46歳で父になった社会学者

第10回

料理

2019.08.03更新

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この連載に加筆修正を加え、本になりました。ぜひ書籍でもご覧ください。

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『46歳で父になった社会学者』工藤保則(著)

 「まんま」――息子のじゅんが初めて発した言葉だ。「ご飯は生きていくためになによりも大切なものだからなぁ」と私は納得した。

 私も妻も仕事をしているため、平日はあらゆることが時間との闘いの中で行われる。とりわけ、夕食づくりは一番時間を要する家事である。それが私たちの生活の中にスムーズに組み込まれるまでには試行錯誤があった。

 じゅんが離乳食の間は、おとなの夕食は、主に、仕事から先に帰ってくる妻がつくっていた。離乳食は、妻が週末に大鍋でおかゆと茹で野菜を大量につくり、小分けして冷凍していた。普通食に移行した時、じゅんが食べられる柔らかく薄味のものに私たちが合わせるかたちで料理をつくるようになった。前日に翌日の夕食の献立を考えて、仕事帰りに買い物をしておく。そして夜、野菜を切るなどの下準備をしてから布団に入り、翌朝、早起きして仕上げていた。保育園から帰るとじゅんは空腹でまったなしである。ぐずる子をあやしながら料理をするのは至難の業だ。それでなくとも、洗濯に入浴、片づけに明日の準備と、やることはいくらでもひかえている。夕食を朝につくっておくというのが、じゅんの就寝時間を守るためにも良い方法だったのだ。

 だが、その寸分の余裕もないタイムスケジュールは明らかに無理があるように思えた。そこで、私は「週の半分はつくるよ」と申し出た。つくらなくていい日ができることで生まれる、ちょっとした時間を睡眠や息抜きにあててほしいと思ったのである。

 じゅんが2歳になるくらいまでは、このスタイルで生活をまわしていた。

 しかし、そのスタイルも続かなかった。

 さまざまに無理を重ねた妻のからだが悲鳴をあげたのだ。自律神経のバランスを大きく崩してしまった妻は心身ともに疲弊し、今までふつうにできていたことも、持てる力をふりしぼらないとできなくなった。笑顔もなくなった。その姿はとても痛々しかった。

 このままではいけない。そう考えた私は妻に提案した。

「朝は私の方が時間的に余裕があるから、その時間で、毎日、晩ご飯をつくるよ」

「えー。いやいや、それはちょっと・・・」

「無理しないで。からだを守ることを考えないと」

「うん。でも・・・」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。まかせて」

「そりゃあ、もちろん、すごく助かるけど。負担が偏りすぎじゃない?」

「じゃあ、こうしよう。平日は私がつくります。そのかわり、土曜日と日曜日はお願いします」

「ごめんねぇ。こんなことになってしまって」

 きっかけは決して良いものではなかったが、こうして、平日の夕食づくりは私の担当ということで落ち着いた。

 朝、妻はじゅんを保育園に連れて行き、始業直前に会社に飛び込む。一方、私は、妻とじゅんが家を出てからの小一時間を夕食づくりの時間にあてている。料理ができたら、それらを冷蔵庫に入れて、大学に向かう。といっても、カレーや焼きそばなど簡単なメニューをはさむこともよくあるし、大学からの帰りにデパ地下で総菜を買って、家ではなかなかつくれない味を楽しむこともある。食事づくりは毎日のことなので、そうしないとまわらない。

 料理評論家の小林カツ代は、デパ地下で総菜を買う女性に眉をひそめる人たちに対して、「本当に時間がなくて、それでも殺伐とした食卓にだけはしたくないと思っている人が、時々はおそうざい売り場を利用してもいいではありませんか」と言ったという。そのことを知って、優しくポンと肩をたたいてもらったような気がした。小林は、「毎日作るんだから。100おいしいことを目指さなくてもいいのよ。80おいしければいいじゃない。そうしないとやってられないわよ」とも言っている。この言葉にも大いに勇気づけられている。

 平日の夕食をつくるようになってから、小林カツ代の偉大さに改めて気がついた。彼女の思想が詰まったレシピ本が没後も売れ続けているのも当然である。できるだけ短い時間でちゃんと料理をつくって家族に食べさせたいという矛盾した思いを抱く女性たちを応援しつづけた彼女のおかげで、「今」を乗り越えられた人はかなりの数いるだろう。私も、日々、「今」を乗り越えることだけを考えている。

 一方で、料理をする時間は私にとって良い気分転換になっている。レシピを見ながら、材料を切る、炒める、煮る、焼く、味をつける。レシピに書いてある通りにしていくと、確実に料理が仕上がっていく。何かが出来上がるのは、うれしいものだ。お皿に盛りつけた時には、ちょっとした達成感を味わう。なにより、「これが、じゅんくんのからだをつくっているんだ」と思うと、つくりがいをおぼえる。最近、私は「世の中で一番役に立つ本は、レシピ本だ」と半分冗談、半分本気で言っている。

 ある週の夕食の献立を示す。

 月曜日 牛丼、みそ汁、かぼちゃの煮物

 火曜日 ご飯、みそ汁、煮魚(かれい)、豆腐と野菜の炒め物

 水曜日 ご飯、みそ汁、じゃがいもチンジャオロース、にんじんしりしり

 木曜日 焼きそば

 金曜日 ご飯、みそ汁、焼き魚(鯛)、筑前煮

 ご覧のように、私がつくるのは、時間と材料費をかける「男の料理」――それはつまり「「今」を乗り越える」とは正反対のものだろう――ではなく、小林カツ代仕込みの「普通のおかず」である。気をつかっているのは、「できるだけ旬の食材を使おう」ということくらいである。旬のもののおいしさはじゅんもわかるようで、本当においしそうに食べる。

 夕食について、わが家で「事件」と呼ばれているものがふたつある。

 ひとつは「きのこ事件」である。じゅんが2歳半くらいの時、「き、き、きのこ、き、き、きのこ、のこのこのこのこ、あーるいたーりしない」という歌(『きのこ』 まどみちお作詞・くらかけ昭二作曲)をよく歌っていた。ある日、夕食がおわって、3人でそのまま居間でくつろいでいた時、じゅんはその歌を何度も繰り返して歌っていた。そうしたら急に「きのこ、たべたーい」と言いだし、ぐずり始めた。やがて「たべたーーい」と大泣きに。こうなると、もう、どうしようもない。

 妻がじゅんをあやしている間に、私は急いて冷蔵庫のドアを開けた。すると、幸運なことに、えのきが一束あった。また幸運なことに、その日のおかずの一品であった肉じゃがの煮汁が器に少し残っていた。私は、急いでその煮汁をお鍋に入れ、火をつけた。煮立ってきたら、食べやすい長さに切ったえのきを投入し、しばらく煮込んでから、お皿に入れてじゅんにあたえた。それを一口食べたじゅんは、あんなにぐずっていたのが嘘のように、「おいしーなー」とにっこりした。食べ終わると、機嫌よくまた「き、き、きのこ、き、き、きのこ、のこのこのこのこ、あーるいたーりしない」と歌いだした。

 もうひとつは「かきこきご飯事件」である。3歳になる少し前のことである。じゅんは炊き込みご飯が大好物なのだが、本格的につくろうとすると手間がかかるので、簡易版をちょくちょくつくる。それでも「おいしーなー」と言って食べてくれるのでありがたい。ある日曜日、妻がお出かけのお弁当用として炊き込みご飯をつくった。じゅんはお昼にお弁当箱いっぱいの炊き込みご飯を食べた。晩ご飯でも残っていた炊き込みご飯をいっぱい食べた。炊き込みご飯がなくなり、妻が「おいしかったねぇ」と話しかけると、じゅんが「かーきーこーきーごーはーん」と叫んだ。まだ食べたいという意味だ。が、もう炊き込みご飯はない。じゅんはまた「かーきーこーきーごーはーん」と言い、半泣きになっている。さすがにさっとつくれるものではない冷蔵庫の中を見ると、昨日の晩の冷ご飯はあるが、炊き込みご飯がほしいという気持ちにこたえられそうなものは・・・ない。

 その時、あることがひらめいた。ふりかけである。炊き込みご飯とはまったく違うが、ご飯に味をつけるという点では共通する。冷ご飯をレンジで温めてふりかけをかけた。それをよくまぜて、「ほら、かきこきご飯だよー」とじゅんに出した。じゅんは泣きやみ、ぱくぱく、もぐもぐ食べて、満面の笑みになった。

 幼児のいる食卓では、思わぬことが起こる。一瞬で機嫌が悪くなり、一瞬で機嫌が良くなる。だから、こちらも一瞬一瞬が勝負なのである。毎日、料理をするようになってから、私はとっさの判断ができるようになったように思う。

 このふたつの事件のことを妻はときどき思い出して、「あの時の機転はすばらしかった」と褒めてくれる。その言葉を、毎回、ありがたく、いただくことにしている。


*参考文献
『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』阿古真理、新潮新書、2015年

工藤 保則

工藤 保則
(くどう・やすのり)

1967年、徳島県生まれ。龍谷大学教授。専門は文化社会学。著書に『中高生の社会化とネットワーク』(ミネルヴァ書房)、『カワイイ社会・学』(第25回橋本峰雄賞。関西学院大学出版会)、『46歳で父になった社会学者』(ミシマ社)、共編著に『無印都市の社会学』(法律文化社)、『<オトコの育児>の社会学』(ミネルヴァ書房)、『基礎ゼミ 社会学』(世界思想社)などがある。好きなものは、落語、散歩、リクオ(シンガーソングライター)、「0655」(テレビ番組)。現在、8歳の息子と4歳の娘の子育てまっただ中。

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