「ない」ようで「ある」

第14回

コートのポケットからiPhoneを・・・。あれ?

2020.01.21更新

 「僕は酒が好きです。」これは約1年前、この『「ない」ようで「ある」』第1回目の原稿を、着地点の分からぬまま書き始めて、1番はじめに出てきた言葉でした。それから1年経ち、今回の原稿も自然に同じ言葉から始まりました。進歩がない気がする・・・。いや、でも恐らく、それだけ自分の中で普遍的なことなのだと思います。第1回目の原稿の中で、僕はこうも書いています。
「燗酒をきっかけに僕は酒の魅力に取り憑かれていきました」

 2019年は1月に、最も大好きな竹鶴酒造の蔵を見学しに行き、最もお話してみたかった酒ゴジラこと、石川達也杜氏とお話することができました。それからは時々ご一緒させてもらうようになり、10月には広島県西条市の酒まつりでお世話になったことも、この『「ない」ようで「ある」』で書いた通りです。石川さんの造る酒は、温度を上げても上げてもうまさが増す素晴らしい酒です。菊水酒造のホームページを参考にすると、熱燗の温度の目安は50度、さらに熱い飛びきり燗は55度とされています。飛びきり燗の定義は「徳利を持つと熱いくらい」とあります。でも、僕が竹鶴酒造で頂いた熱燗は、徳利が熱すぎて全く持つことができないほどの温度でした。「あっつ、なんですかこれは!」と叫ぶ僕に対して、石川さんは「それこそラブラブ燗です、ハッハッハッハ」と大きな声で笑っていました。ラブラブ燗?? 飛びきり燗のさらに温度が上の熱々燗、読みはアツアツ燗。そう、「アツアツ」→「ラブラブ」燗です。そう、って言われても、という感じかもしれませんが、駄洒落が大好きな石川さんは、この呼称を広めたいとのことでした。いいなぁ、こういう柔軟な発想と、ほぼふざけとも言えるユーモア。

 そんなことを考えながら過ごした2019年末、酒が好き酒が好きと言い続けた僕はついに、グルメ雑誌の日本酒特集への参加のオファーを頂きました。ただ、僕は日本酒に詳しいわけではなくて、熱燗が好きなだけです。対応できるのだろうかと恐る恐る内容を聞いてみると、「今回ご担当頂きたいテーマは熱々燗です」とのこと。こんなことってありますか? 熱々燗なんてニッチなテーマを特集して良いのでしょうか? いや、良いんです。何しろこれで、ラブラブ燗の啓蒙に一役買えるかもしれません。

 取材は年末と年始で合計2日間ありました。熱々燗に芯から惚れ込んでいる熱々燗の達人とともに、達人行きつけの店で、年末にさまざまな熟成酒を熱々燗で頂き、素敵な酒屋さんにも取材。新年は達人と僕に、酒大好きな小説家も合流して別のお店で取材と試飲。こう書くとまるで、忘年会と新年会のようですが、僕は最終的に記事を書く役目も仰せつかっていたので、全力で飲むことは控えました。だから取材内容は覚えているし、メモもしたし、レコーダーで録音もしました。まぁ、これは当たり前のことです。そして取材は終わり。始まりが早く、終わりも早い、下町の飲兵衛の町で取材をしていたのですが、終わってまだ16時。これはもう打ち上げをするしかありません。まだ記事は書いていないのに。目の前には大好きな銘柄の酒。翌日は休み。もう我慢する必要はありません。一生懸命自分を抑えてちびちび味見していた分、酒がすすむすすむ。取材に関係されたみなさんは本当に気が良い人たちで、もう楽しくてあっという間に数時間。帰宅の時間になり電車に乗りましたが、そこから記憶が途切れています。

 僕の経験だと、飲酒をして記憶が途切れている時は大抵寝てしまった時です。後から、一緒に電車に乗っていた人に連絡して聞いてみると、電車に乗ってすぐに寝てしまい、起きるはずの駅で起こしても起きなかったので、次の駅でなんとか起こして電車から降ろした、とのことでした。ということは、向かいのホームからひと駅戻って乗り換えて、自宅に戻っているはずでした。それなのにどうして。どうして起きたら、乗り換えもせずその電車の終点、千葉県の奥の方だったのでしょう。「思えば遠くへ来たもんだ」と海援隊は歌いましたが、僕は「思ってもいないのに遠くへ来たようだ」と心の中でつぶやきました。そして、あぁ、もうもしかして戻る電車もないんじゃないか、大体今何時なんだろう。こうもつぶやいて、コートのポケットからiPhoneを・・・。あれ? 別のポケットかリュックの中に入れたのか。・・・。あれ? iPhoneがない!

 こうなると、iPhone の電源が切れる前になにがなんでもパソコンで、iPhoneを探す、をしに帰宅せねばなりません。近くに宿泊した方が安いと一瞬考えましたが、不安で朝まで待てません。帰れるところまで行ってあとはタクシー。千葉県の奥から東京の自宅に帰るのは、経済的にかなり大きなダメージを被ることを領収書で確認できました。一方、タクシーに乗ってからの不安といった記録に残らないことは、タクシーに乗った瞬間にまた寝てしまったので記録にも記憶にも残りませんでした。

 さて、帰宅。今度は寝ずに、iPhoneを探す、を起動します。どこにあるのか我がiPhone。頼む、なるべく近くであってくれ。頼む、頼む。はい、さっきの駅に綺麗に二重丸のマークがついています。またあの駅に行くのか。いや、でも、はっきり言って、あるだけで本当に幸せなことです。現状、「ない」はずの僕のiPhoneが、「ない」ようで「ある」のだということに喜びと、恐らく回収してくれたであろう駅員さんに感謝の気持ちを抱いて、しばし眠ることにしました。

 翌朝、始発くらいの時間に起きて駅に向かうはずが、もうiPhoneは「ない」ようで「ある」のだということが分かったからか安心してしまい、少し寝坊しました。時間は朝8時。でもその日の僕の予定は、16時に東京にいれば良かったので、片道2時間強かかるとしても、9時に出て11時過ぎ、iPhoneを受け取ってお礼をして、ゆっくり帰っても余裕で間に合う計算です。まずは一応iPhoneの所在を確認しようと思い、もう一度、iPhoneを探す、を起動。やはり駅の構内にしるしがあります。これはもう間違いない。余裕の心持ちで固定電話から駅に電話をして、落し物を取りに行くことを伝えます。ところが、「昨日iPhoneの落とし物は届いていません」「え、でもパソコンで「ある」ことになっているんです」「分かりました、少ししたらかけ直します」。まぁきっと何かの手違いだろうとは思うけど、本当に「ない」としたら大変なことです。15分ほどして電話が鳴ります。「もしもし、ありましたか?」「はぁ、、はぁ、、いえ、いま線路や自動販売機の下までみて来ましたが、「ない」です。私にできるのはここまでです。すみません」 息切れしてるし、そんなに探してくれて、しかもとても対応が丁寧な駅員さんに頭が上がらない感謝の思いと、落胆して物理的に頭が上がりませんでした。「でも、しるしは出ているのでひとまず向かいます!」僕は勢いよく電話を切って、パソコンを持って駅に向かいました。

 計算通り、到着は11時半前。きっと、なんだかんだ届けられていたりするのだろうという僕の期待を裏切り、やはり駅には僕のiPhoneは届いていません。もう一回パソコンを使って、iPhoneを探す、を起動、したいけど、Wi-Fiが必要です。普段使うiPhone のテザリングは使えません。なぜならiPhone がないから。ダメもとでWi-Fiを探すと、なんと駅から出てすぐにあるファミリーマートのフリーWi-Fiがありました。そして、iPhoneを探す、を起動。どこかに行ってしまっているなんてことはなく、やはり駅の構内にしるしがありました。もしかして、ファミリーマート? 店内で落し物を訪ねます。ありません。でも皆さん、駅員さんと同様優しい方々で、棚とかゴミ箱とかずらして探して良いと言ってくれました。ただこれはつまり、きっとお前は酔っ払っていたから、自分でも覚えていない行動をとって、思いもよらないところに自分の大切なiPhoneを置き忘れているのだろう、ということだったのかもしれません。でも、どう思われていようと関係ありません。好意は好意。

 「ない」ようで「ある」から、もはや「ある」ようで「ない」ものになってしまった僕のiPhone。何度も、iPhoneを探す、を起動します。しるしは相変わらず移動しませんが、サウンドを再生する、で音を鳴らせば手がかりになるだろうと思っていたのです。でも全然聞こえてこない。ノートパソコンを開いていじりながら、駅構内やファミリーマートをウロウロする姿は、新世代のダウジングのようだったかもしれません。そして、新ダウしながら閃きました。駅構内とファミリーマートは2階なのです。地図は平面なので、立体は表現できません。そういうことか、1階だ! 線路だ! 駅員さんも一緒に降りて来て探してくれます。でもこれも今考えたら、線路を眺め続けるお客を、電車がビュンビュン通るホームでフリーにするなんてとても危険で、不注意から事故につながる可能性もあるため、見張ってくれていたのかもしれません。僕は確かに階段のそばで降りたはずだったので、そこを中心に線路の上にあるはずのiPhoneを探しました。僕の眼力に温度があったとしたら、線路の石のいくつかを焼け石にすることができたと思います。それほど凝視しました。それにも関わらず、iPhoneは見つからない。

 時間はすでに13時半。少し余裕を持って帰るためには、向かいのホームから発車寸前の電車に乗らねばなりません。あれを逃したら、14時直前の電車に乗ってギリギリ16時に東京です。でも、走っても間に合わない。捜索に夢中で時間を忘れていました。その頃には駅員さんも業務に戻っていて、1人、ホームで途方に暮れました。頭の中は、どこで機種変更をするか、データは引き継げるのか、などの内容をパソコンで調べたいなぁという、ほぼ白旗を上げている状態の思考に変わっていました。そんな時、駅員さんが足早に階段を降りて来ました。「お客さんが降りられたのは、この階段のそばではなくてエレベーターの近くではないですか? エレベーターの近くのゴミ箱が怪しいです!」 駆け足でゴミ箱に向かう駅員さん。

 でも僕の記憶では、昨日は確かに階段の近くの電光掲示板を眺めながら、終電近いことと、iPhoneをなくしたことを確認したので、間違っているはずはないのです。なんで今になってそんなことを言うのだろうと思いながら、一応駅員さんのところに行ってみます。「あれ、ないなぁ。確かにこのゴミ箱に・・・。あ! ゴミ袋!」駅員さんはつぶやいた後に今度は階段の方に戻って、階段を駆け上っていきます。急にどうしたんだ、駅員さん! それにしても、この2時間あまりのiPhone捜索活動で、何度も上と下を行き来しましたが、この駅員さんは1度も、エレベーターもエスカレーターも使いませんでした。僕も倣って、パソコンを落とさないように注意しながら階段を登って追いかけます。

 たどり着いたのは、数日分のゴミ袋が詰め込まれた大きなボックス。「これが最後の希望です」そう言って駅員さんはゴミ袋をボックスから出していきます。希望。そう言われたら信じるしかありません。残り時間はあと15分弱。iPhoneを探す、を時々起動して、サウンドを鳴らしながら駅員さんと一緒にゴミ袋を開けて中身を確認していきます。捨てられている新聞の日付の新しい袋から順に次々と確認。残り10分。かすかに、今まで聞こえなかった音が聞こえる気がしました。「ピロピロピロ」「あれ? 何か聞こえませんか?」と僕。「聞こえますよ!」と駅員さん。ゴミ袋の中身を掘っていきます。「ピロピロピロ」「ピロピロピロ」「ピロピロピロ」「あった!」ゴミ袋の1番底で、きっと重力的な理由で1番底で、僕のiPhoneが鳴いていました。あと4分。

 駅員さんと抱き合いたいくらいの気持ちを抑えて聞きます。「それにしてもどうして急に降りた場所が分かったんですか?」「いや、少しだけ昨日の防犯カメラを確認したんです。そしたら、エレベーターのところで降りられて、しばらく動かないと思ったら、ぐるぐる踊り出して、踊りの流れで優雅に何かをゴミ箱に入れられたんです。それが気になりまして。ちなみに、階段近くの電光掲示板の前で落胆されていたのはその直後でした」ぐるぐる踊り? 優雅にゴミ箱にiPhoneを入れる? 自分でゴミ箱に入れた直後に、それを忘れてポケットを探して落胆? 全く記憶にないし、思い描いてみるとものすごく恥ずかしい酔っ払いエピソードです。終点まで乗り過ごして、なに踊ってたんだ俺は・・・! 真面目で優しい駅員さんも、なんだかニヤニヤしていたような気がします。でもそんなことはどうでも良い。こんなくだらない、むしろ自業自得としか言いようのないiPhoneなくしの捜索に、真摯に、僕よりもしぶとく向き合ってくれた駅員さんに、感謝してもし切れません。「あの、ぜひお礼をさせてください。お名前は・・・?」「いいんですそんなものは。あと2分ですよ。行ってください。ご乗車ありがとうございます」 ホームに走って向かう直前、名札で駅員さんの名前を確認しました。絶対にお礼をします。

 iPhoneを自らゴミ箱に入れたという、「ある」ようで「なかった」僕の記憶は、駅員さんが協力してくれたことで、「ない」ようで「ある」ものに変わりました。僕のiPhoneは、「ない!」から「ない」ようで「ある」(嬉)、そして「ある」ようで「ない」(悲)から、ゴミ箱の中で「ない」ようで「ある」感じを漂わせて(喜)、制限時間4分前に「ある」(感涙)に着地しました。駅員さんがあの人じゃなかったらこんなに探してくれなかっただろうし、帰りの電車を逃さず予定通り帰っていたら駅員さんのひらめきも間に合わなかったことになります。始まりは本当にただの自分の愚かな過失ですが、全てが好転して、僕のiPhoneは今も僕の傍で横になっています。この奇跡みたいに出来すぎた物語は、フィクションなのかノンフィクションなのか、「ない」のか「ある」のか。新年から、諦めないことは結構大切、とか、物事は円環的に着地するようになっているなぁ、とか、結果的に実りある出来事に恵まれた気分。こんな年になれば良いです。

 みなさんや僕にとって面白い年になりますように。
 今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

星野概念

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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