第37回
「森は海の恋人」カキじいさんの旅立ち
2025.05.01更新
「漁師たちが山に大漁旗を掲げてブナなどの植樹活動をしている」と、僕がこぶな書店の小鮒さんに聞いたのは、東京に暮らしていたころだった。植樹運動の名前は「森は海の恋人」。リーダーは畠山重篤さんという気仙沼のカキ漁師だ。畠山さんたちが、植樹をはじめたのは36年前のこと。ブナやクヌギ、ナラなどの落葉広葉樹の森の存在が、海で牡蠣が豊かに育つのに大切なことを知ったからだ。
樹々はその葉を落とすと、腐葉土をつくる。このときに、フルボ酸という成分が生まれ、鉄とくっついてフルボ酸鉄になり、川を通して海に運ばれる。カキが食べる海の植物プランクトンが育つために、一番だいじなのは、このフルボ酸鉄なのだ。だから、森が豊かな海には、カキがよく育つ。このあたり詳細は、畠山さんが『鉄は魔法つかい: 命と地球をはぐくむ「鉄」物語』(小学館)という本で魅力的に解き明かしている。
植樹運動で植えられた木は、5万本に及ぶ。いまや気仙沼だけでなく日本中でこの「海は森の恋人」運動は広まった。畠山さんは活動が認められ、2012年には国連が表彰する「フォレストヒーロー(森の英雄)」にも選出された。
僕が畠山さんに初めて会いに行ったのは2022年、長崎の諫早湾だった。一緒に、諫早の海を眺めて夜はウナギを食べた。「諫早で諫早湾のウナギが食べられるように海を戻さないといけない」という言葉が印象に残った。
半年後、僕は息子たちを連れて、畠山さんの漁場である舞根湾を訪ねた。2011年には、津波に覆われてすべてを流されたというこの湾。いまは、牡蠣を吊るすいかだが、ずらりと並んでいた。海を見渡す書斎を訪ねると、畠山さんが出迎えてくれ、息子たちにお菓子をプレゼントしてくれた。僕は、海から揚がったばかりのカキをいただく。海水の塩味が残っている。これほど美味しいカキを食べたことのは初めてだった。
畠山さんが、湾にある川と海が交じり合う汽水域を案内してくれる。子どもたちは、海辺の生物の楽園になっている汽水域で夢中で遊んでいる。畠山さんは、その様子を目を細めて見つめながら、フランスで出会ったカキの話をしてくれた。
畠山さんがフランスを訪ねたのは1984年のこと。ランドック地方、ローヌ川河口のカキ養殖場だった。畠山さんが驚いたのは、そこで養殖されているカキのルーツは日本のカキだったことだ。フランスのカキが疫病の影響で全滅の危機に瀕したのは、1960年代のこと。その窮状を救うために、疫病に強い宮城産の種ガキが送られた。そのおかげで、当時のフランスのカキの養殖業者たちは息を吹き返した。
畠山さんは、「宮城種がなかったら、私たちは生きていけませんでした」と、現地の養殖業者の方たちから握手まで求められた。その後、「フランスと日本のカキのために!」と何度も乾杯を重ねたという。
畠山さんは、世界中をカキのご縁で歩いてきた。どのエピソードを聞いても、スケールが大きくて、ワクワクしてくるものだった。81歳になっても、エネルギーで満たされた畠山さんには、取り組みたいプロジェクトがたくさんあった。周囲の人も、その果てることないエネルギーから元気をもらっていた。
そんな畠山さんが、2025年4月3日に亡くなった。僕は、畠山さんの訃報をドイツで受け取った。その翌週にパリに出かける予定があったので、パリのオイスターバーでカキを注文した。そして、畠山さんの冥福を祈って、献杯した。
「畠山さん、このカキももしかしたら宮城種かもしれません」と心の中でつぶやいた。
国連のフォレストヒーローを受賞するときに、ニューヨークを訪ねた畠山さんは、かつてニューヨークのハドソン川流域はカキで埋め尽くされていたことを知った。いまは摩天楼が立ち並び、有名なオイスターバーに行っても、ハドソン川産のカキはひとつもない。
「ニューヨーカーも、ハドソン川流域に木を植えるべきだ」と書き残している。
「人類が生き延びる道は明白だ。生ガキを安心して食べられる海と共存することである。」
畠山さんの想いを、僕は受け継いで、生きていきたい。