第18回
あおちゃんの大地創業までの物語(社会人編・後編)
2023.11.01更新
保育士免許を取得したあおちゃんは、東京・町田の保育園で勤め始める。青葉台の月5万5千円・2DKのアパートに、のんたんかあさんと引っ越した。毎朝、あおちゃんは、 赤のバイクXL50S(のんたんかあさんが日本半周に乗っていたものだ)で出勤した。客室乗務員ののんたんかあさんは、タクシーで空港へ出勤。国際便に搭乗することも多く、月の3分の2は家をあけていた。
保育士1年目のあおちゃんは、「切ない1年だった」と当時を振り返る。当時、コンビを組んでいた1年先輩の保育士Aさんと馬が合わない。というのも、あおちゃんは保育士デビューすると、子どもたちの人気を一身に集めてしまった。先輩からするとおもしろくなかったのだろう。仕事をやればやるほど、ひがまれた。嫌味を度々言われ、いじられる日々に、あおちゃんは学期が終わるのを指折数えるほどストレスに苛まれた。あおちゃんの楽しみは、当時表彰されるほど美味な給食だった。余った給食を持ち帰って夕食にする日もあった。
ちなみに当時、東京都は革新都政で鳴らした美濃部亮吉都知事の時代だった。あおちゃんの東京都の保育士としての待遇はよかった。新卒で月給12万円のときに、あおちゃんは大卒や職歴が評価がされ20万円近く給与をもらっていた。隔週で土曜日は休み、指定休日なども利用できた。
幸い、2年目以降はこの先輩とのコンビは解消され、徐々にあおちゃんは本領を発揮していく。
「園にテントを張って、泊まるのはどうでしょう。」
子どもたちが喜びそうな企画を、次々に園に提案していくあおちゃんに、園長先生らは、「そんなことやる必要はないでしょう」と驚いた。
「テント張って、窒息したらどうするんですか?」なんて心配の声が上がると、「僕が寝ないで、子どもたちのテントのチャックの開け閉めをやります!」とあおちゃんも応じる。
こうして、保育園で初のお泊まり保育が園庭で実施された。先生たちの心配は杞憂に終わり、子どもたちは大喜びだった。これがきっかけで、面白い企画をやる青年保育士として、あおちゃんは親たちからも人気を博す。次第にお母さんたちの宴会に呼ばれることも増えていった。
あおちゃんの企画は続く。
「竹馬おもしろくないですか?」と子どもたちと竹馬で跳箱を超えたり、坂道を走ったりする遊びで大盛り上がり。雪が積もれば、長野からスキーを持ってきて、滑って見せた。「遠くの山に行きませか?」と登山を企画し、東京都のバスを借りてみんなで山に出かけた。
子どもたちは、いつもの保育園では考えられないようなあおちゃん企画に大喜びした。大人気の保育士として3年間を務めたあげたあおちゃんは、奨学生の義務を無事に果たし予定通り退職し、29歳の4月に長野にのんたんかあさんと帰った。叔父さん叔母さんの保育園に戻り、あおちゃんは主任保育士として、のんたんかあさんは調理補助として働き始めた(のんたんかあさんはJALを退職した)。あおちゃんが、子どもたちのふれあいの楽しさを初体験した園に戻って感じたのは「保育内容が東京と同じじゃん」ということだった。
当時、保育園は、厚生省のガイドラインのもと、ジャングルジムなどの遊具や室内の仕様など、規定が決まっていた。あおちゃんからすると、東京も長野も保育内容が一緒で物足りない。東京時代のように、園でのお泊まり保育でテントを張ったり様々な企画を実践していくのだが、閉塞感を感じていた。主任保育士としての2年目、30歳の夏休みには感じていた違和感に嘘をつけなくなってきた。
「どうする俺たち? やめるのか? ここを・・・」
そんなときに、風の噂で飯綱高原に面白い園があると聞いて、子どもの森幼児教室を訪ねた。子どもの森では、建物は木で作られ、既成のおもちゃではなく、手作りの木のおもちゃが並んでいた。外にはロープが張られ、傾斜地があった。子どもたちは、そり遊びをし、川で遊び、雪で溺れ、アルペンスキーをしていた。親たちもお祭りや催しに大盛り上がりしている。当然、子どもたちの表情は生き生きと輝いている。あおちゃんは、衝撃を受けた。
「こんな楽しいことができるのか! これじゃん! 俺がやりたい保育!!!」
「目指すところはこれだ! 俺もやろうじゃないか!」
1989年4月、あおちゃん夫妻は、叔父さんの保育園を退職し、飯綱町の実家に戻った。実家の山を切り開き、幼稚園をつくるためだ。前年には長男の雄飛くんが生まれている。まずは土日の野外教室からはじめることにした。近所の子どもたちに呼びかけると30人近くの子どもたちが集まった。夏休みなどの長期休みには、東京などから子どもたちを受け入れて、キャンプをはじめた。平日は、土方として工事現場で働きながら、トラックの運転、バックホーの使い方、家の基礎の作り方などを学んでいった。平日は日雇い、土日は野外教室、長期休暇は子どもたちのキャンプ、そして実家のリンゴの行商。
「お金は貯まるし、スキルは身につくし、気は遣わないし、人生で最も楽しい期間のひとつだった」とあおちゃんは振り返る。こうして大地建設の機は熟していった。
あおちゃんたちは園を建てる場所を決めると、園の建設に本腰を入れ始めた。造成、平にする工事をはじめるために、近所の人が大型バックホーを貸してくれたものの、あおちゃんは小型バックホーの経験しかなかった。はじめは恐る恐る動かしていったが、途中から面白さにのめり込んでいった。
12月の雪の中、園の基礎を打つときには、土方の仲間たちが加勢に来てくれた。野外教室をしながら、園舎を建設し2年間がたつと、7割方建物が出来てきた。いよいよチラシを刷り、3000枚を近隣の自治体に配った。開園のチラシにはあおちゃんの当時から今に続く信念が詰まった文章が掲載された。
園児募集
三水の丘に立つ幼稚園
子どもたちの世界に身をおいて10年がたち、私達は子供達を取り巻く社会、自然環境の変化に、大きな危機感を感じています。便利さ、快適さのみの追求の結果、不便、不合理などの中から生まれてくる忍耐、知恵、工夫、器用さ、想像力などを失い、豊富な物の中で、物の大切さ、生命の尊さを忘れかけ、刺激的な音や色、ゲーム類のはんらんの中で、強い刺激に慣らされ、自然界の優しい刺激や弱さの叫びなどに反応できず、機械万能、交通手段の発達により、汗を流したり、身体を思いきり動かすことが、少なくなり、身体的な弱さをもたらされてきている子供達。そして学歴主義、能力偏重主義の中で、人間の価値を見失い自分で自分を管理するのではなく、他人、時間に管理され、自らの自由を得ることのできない子供達。子供(人間)の成長は、一つの種が土の中で育まれ、水・太陽・空気の力の中で成長し、世話をして実を結ぶ植物の姿そのものだと思います。健全な社会環境(土)、美しく澄んだ豊富な自然環境(水・太陽・木など)そして、地域文化(人々)が有機的に結びつく中で、生活体験していく事が必要です。
私達は、ここ三水村に、4年前に根をおろし、非常に微力ながら、少しでも子供達にそんな生活体験の機会を提供できたらと、野外教室を営んでまいりました。自然界の素材で物を作ったりキャンプや登山をしたり、幼児から大人まで一緒になって体験してきました。同時に、各地の子供、幼児施設も見て歩きました。そんな中で、幼児こそが今一番生活体験を欲し、素直に自分の中に取り込み、形成していくことができると痛感しました。幼児は環境世界を無条件に、そして、是なくすべてを感覚器官を通じて取り込んでしまうからです。
そこで、私達は新年度よりそんな幼児を対象に幼稚園を開く事にしました。この幼稚園の立つ場所は雑木林、りんご、ももなどに囲まれた自然の恵みいっぱいの三水の丘の上にあります。
自然の素材を題材に、子供達が五感、手足、知恵を一杯使って、たくさんのものを生み出して感動したり、日常の騒音や刺激的な音から離れて、鳥や虫の音、風や木立のささやきに耳を傾けたり、起伏の激しい地形の中を走り回り、土手を転げ、やぶを探検する。自然を舞台に自分達を表現する。
又、3,4,5才児が共に体験(縦割り混合保育)する事により、年長の子は年下の子の微力さを知り、手をさしのべてあげる。年少の子は、年上の子の力強さ、やさしさに憧れながら、精一杯がんばる。そして、時間きざみの生活ではなく、子供達の遊びの発展性、集中度を常に見ながら柔軟性をもって時が流れていく。
具体的には、キャンプや歩くスキーをしたり、パンやそば、野菜、果樹を作り、花を育てる。おもちゃ作り、ガラス細工、草木染め、ジャム作りなど身近なものを自分で作る。オペレッタを演じたり美しい演奏を聞いたり、家畜を飼育したりなど。こんな生活(保育)を子供達と共に営んでいきたいと考えます。
私達は、子供達が自然の偉大さを知る中で、共に助け合い、思いやりの心をもちながら、すべての人々動植物が、自然の一員である事を確認でき、様々な体験を通じて学んでいける環境、施設を精一杯準備していくつもりです。
ぜひ、この丘に足を運んで頂ければ幸いです。そして、共感できれば・・・、
入園をお待ちしております。
大地 青山繁・伸子
30年前にあおちゃんが書いた文章だとは思えない。今、あおちゃんが話していることとほとんど変わらないからだ。このチラシの反響はいまひとつだった。
ある日、園の工事現場に見学の人がやってきた。
「汚ねえ、ドロドロじゃねえか。」
「こんな山奥じゃん」
そんなセリフを残して帰っていく人もいた。それでも、何人かの意欲的な保護者達は説明会に足を運んでくれ、入園届けを出してくれた。
いよいよ1993年の春、幼稚園大地は開園を迎えた。