきた完成イメージをみて、自分たちの考えていた理想形になることを確信して、まだ見ぬポロシャツに対する喜びを抑えるのに苦労しました。

 ついに納品日。早く着たいというはやる気持ちを胸に、ダンボールを開けて袋を開封します。そして訪れる沈黙。・・・。胸のシン・桜とエヴァは本当に良い感じ。想像通り。でも、シン・偉人の顔がデカすぎる!

 絶対に同じことをみなが思ったはずです。心の声はほぼユニゾンで響いていたことでしょう。どう考えても偉人の顔の主張が強すぎたのです。通常想像するポロシャツの肩のワンポイントイラストの5倍くらいの大きさの似顔絵が、肩に鎮座していました。もはや、ポロシャツの右肩は、ほぼその偉人の似顔絵で埋め尽くされています。しばらくの沈黙の後にそれぞれが、おぉ、とつぶやいたり、笑い出す人もいました。デザインのやりとりをしていた僕や、発注を担当してくれた看護師さんは当然気まずい気持ちになっています。新解釈の似顔絵は、小さいワンポイントだからかわいいわけで、肩を埋め尽くすほどの存在感になると、ワンポイントではなくメインです。肩がメインになるデザインは全く想定していなかったので、多分新解釈でもそうでなくてもバランスがおかしいのです。業者の完成イメージではこんなバランスではなかったはずですが、よくみてみると「右袖プリント高さ100mm」と書いてありました。これは完全にこちらの確認ミス。でも、業者も業者で違和感を感じてくれよ。

 あぁ、それにしても申し訳ないことになってしまった。この結果で、みなから集金して良いのだろうか。しかも僕は、発注の時点で高揚していたからか、1人だけ色違いで3着注文していました。どうするんだ、この3着・・・。思考が自虐に偏っていきます。そんな時に、チームの何人かの人が、やっぱり偉人だから小さい存在だと我慢できなかったんだね、かわいいなぁ、とか、これで院内でチームのことをもっとアピールできるかも、なんちゃって、とか、積極的に肯定的な発言をしてくれました。言われてみれば確かに、偉人を小さく扱いすぎたのかもしれません。そういう捉え方もあると考えたら、着てみる勇気も出てきました。その場で着てみると、10cmの偉人も思ったほど気になりません。良かった、みな喜んでくれているし、これならば着られそうです。まわりの人の肯定的な発言で、またもや自虐の偏りから抜け出すことができました。

 安心して、次の訪問日、もちろん僕はポロシャツを着て訪問車に集合しましたが、Fさんは着ていません。まぁ、特に仕事の時に着ると決めたわけではないからそこまで気にはなりませんでしたが、その後何度かの訪問の時も、やはり着ているのは今のところ僕だけです。

 うーん、なんでだろう。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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編集部からのお知らせ

この連載が本になりました!

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 本連載をもとにした『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月に発刊されました!
 刊行を記念して、装画を担当された榎本俊二さんや、人類学者の磯野真穂さんとの対談イベントがおこなわれ、その一部が文章としてミシマガに掲載されています! ぜひご覧ください。

【榎本俊二×星野概念 『ムーたち』ラブな精神科医と榎本俊二の妄言対談】

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【磯野真穂×星野概念 「病む」と「治る」ってなんだろう。~精神臨床と医療人類学の話から~】

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